【BS11】偉人・敗北からの教訓「第60回 片桐且元・豊臣家滅亡を見届けた家老」2024年9月21日放送分見逃し配信

豊臣家の滅亡を見届けた家老・片桐且元の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1556年、近江国に生まれた且元は浅井長政に仕えた後、羽柴秀吉の家臣となる。且元がその名を轟かせたのは賤ヶ岳の戦い。加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる活躍をし、秀吉の勝利に貢献したのだ。その後、秀吉の天下統一事業を陰で支えた且元は、関ヶ原の戦いの後、豊臣家の家老を任される。

1614年、徳川家康が方広寺の梵鐘に刻まれた文字に激怒し、豊臣家と徳川家の間に亀裂が走る。すると、且元は弁明のため、駿府を訪れる。その後、大坂城に戻った且元は、主君・豊臣秀頼に豊臣家を守るための三つの条件を提示した。ところが、その条件は全て拒否され、且元は城を追われてしまう。そして、大坂の陣が起こり、豊臣家は滅亡の道を歩んでしまう。且元はなぜ豊臣家を救うことができなかったのか?

大坂城からの退去を余儀なくされた且元。すると、家康は、徳川家との取次役を追放したのは宣戦布告に等しいと判断し、諸大名に豊臣攻めの命を下す。豊臣家を追われた且元は不本意ではあるが、徳川軍の一員として大坂攻めに加わるしかなかった。豊臣家の終焉を見届けた且元はその20日後、病によって、この世を去った。もし、且元が提示した条件を秀頼と淀殿が受け入れていたら、どうなっていたのか?

(2024年9月21日放送の期間限定見逃し配信です。)

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【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)

【配信期間】
2024年9月21日~10月14日まで

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【番組情報】
全国無料放送BS11「偉人・敗北からの教訓」
📺毎週土曜日 よる9時00分~9時55分放送
番組公式HP:https://www.bs11.jp/entertainment/ijin-haiboku-kyoukun/

<番組詳細>
「敗北」「失敗」から、偉人の人物像に迫る!
毎回、偉人たちがおかした「歴史的な大失敗」から、その背景、要因、影響などを読み解き、
偉人の人物像を浮き彫りにするとともに、今を生きる私たちの教訓としていく新しい歴史バイオグラフィー。

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29件のコメント

  1. 且元の敗北というより、秀頼の敗北。且元なら秀頼と幸村をはじめ浪人衆たちの橋渡しになれたのではないか?

  2. 徳川幕府と他の幕府との違いは、朝廷を支配出来たか出来なかったかの違いは相当大きい。公家諸法度を公布出来た徳川幕府は征夷大将軍よりも大きい功績だと私は考えます

  3. 三条件は且元が考えた事だったのか?
    家康側から突きつけられたと思ってた
    浅井姉妹がいるのだから、淀殿は江戸に行けばまた違った形で豊臣家は残っていたのに
    そうすれば、家康が死んでまたどうなっていたかはわからない
    でもまた戦国時代が戻っちゃー江戸250年は無かったわけで、今俺がここにいるかはわからない

