初の単著『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社)が人文書として異例のベストセラーとなった阿部幸大氏(筑波大学人文社会系助教・日米文化史)。同書は東大・京大の生協でも人文書ランキング1位に輝くなど、「新時代の知の羅針盤」として大きな反響を呼んでいる。

彼が4月発売の新刊『ナラティヴの被害学』(文学通信)で取り組むのは、「暴力にまつわる諸問題」だ。

〈なにが暴力で、なにが暴力でないのか。誰が被害者で、誰が加害者なのか。あなたはその当事者なのか、それとも部外者なのか──。ある複雑な事象を、加害者たる「やつら」と被害者たる「われわれ」という二元論によって単純化するナラティヴは、暴力は「やつら」の問題なのだとわれわれに教える。

そうしたナラティヴが、いかにわれわれの思考を、感情を、言動を、そして誰に同情し、誰を嫌悪するかを強力に規定しているか。ナラティヴの被害学とは、そのことをクリティカルに検討するための枠組みである〉

本書は論文集であると同時に、『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』の実践例集であり、世界で活躍する人文学徒のための教育書でもある。今回、その冒頭第1章を「現代ビジネス」で特別公開する。

「玉音放送」のナラティヴ

一九四五年八月一四日、日本政府はポツダム宣言を受諾した。昭和天皇裕仁が帝国臣民にむけてレコードに吹き込んだ「大東亜戦争終結に関する詔書」、いわゆる「玉音放送」がラジオで全国放送されたのは、その翌日である。現代仮名遣いに直してもかなり読みにくい文章なのだが、その前半部分に、ひとまず目をとおしてみよう──

そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)をはかり万邦共栄の楽しみを共にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々(けんけん)措かざる所/さきに米英二国に宣戦せる所以もまた実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて他国の主権を排し領土を侵すが如きはもとより朕が志にあらず

然るに交戦既に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕が陸海将兵の勇戦朕が百僚有司の励精朕が一億衆庶の奉公各々最善を尽くせるに拘らず戦局必ずしも好転せず/世界の大勢また我に利あらず

しかのみならず敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜(むこ)を殺傷し惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る/しかもなお交戦を継続せんか遂に我が民族の滅亡を招来するのみならずひいて人類の文明をも破却すべし

かくの如くは朕何をもってか億兆の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗の神霊に謝せんや/是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり

ただちにわかるのは、これは敗戦の事実を告げるという用途を果たすだけの文章ではないということだ。裕仁はこの文章で、いったいなにをしているのか。とりあえず簡単に分析してみよう。

まずここでは、すくなくとも三つのことが言われている。第一に、大東亜戦争の目的は侵略ではないということ。第二に、戦局が不利であるということ。第三に、原子爆弾の投下によって人類の滅亡の可能性が出てきたということ。

これらの点について、第二の戦局が不利であったという認識はもちろん事実であり、また第三の原爆が人類の滅亡を引き起こしかねない凶悪な兵器であったという指摘も、およそ正しい認識だったと言ってよいだろう。だが第一の、大東亜戦争の目的は侵略ではないという点は、史実にてらせば誤りである。だからこの文章は内容的に、(1)は偽、(2)と(3)は真であると、ひとまず考えることができる。

このシンプルな読解を念頭に、まずは本書のタイトル『ナラティヴの被害学』に含まれる前半部分「ナラティヴ」について説明してみたい。

「ナラティヴ」とは日本語に訳せば「物語」という意味になるが、本書では「ナラティヴ」に、もうすこし限定的な意味を与えようとしている。まず、ナラティヴとは、ある事象に与えられる、「このような原因や動機や順序にしたがって、このような一連の出来事が起こりました」という説明である。それは、なんらかの対象について知るための回路であり、「なるほどそういう原因と動機と順序で、そういう出来事が起こったのか」と人が理解するための装置である。ナラティヴとは解釈であり、われわれは、このナラティヴという「窓」を介して対象にアクセスすることによってのみ、その対象から意味を受けとることができる。つまりナラティヴとは、知識の形式である。

本書ではこのナラティヴという装置に着目するわけだが、ナラティヴに着目するとはつまり、誰がなにをどのように説明し、それによって誰がなにをどのように理解するのか、その知の伝達の次元に着目することを意味する。だからナラティヴ分析においては、それがフィクションを自称しているかどうか、あるいは真実であるか虚偽であるかどうかとは、本質的には関係がない。ウソだろうと本当だろうと、誰がどのような目的でそのナラティヴを紡いだのか、そしていかにわれわれの認識や思想や感情がこのナラティヴという知識の形式によって左右されているのか、それがナラティヴという次元にフォーカスすることで見えてくる問題だ。

ナラティヴとそのメカニズムを批判的(クリティカル)に捉えられるようになること、それがこのイントロダクションの第一の目的である。

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