ほとんど知られていない三国志を終わらせた国の末路が酷すぎた…(ゆっくり実況)

こちらではキングダムを専門に解説しています。→ https://youtube.com/@kingdomnosekai?si=0A6yM-oa8NZeoE8-

47件のコメント

  1. 司馬炎が天下統一して徳川家斉顔負けの女狂いになっちゃってから一気に晋が傾いちゃったな。

  2. 八王の乱、半分くらい賈南風とかいう毒婦のせいでは?
    コイツ1人で何人564てるのよ

  3. 司馬懿の役職「太傅」は皇太子の教育係、皇太子のためのミニ内閣・政治研究会のようなものを組織して皇帝死後に丞相に就任する
    曹芳が8歳で即位、曹芳に子供が生まれて立太子して曹芳から代替わりするまで待つのは司馬懿ではどうやっても無理
    その意味での名誉職
    (もっとも司馬懿のクーデター時は曹芳は17~18歳くらい)

  4. 曹操は皇族に力を持たせれば必ず継承権争いなどの対立を招くと考えていた。
    これが魏の国策となってね。
    皇帝以外の皇族には出来るだけ力を持たせないようにした

    その結果、皇帝が危ない時にそれを守る者はおらず。司馬氏による簒奪を許してしまった。
    その失敗から司馬氏の晋は、皇族にしっかりした力を持たせたのだが
    その結果、曹操の懸念した通りのことになり、皇族同士の内乱が相次ぐことになったのだよ
    江戸幕府では、幕府体制を支えるために御三家など、徳川一族に一定の力を持たせたが
    幕府運営にかかわることを禁止した。
    こういうバランスをとることが必要だったのだろうがな。それがどちらも出来てなかった

  5. 9:28 司馬昭が司馬攸をこんな立ち位置にした時点で間違いは始まっていたって説もあるンですよねぇ。
    司馬昭が晋王に封ぜられたときに「司馬師の家が本家だから後継者は司馬攸」なんてやろうとして兄弟確執の原因作ったもんだから西晋が大前提にしようとしていた一族の結束は王朝ができる前からヒビが入っていたわけで。

  6. 司馬懿、司馬師、司馬昭、司馬司馬司馬司馬…
    異民族( *`ω´)「司馬司馬うるさいんじゃー!耳にタコ出来ただろうがゴウラ〜‼︎」
    晋滅亡。で宜しいか?

  7. 八王の乱を収めた司馬越は各地の平定に奔走してたがね。
    太傅になって後は洛陽に居るよりも各地を転戦してる期間の方が長い。
    晋書にも司馬越は「出ては征伐し、入っては慰撫した」と記載されている。
    関中には弟の南陽王模を、荊州にも弟の高密王略を、揚州には瑯琊王睿を送り込んで各地での晋の支配を回復し、司馬越自身とこれも弟の新蔡王騰は中原で匈奴と対峙していた。
    その上、司馬越最後の出征で朝廷の多くの公卿、宗室諸王が付き従ってることから、輿論の支持は最後まで司馬越にあったと見るべきでは?
    府属に天下の賢才を集めたことを非難されるけどこれもおかしな話。司馬越の太傅府は実質の宰相府なんだから賢才を集めるのは当然といえば当然。

    むしろ足を引っ張ったのは懐帝の方ではないかと
    八王の乱で史籍に耽って客に会うこともせずに禍を避けたまだ20代の懐帝と、宗室の中でも経験豊富で乱を勝ちきった司馬越のどちらにより能力があるかは言うに及ばない。
    司馬越が戦ってる後ろで懐帝と外戚が追い落としを図るなら、司馬越サイドからしても粛正するしかない。

  8. やはり苦労しながら実力で成り上がった世代以外は世の中を舐めた所が出てきて自滅する率が非常に高いな

  9. 賢人が策を組んでも賢人がいなくなると凡人にはその策を正しく用いることができなくなりやがてと

  10. 西晋の司馬氏を見てみようの巻
    【司馬八達】
    司馬朗(伯達)171年 – 217年
    司馬懿(仲達)179年 – 251年
    司馬孚(叔達)180年 – 272年
    司馬馗(季達)  ? – ?
    司馬恂(顕達) ? – 230年代?
    司馬進(恵達) ? – 230年代?
    司馬通(雅達) ? – ?
    司馬敏(幼達) ? – ?