  4. 伊東潤先生、中西さん、いつもありがとうございます😊
    新政府に参画した、徳川家達「いえさと」も、明治、大正に活躍されましたね😮

  5. 東條英機に若槻禮次郎(家康型戦略家)が日本に大東亜共栄圏をやれる国力はない
    と言って説得しますが、東條は聞きません。
    戦略脳を持つ者は理解できるが、戦略脳の希薄な者は聞く耳を持たないのです。
    残念ながら人間の知能はそう出来ているのです。
    秀頼・景勝・氏政の行動気質では重要なときに一歩が出ず、飛び出せば失敗という
    困った気質なのです。さらに淀殿までが同じ気質。年月を経ようと同じ判断をして
    しまいます。関ヶ原と大阪の陣の二度です。
    こうした主君に仕える家臣は、たとえ戦略家であっても巻き添えになってしまいま
    す。大谷吉継(家康型)宇喜多秀家(頼朝型)小西行長(頼朝型)真田信繁
    (信長型)などです。
    片桐且元も頼朝型戦略家です。纏めた案は豊臣にとり実力からの最高の出来なので
    す。家康の要請を聞き其の上で豊臣を生かす。
    しかし淀殿・秀頼は理解出来ないのです。
    小西行長は朝鮮戦役で秀吉を騙してまで停戦を模索します。度胸と的確な判断なく
    して出来ぬことです。
    片桐且元も度胸ある戦略家です。しかし淀殿・秀頼に戦略脳がないので説得は無理
    でした。
    豊臣を追われた且元は豊臣のことをそれほど考えてはいないでしょう。戦略家は
    十分に仕事で責任は果たしたと考えるからです。
    家康型戦略家の黒田官兵衛が秀吉に追われると仕事で十分にこれまで貢献した。
    後は自由とばかり関ヶ原では家康について九州で戦う。
    こうした行動が戦略家のとる行動気質なのです。

  6. チャチャに振り回された。大阪維新の会のよう、浪人を家臣として、近畿、中四国と固めて、秀頼が出陣、真田幸村プラス毛利、蜂須賀の残党という武人に指揮は任せれば良い

  7. これ凄く大事な視点だけど「牢人衆は別に豊臣が大事じゃない」ってのは間違いないのよね。真田とかの忠義がやたら強調されがちだけど、基本的に牢人衆に合ったのは「一発逆転HR」だから。毛利勝永は忠義……もあったかもしれないけど。
    方広寺の事件も、あれあの文を入れた側が「諱を入れたのは手落ち」って認めてるからね……言いがかりをつけるだけのスキはあったのよ。
    家康ってガキの頃は今川義元、青年期に織田信長を味方に相手は武田信玄・北条氏康ってバケモン達相手に立ちまわってきた男だからね……且元や秀頼、淀殿達からすれば余りにも荷が勝ちすぎる相手ではある。

  8. 彼が賤ヶ岳の戦いでの七本槍として武勲で出世していたとは、知らなかった。関ヶ原の戦いで多くの有力武将が亡くなり、残った彼が家老となった周り合わせで後の苦労の種を生んでいるのが、彼の定めであったようにも感じられる。強大で狡猾な家康との交渉は決して楽には進まず、絶えず気苦労が多かったことだろう。その上、淀殿秀頼陣営の意向も十分に伝えねばならない役回りは厳しい。未だ豊臣家が天下を統べるという感覚のある淀殿、実際に相対している且元のみが知る徳川家の強固な力の現実との間で苦しんでいる彼の姿が浮かぶ。そんな彼が苦渋の選択をし自ら選定した両者を結ぶ条件すらはねつけられた際の苦悩は、想像に難くない。彼の考えを共有できる仲間がいなかったことも辛い。取次役追放は決裂を意味し、宣戦布告と見なされるこの時代、彼はどんな思いで大阪攻めをしたのだろう?!豊臣家滅亡後1ヶ月足らずで病没したのは、彼の厳しい使命を果たした末の自身の運命を静かに受け入れた姿のようにも感じられる。

  9. 今回の且元の人生は これからも多くのビジネスマンの 考えるべき精神の礎になりますね。伊東さん。有難う御座いました。。。。。。後期高齢者の一人より。

  10. 且元は様々な事柄に対して1人で抱え込み家臣達に指示をしていたのかなぁ、側近に思いを漏らさずまた側近も且元の葛藤を周りに言わなかったのかなぁ🤔だとしたらどんなに良い考えや行動も豊臣方には伝わらなかっただろうなぁ。また戦乱の世を幾つもの合戦を潜り抜けて来た人という事で尊敬・神格化されて且元 に近寄れる人がいなかったのかもしれないなぁ🤔今回も面白かったです👍

  11. 且元の屋敷に家康を泊めたという逸話はおもしろいね。
    さすが。家康。先を読んでるよね~。周りにどんな人物がいるかみて巻き込むのが上手。
    こういう人じゃないと天下は取れないんだね。

