【ヤマト王権誕生】日本はなぜ大和で誕生したのか?【ゆっくり解説】
こんにちはゆっくり霊夢ですこんにちは ゆっくり魔理沙だぜ最近の教科書では大和 頂と言わずに山王建というんでしょそうだ な漢字の大和や大和との感動を避けるため に表記もカタカナだどうして最近は調定 って言わなくなったの子供の頃学校で習っ た大和調定の方が異言があって格式もある ような気がするんだけど確かになしかし 古代の権力構造や社会の実態の解明が進ん だ結果最初から大和一教支配だったわけで はないことが分かってきたんだ王家という ように改められたのはそういう歴史研究の 結果を反映したものなんだぜそうなのね昔 の教科書には大和帝が各地の勢力を次次に 支配下に収めたと書いてたから一教なんだ と思ってたわ古墳時代からアカ時代にかけ ての政権は地方豪族や種族の連合隊で成立 初期の権力の集中度は低かったと考えられ ているじゃどうやって大和が豪族連合の 名刺となり大和の地が日本建国の地になっ たのかしら大和地方が日本の国家形成の 中心地になった理由が知りたいわよしそれ では今回は日本が奈良の地で始まった理由 について考察してみたいと思うそれじゃあ 早速ゆっくりしていってね ゆっこう言ってはなんだけど習って空港が ないからちょっと不便じゃない確かに東京 や大阪にたら行きづらいと感じることは あるな新幹線も地下鉄もないわよなら盆地 は周囲を山に囲まれていて地形的な制約が 多いし盤が軟弱な場所も多い新しい インフラ建設は難しいんだろうそれに 1300年前の都があった場所と現在の なら中心部が重なっているということなら ではの事情もあるしな今でも土地を買っ たら遺跡が出てきて工事が中止になった なんて話を聞くものね重要な遺跡がある エリアだから開発より保存を優先している ということかもしれないな古代の大和王家 が大和の地で誕生したのはいつかしら はっきりしたことは分からないが3世紀 後半から4世紀後半頃だなでも古代の先進 地域は九州北部だったんでしょ大陸や半島 と攻撃するなら海に面した博多湾沿岸や 出雲の方がいいんじゃないかと思うんだ けど実際鉄製の武器や鏡などはなより九州 北部や出雲で多く湿度しているわよ確かに そうだ海から遠く離れた内陸にあって現代 でも不便だと感じる奈良盆地を山王家が 拠点にしたのはどうして人や情報物の 出入りが激しいところはどうなるうん変化 が激しくて争い事が増えるかしらそれに 外国の文化の影響を諸に受けることもあり そうねそうだ争いが多ければ国は不安定に なる不便差は防衛の観点から見れば メリットも大きいんだぜ海に近い沿岸部 より周囲を山に囲まれた内陸の方が安全と いうこと霊夢は家の玄関のドア近くで寝る のと部屋の一番奥まったところで寝るので はどっちが安心して眠れるそうね玄関の ドア近くだと泥棒さんが入ってきたら 待ち合わせしちゃうから奥の部屋の方が 安心かしら奥の部屋にいれば時間稼ぎして 警察に通報したり隙を見てベランダから 逃げたりできるかもしれないわ国の安全 保証もそれと同じだなるほど貴族のでも武 屋敷でも主人の部屋は一番奥まった位置に あるだろうそうね言われてみれば日本のお 城の構造もそうなってるわ天使角までは 複雑で迷路みたいだし何十にも厳重な セキュリティがあるものねつまり奈良盆地 は日本の玄関口から物理的に離れていて 安全な場所と言えるんじゃないかふむふむ 安全保証の観点から考えれば距離は防御な んだ距離は防御ってどういう意味海屋山は 天然の要塞だ他国から進行しようと思って も海を越え山を越え川を越えなければなら ないとなると準備に時間がかかる攻める側 のリスクが大きくなるのねそうすると 攻める側は攻撃する前にどう考えるま ひとまず様子にして放置しておこうかと 考えたり諦めたりするんじゃないかしら そうだそういうわけで奈盆地に王家を置い たのは知性学的にも正しい判断という結論 になるなでも攻められにくいのは分かった んだけど逆に言うと外にも出づらくて不便 なんじゃないかしらいやそんなことはない 大和の国は山に囲まれてはいるが決して 周囲と確実しているわけではないんだぜ どうやって外部と攻撃したのリロで外部に つがっていたし大和川や吉野川さらには 木川という水上交通の弁もあった河川を 交通路として利用していたということね 大和川を利用して物資の運搬や人々の移動 が行われた大和川は奈良から大阪湾までの 重要な水上交通路で奈良と外部地域を結ぶ 経済的な動脈として機能していたんだ大阪 湾を経由すれば瀬戸内会やさらに遠方の 地域との攻撃を行うこともできるものね 奈良は内陸にありながら後半な攻撃 ネットワークの一部となり奈良には多様な 物資や文化が輸入していたことが分かって いる古来大和青垣と呼ばれる美しい山々に 囲まれた大和平野は温和な気候に恵まれて いた大和地方は稲作に適した費な土地も あった農業生産が豊かで安定した食料供給 は豪族たちの勢力を支える力にもなったん でしょうね多くの河川が流れてるという ことは農業や生活腰水の確保もできたと いうことでしょ実際大和地方の遺跡からは 古代の水田跡が多く発見されている当時 から高度な稲作技術が存在していたのね 温暖な気候と適度な香水量に恵まれ米以外 にも大豆果物野菜など多様な農作物を栽培 していたようだちょっと考えてみたんだ けどこういう説はどうかしら世界最古の 文明が発症したメソポタミアと山ボチって 似てるんじゃないかと思うのよほうどう いうところが似ているまず農業に適した 火力など上よメソポタミアはチグリス側と ユーフラテス側に挟まれた地域で大和盆地 と同様火な土上を持っているわ次に豊富な 水資源よなら盆地には多くの河川があって 管外も発達したでしょメソポタミアでも 豊富な水を利用して管外農業が行われたわ 土地と水が農業生産を支えて文明の発展を もたらしたんじゃないかと思うのよ なるほど他にも奈良盆地には多くの神社や 仏教寺院があって宗教が政治と密接に 関わっていて文化の中心地になったわ メソポタミアでも多くの神殿が建設され 宗教が社会の中心に位置していたわ最初は 都市国家がたくさんあってそれが次第に 統合されていったけどそれもヤマ王建の 成立家庭に似てる気がするのよヤマト盆地 は日本のメソポタミアだというのが霊夢の 説だなそうそう私が勝手に考えた説なんだ けどどうかしら実際のところ霊夢が考える ほど水問題は簡単ではなかったようなんだ ぜそうなの大では水源となる産地が浅い ため水量はそこまで豊かではなかったと いうえ人口が増えると繁栄を支えていく ためにさらに多くの水田が必要となり その水田を営むためにさらに水の確保が 課題となった高量が少ないと水は一気に 不足し古代から農民たちは管外に泣かされ た間伐になることもあったの逆に連日雨が 降ると川が氾濫ししばしば水害を被ると いう悪循環を繰り返した川が近くにあると 危険とも隣り合わせということね人々は川 の水を有効に使うため川に咳を設けため池 を築き地下水を利用するために井戸を掘っ て水をかした特にため池の数は多くヤ平野 だけで5000個以上その築造の歴史は4 世紀から5世紀頃にまで遡るという川の水 とは戦いの歴史だったということねそうだ な古代から水のコントロールには苦しめ られたが奈良盆地を囲む産地は昔から青書 と称えられるほど美しく大和の古代文化を 育成算出した土上や水だけでなく大和盆地 の木も日本の文化宗教建築芸術に大きな 影響を与えたと思うんだぜ浸透の自然崇拝 の考え方などはそうかもしれないわね桜 やぎ日木などの気はそれぞれが持つ特性や 象徴的な意味から日本人の生活や信仰に 深くねざしている豊富な木材があったこと で育まれた文化も多いだろう大和の自然が 日本人の美識や精神性に影響を与えている かもしれない な初期の山王は川地の大族や地法の有力 種族などが結びついた政治組織でしょなぜ 大和が名刺的な地位に選ばれたのかしら 地理的に同盟国のちょうど中心に位置した ことが意外に重要だったのではないかと 思うんだぜ中心に位置したってどういう こと文字通り地理的な中心だ初期の統一 王権において重要な役割を果たした豪族と して大友うカう蘇うじ物のべなどがあげ られるどれも山王で活躍した最優力豪族ね それそれぞれの本拠地を見ると面白いこと