    【司馬懿の九子と王位】
    司馬師(子元・景帝)
    司馬昭(子上・文帝)
    司馬亮(子翼・扶風王→汝南王)
    司馬伷(子将・琅邪王)
    司馬京(子佐・後継が燕王司馬機)
    司馬榦(子良・平原王)
    司馬駿(子臧・汝陰王)
    司馬肜(子徽・梁王)
    司馬倫(子彝・琅邪王→皇帝→退位)

    【司馬炎と二十七王一覧とその父】
    司馬炎(武帝)→司馬昭
    司馬攸(斉王)→司馬昭
    司馬鑒(楽安王)→司馬昭
    司馬機(燕王)→司馬昭
    司馬榦(平原王)→司馬懿
    司馬亮(扶風王)→司馬懿
    司馬伷(東莞王)→司馬懿
    司馬駿(汝陰王)→司馬懿
    司馬肜(梁王)→司馬懿
    司馬倫(琅琊王)→司馬懿
    司馬孚(安平王)→司馬防
    司馬望(義陽王)→司馬孚
    司馬洪(河間王)→司馬望
    司馬楙(東平王)→司馬望
    司馬輔(渤海王)→司馬孚
    司馬晃(下邳王)→司馬孚
    司馬珪(髙陽王)→司馬孚
    司馬瓌(太原王)→司馬孚
    司馬衡(常山王)→司馬孚
    司馬景(沛王)→司馬孚
    司馬権(彭城王)→司馬馗
    司馬泰(隴西王)→司馬馗
    司馬綏(范陽王)→司馬馗
    司馬遂(済南王)→司馬恂
    司馬遜(譙王)→司馬進
    司馬睦(中山王)→司馬進(司馬榦の子)
    司馬陵(北海王)→司馬通(司馬肜の子)
    司馬斌(陳王)→司馬通(司馬肜の子)

    【八王とその父】
    司馬亮(扶風王→汝南王)→司馬懿
    司馬倫(琅琊王→趙王)→司馬懿
    司馬瑋(始平王→楚王)→司馬炎
    司馬冏(斉王)→司馬炎
    司馬乂(長沙王)→司馬炎
    司馬穎(成都王)→司馬炎
    司馬顒(太原王→河間王)→司馬瓌(八達三子司馬孚の子)
    司馬越(東海王)→司馬泰(八達四子司馬馗の子)

    これで血の流れが少し見えてきたんじゃないかなと。

    八王の系図
    ①司馬亮(扶風王→汝南王)
    司馬防→司馬懿→司馬亮
    ②司馬倫(琅琊王→趙王)
    司馬防→司馬懿→司馬倫
    ③司馬瑋(始平王→楚王)
    司馬防→司馬懿→司馬昭→司馬炎→司馬瑋
    ④司馬冏(斉王)
    司馬防→司馬懿→司馬昭→司馬炎→司馬冏
    ⑤司馬乂(長沙王)
    司馬防→司馬懿→司馬昭→司馬炎→司馬乂
    ⑥司馬穎(成都王)
    司馬防→司馬懿→司馬昭→司馬炎→司馬穎
    ⑦司馬顒(太原王→河間王)
    司馬防→司馬孚→司馬瓌※1→司馬顒
    ⑧司馬越(東海王)
    司馬防→司馬馗→司馬泰※2→司馬越

    ※1司馬瓌は太原王です
    ※2司馬泰は隴西王→高密王※3になってます
    ※3高密は青州です

  11. 早口言葉みたいな司馬司馬司馬司馬司馬司馬で、間違えて殺された司馬もたくさんいたでしょうね😅

  12. 後漢末〜三国時代はその後400年近く続く戦乱と殺戮の歴史の序章に過ぎない。
    文明の中心であった華北は激しい民族浄化により本来の漢民族は消滅し、
    住み着いた異民族が漢民族の風習や文化を真似して漢民族を自称するようになる。

  13. 魏文帝曹丕が本格的に始めた王朝交代システム「禅譲」が後世に遺した影響は日本を除く東アジア全域へ非常に大きく計り知れない。
    実力者が帝を脅迫して帝位譲位を迫るこのやり方。
    曲がりなりにも400年以上続きそれなりに権威があった劉氏から簒位した。
    このやり方は20世紀に発生した辛亥革命まで継承された。
    その結果、王朝や政権はいつか終わるモノという意識が根付き朝廷に対する真の敬意や忠義を示す者は次第に減少した。
    政権が傾き滅亡の危機になるとカンタンに見捨てる。
    この意識は近代を経て現代でも続いている。
    主君への忠節を説く哲学宗教が生まれた国とは思えない。

  14. 一族で争いを繰り返して滅びる最も大規模で愚かな一族
    短期間で滅亡するまで争い合うってなかなかないよ
    しかも司馬熾が死んだの見てるのに司馬業と司馬保はろくに助け合わない始末
    ここまで助力しない一族も珍しい。西晋は本当におもしろ国家だ

  15. 三国志みてると孔明が敗れ司馬懿が勝ったかの様に見えるが、司馬懿の子孫同士が潰し合って滅亡する後世だったとは。

  16. 中国史は読んでて面白いけど魏とか漢とか同じ名前の国がいくつも建つし、
    似たような名前の人物もいるからややこしい。

  17. これで、漢民族国家は滅亡する
    南朝が亡命国家として辛うじて存続したが、鮮卑族の北朝隋唐による統一で、漢民族は完全に滅亡した
    一番分かりやすいのが、漢字の漢音読みが無くなり、鮮卑族の唐音読みが始まる
    隋唐時代はまだ混在してたが、宋代に入り、漢音読みは日本以外では絶滅した
    これが、今の中国語の誕生である

