ロックバンド・SOPHIAのボーカルで俳優の松岡充が、デヴィッド・ボウイの遺作ミュージカル『LAZARUS』(脚本共作・エンダ・ウォルシュ氏)に主演する。同作の日本初演。ウォルシュ氏の作品を4回手掛けてきた白井晃氏の演出で、5月から6月にかけて神奈川、大阪で上演される。松岡にとって今年はSOPHIAデビュー30周年、役者デビュー20周年。憧れのボウイが誕生させた名作の主演オファーを心底喜んでいる。そんな松岡へのインタビューの「後編」では、ヴィジュアル系ミュージシャンへを歩んだ道のり、趣味を含めたプライベートを語っている。(取材・文=Miki D’Angelo Yamashita)

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 母親がタイガースのジュリー(沢田研二)を追っかけていた。「息子に真似させたい」とさんざん歌を聴かされ、髪の毛も長く伸ばしていた。人前で歌うとみんなが喜んでくれて、お小遣いをもらえるのがうれしかった。松岡は「ストリートミュージシャンの先駆けかも」と言い、「それが歌の目覚め」と振り返る。洋楽を聴き始めたのは車好きの父親の影響。運転好きの父親の助手席で、アメリカンポップスやビードルズを聴いていた。

「中学生になってロックに触れ、高校に入ってからは『音楽をきちんとやりたい』という人たちが集まりました。『何からコピーする?』という話になると、『T・レックスでしょう、いやいや、ボン・ジョヴィでしょう』とバラバラなんですが、僕はデヴィッド・ボウイに行き着くんです。そんな頃に『ボーカルをやってくれないか』と声をかけられて、バンドに加入することになりました。ライブハウスって何かとケンカになるんですが、僕はケンカが強いと思われていたので、『松岡がボーカリストでいれば、他のバンドが黙るだろう』ということで、『用心棒』として声をかけたらしいです(笑)」

 プロの道に進もうと思ったのは、高3で大学受験に失敗してからだった。推薦入試を受けたものの、内申点が足りずに不合格。「お前は日頃からの努力が必要なんだ」と担任に説教された。そして、「大学進学を諦めてどうする? ロックスターになるしかない」と思い、音楽専門学校への進学を決めた。

「大学に進学して就職する未来に余裕で勝てるのは『ロックスター』と考えたんですね。プロのステージを作っている裏方もプロ。そのノウハウを学んでおけば、表ステージに立つ時にも、どうやって歌や演奏をより高いレベルに上げられるかが分かる。なので、『レコーディングのやり方、ライブの作り方、スタジオでのセッティングなどを学びたい』と思ったんです。アーティストとして芽が出なかったとしても好きな仕事に関われる。『だから、専門学校に行きたい』と親に伝えたら、『そんな金はない』と即、却下。ただ、おばあちゃんが貯めていた年金を『入学費用に』と出してくれたんです。おばあちゃん子の僕が、おばあちゃんのおかげでロックスターになれたんです。デビューして給料をもらった時は、まず、おばあちゃんにそのお金を返しました」

 音楽活動は小さいライブハウスからスタートし、連日何百人も入る大阪のライブハウスに進出。その中で一番かっこいいバンドを選び、「めちゃめちゃかっこいいんだけど、ボーカルがいまいちだから僕に変えなさい」と伝えて加入。それがSOPHIAの前哨戦(ぜんしょうせん)だった。SOPHIAを結成すると、お互いに曲を作り、デモテープを持って、プロフィールや作品性をアピールする資料を自らワープロで打ち、上京しては、レコード会社のプロデューサーを片っ端から回った。

「その途中、知り合いを通じて、『LUNA SEA』の河村隆一さんにお会いする機会があって、『デモテープ、持ってる?』と言っていただきました。テープを渡した後、音楽の感想を言ってくれると思ったら、『お前は目がいいから、すぐ東京に来い』と言ってくださったんです」

 間もなく、メジャーデビュー。アイシャドウを塗ってイヤリングをつけ、ジュリーに影響され、母親の口紅を塗っていた幼少期。大人になると、「ボウイのような音楽がやりたい」ではなく、「ボウイのような存在になりたい」と憧れた。

「ルックスがその都度変わるのが、かっこよかったんですよ。衝撃的なスタイルをどんどん提示してくる。音楽を基盤にしたそのファッション性に憧れてメイクを始めたんです。それが、いわゆる世の中でいうヴィジュアル系の走りでした。でも、当時はヴィジュアル系という言葉にみんな嫌悪感がありました。L’Arc~en~Cielが爆笑問題さんにテレビ番組で『ヴィジュアル系ですよね』と言われて、怒って帰ってしまったんです。それぐらい抵抗があった。メジャーデビューの時には僕も長かった髪を切りました」

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