  12. 家康の死を待ったとしても、それ以上の苛烈さを持っていた秀忠が健在なので豊臣家は詰みな気がしてます

  13. 豊臣側か…真っ先に真田が思い浮かぶな
    あと石田三成
    結局もう負け覚悟でいたんだろうけど

  14. 昔の大河ドラマ「葵徳川三代」で、夏の陣のあと「片桐家から且元急に病死→息子相続願いが届いてますよ、どうします?」っていう報告が入る。家康は一瞬で「今日は秀頼の月命日、殉死に間違いない」と見切り、それを口にする。「報告に虚偽がある可能性があるなら自分が調べましょうか?」(=取りつぶしや厳罰の口実になる)と提案する京都所司代板倉勝重に対し家康が「いや、真相究明の必要はない。片桐家の相続もそのまま申請通り認めてやれ。・・且元の立場になって考えれば、気持ちはわからんでもない・・今回は片桐家が困るような余計なことはしなくていいよ」というようなことを言って、罪悪感の入り混じった悲しげな少しのほほえみで、その場にいた秀忠と勝重を見る。秀忠は「それもそうだよね・・・且元のここ数年の板挟みの気苦労考えたら、これは空気読んであげないとね・・」って瞬時に理解し、目線を落として軽く複数回頷き、勝重も、京都や大阪での大名の監視が仕事の人間なのだが、「さりながら・・」等一切言わず、何も言わず、納得して従う。

    ほんの30秒か1分くらいのシーンだったと思うけど、津川正彦、西田敏行、鈴木瑞穂、3人の顔の表情や仕草だけで、徳川家や家臣団の心の奥底にすこーしある、「豊臣家のために尽くした人々への罪悪感・無理やりいいがかりをつけて強引に滅亡に追い込んだ後ろめたさ」を感じれて、すごくよかった。

  15. 今回の教訓の「物事を対症療法的に解決してはいけない」は、ビジネスや家族関係では、非常に大切な考えだと思います。
    なぜなら、どうしても何か問題ができると対症療法的な解決してしまい、後で後悔するからです。
    常に、問題が発生したら先の展開も視野に入れて問題解決ができるように癖をつけていきたいです。

  16. 且元が孤立したのは、もし戦いになっても豊臣恩顧の諸大名が味方になって勝てるという希望的な空気が豊臣家中で大きかったからなんだろうな 妄想もみんなで唱えれば現実に思えてくるし

  17. 且元は素晴らしい中間管理職の政治家タイプ・・・と言うより官僚といった方が良いのかな?その価値を淀も秀頼も武将浪人衆も分かっていない。

  18. 且元の追放が大坂の陣の契機ですね。そりゃ今まで直接交渉していた相手を追放してちゃぶ台返ししたわけですから。

    且元は現状を理解しているからこそ高家として幕府で生き残る事が豊臣家存続の道だと理解していたんでしょうね。ところが大野兄弟と淀殿が牛耳っていた豊臣家は現実が見えていなかった。

    豊臣家滅亡の後すぐに禁中並公家諸法度を制定します。朝廷や公家を管理下に置くのに豊臣家は邪魔だった。だから高家としてなら豊臣家は存続が出来ていたと思います。

  19. 片桐且元の生誕地を何度か訪れた事あります
    浅井家の小谷城と近い場所です、脇坂安治の生誕地も近くです

  20. 日本の電機メーカーみたいに感じる。早めに転職する人がいる一方、会社が生き残るために必死に仕事をして、上司に意見するも、逆らった者としてリストラされる。無能なイエスマンを重宝すると、組織が崩壊する。そのイエスマンとは、事業部長、部長、課長です。

  21. 家康が大義名分で豊臣に一大名としての条件を出して呑まないことがわかってたように、且元も豊臣家のためにやることやって淀殿や取り巻き、牢人衆からの反発を受けて離反する大義名分を得た的な。

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