  18. 劉聡が劉備の血を引いていたかは不明だが、もしこのまま劉聡がもっと基盤が強かったら、蜀の劉備が実質的な三国統一を達成していたかもしれない。

  19. 炎だって、男の子。
    立派な立派な、男の子。
    笑。
    司馬楽、司馬楽、司馬楽。
    司馬楽のお待ちを〜〜〜。

  20. 数多の英雄が野心を胸に戦ったロマンあふれる物語の結末がまさかこれとはね…
    初めて知った時はものすごく悲しくなった

  21. ここからの五胡十六国時代に古代中国人はほぼいなくなるw 
    我々が史記や三国志で知る中国人と今の中国人が違うのはそのためか。

  22. 華北を統一したのに数年で反乱がおこり北朝初代王朝になれなかった前秦よりいいやんかw

  23. 魏書、烏丸鮮卑東夷伝の中に魏志倭人伝と伝わる記述がある、

    景初2年(238年)に、邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあり、これが事実であれば、拝謁した皇帝は曹叡ということになる、

    その前年に呉が江夏を攻撃した、そんな忙しい時に卑弥呼から従属したいと洛陽に使者がきた、

    彼らから見たらなんと貧しい辺鄙な国から来たのだろうと思った筈だ、貢物を見てもみる気もしない様な物を並べたに違いない、

    後に陳寿が記録したわけではあるが、実際に使者と会ったわけではなく、どんな人々が来たのか会った人から聞いた事を書いたのである、

    群臣達は辺鄙の倭国など眼中になかったが、呉を挟み撃ちにできると考えた臣もいるらしい、汝をして親魏倭王となすと返答したらしい、

    卑弥呼の使者と会ったのは曹叡の死後一族から迎えられて皇帝となった曹芳という説もある、

    その時政務に関しては曹爽と司馬懿が取り仕切り司馬懿仲達が実権を握りつつあった、魏が晋に変わりつつある時に、正始2年(241年)、呉の朱然らが樊城を包囲して来た、

    この時に2回目の卑弥呼からの使者が来ているどうもこれは倭国が狙ってきている節もある、無論自国を高く売りつけるためである、

    正始7年(246年)毌丘倹と王頎が司馬懿の進言で高句麗を討伐している、これで魏志倭人伝に伝わる倭国は連絡往来が楽になった筈である、

    魏は倭国を過大評価して連携を結ぼうとしたのかもしれない、実は呉の方も倭国と誼を通じて味方にしようとした形跡がある、

    陳寿の筆致は晋の史家だった為、その後の倭国の事は散見できない、飽くまで魏と倭国の話し合いだったのであろう、

  24. 我が国の場合、平安末期までは朝廷が実権を握っていたが矢張りそれまでは皇族同士の内乱となった、天智天皇が亡くなると672年壬申の乱で大友皇子を倒した天賦天皇が即位した、

    その後武家の台頭で平氏源氏などが現れ、次第に皇族の親政は徐々にその姿を消していった、規模こそ違う物の司馬懿一族の様な事をしていたのである、物部氏蘇我氏の睨み合いは朝臣同士の争いである、

    乙巳の変で蘇我馬子の子蘇我蝦夷の子蘇我 入鹿が中大兄皇子(天智天皇)に暗殺されると(645年)と一旦は大規模な皇族同士の争いは収まる、

    その後平氏源氏の源平合戦が行われ朝廷は徐々に実権を失い権威は有っても武力を喪失していく事になる、

    源頼朝、前北条氏、足利尊氏、応仁の乱と時代は流れ皇室は荒廃して行く、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康となるも逆に戦国期を経て江戸時代には幕府より制約下に置かれてしまう、

    君臨すれど統治せずが次第に常態化して行く、幕末で薩長の支持を得て実権を半ば取り戻し明治開闢となる、

    明治天皇大正天皇と継続して海外にその勢力を拡大して行く日清日露、第一次大戦、中華事変、第二次大戦とまた進むにつれてまたいつの間にか実権のない傀儡政権の様な常態化に戻る、

    今では象徴として国民に慕われている、朝廷皇室が存続した最大の原因はその時代節目に幕府政府を首をすげ替えて任せてきたからではないだろうか、

    島国という特徴もあり、狭い国土ではどうしても皇室という仕組みが必要だったのではないかと思われる、

    長きに渡り戦乱に晒された大陸は、元の主人はその姿を消し存在しない、果たして我が国はどうであろうか、

  25. 幸楽苑の昔だが名古屋で店員の対応が悪かったね料理は1時間近くかかりレジの時そのことに一言言ったら早く食べたければ平日に来いよと言われたのが2度あった誘われていったからそれからいかなくなりました。確か関西から幸楽苑無くなったとか聞きましたが店員教育してないのかもね。

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