が分かる大友市の本拠地は奈良県桜周辺 大和盆地の東部だ桂木の本拠地は奈良県 桂木や御世周辺大和盆地の西武だ物市の 本拠地は奈良県天理市周辺大和盆地の北部 だ蘇の本拠地は奈良県柏原市や高取町周辺 大和盆地の南部だ東西南北有力族たちが 大和盆地を取り囲むように勢力持っている わそうなんだもちろん豪族は他にも まだまだたくさんいたからこれは一部だで も単に大和が同盟国の真ん中に位置してい たからって有利に働くなんてことがあるの かしら地理的に同盟国の中心に位置した ことで派遣を取った例は世界史や日本市に いくつかあるんだぜ例えば世界史では神聖 ローマ帝国だ神聖ローマ帝国は中世 ヨーロッパにおいて現在のドイツを中心に 広がった国家の連合隊だ地理的には中央 ヨーロッパに位置し周辺諸国と連携を図る ことができたこの優位性で神聖ローマ帝国 はヨーロッパの政治的経済的宗教的な派遣 を一時期握ることができたなうんなんだか いまいわからないわね他にはアケメネス町 ペルシャだ紀元全6世紀に建国された ペルシャ帝国は現在のイランを中心に アナトリアエジプトメソポタミアの広範囲 を支配したペルシャ帝国は地理的に当攻撃 の要所を抑えたことで強大な経済力を誇っ たと考えられるうんこれもイメージが湧か ないわ日本の例はないの大阪がそうだな 大阪豊富秀吉は大阪城を拠点として全国の 大名を従わせることで日本の派遣を握った 確かに大阪は東西南北の交通の要所で中心 ね他には徳川家康の江戸幕府だな江戸は 日本のほぼ中央に位置し東日本と西日本の 中観点にあるため地理的にも交通の中心だ ちなみに江戸時代の産金交代は経済的負担 が大きかったことで有名だが負担の大きさ は領地の距離や大きさに比例し大名ごとに 適切に調整された産金交代ってとんでも ない制度だけど不満が出ないように細かい 配慮がされてたのね平等性を保ちながら 中央集権体制を強化する仕組みとして機能 していたんだな日本がなぜ大和の地で誕生 したのかの議論で同盟国の真ん中だから 都合が良かったって乱暴なんじゃないかと 思ったけど意外と大きなポイントだったか もしれないわね緩やかな豪族連合として スタートしたのが初期のヤ王建だ最初から ワントップ体制だったわけではないし日本 列島の各地には様々な政治勢力が存在した 早い時期から大和盆地に中央集権国家が 完成してそれが厚生の天皇家にまでつがる と考えるのは早計だと思うな緩く結びつい た連合星から大きが誕生して最初は武力で はなく平和的な司法で地方勢力を統治して いったのかもしれないわね大きを名刺にし た機内の豪族連合としてスタートした大和 王家が武力による支配を始めたのは5世紀 頃だと言われる な大和盆地に誕生した初期の大和王家の 最初の応急はどこなの奈良県桜市の巻向 遺跡だやい時代後期から古墳時代初期に かけての大望集落遺跡で大和王の初期の 中心地と考えられている日本が大和の地で 誕生したことを考えるとこの最初の応急は 重要ね巻く遺跡はそれ以前は何もなかった 地に3世紀初島に突如出現し約100年で 消えた遺跡だ直径1.5kmから2kmと いう非常に大きな希望持ち最古の巨大前方 公園分である橋墓古墳がこの遺跡の中に あるすごい橋墓古墳はひこの墓という説も あるし巻向遺跡自体が山大国の都子だと 考える専門家もいるわよねそうだ巻向遺跡 はその場所も重要だな西に対しては長谷川 から大和川を下ると名の津に出て瀬戸内会 を経て朝鮮半島や中国へのルートが開ける 東に対しては伊勢から東北に出る交通の 金めとして東国支配に有利な地にある 長谷川と遺跡の中心部分そして橋墓古墳を 結ぶ幅5mの大運がも作られた運がもある なんて計画性を持って作られた巨大集落ね ヤ王家の応急があったかと思うとワクワク するわね巻向遺跡からは多数の縦穴住居跡 やほったて柱建物跡大規模な倉庫跡が 見つかっている土石器鉄木製品骨格器など が湿度し劣等の物流の中心地であったこと を示しているなでもそんなに立派な応急な のにどうして100年で忽然と姿を消した のかしらこれはいくつかの説があってきり しない当時は政治的な変動が激しく権力の 中心地が頻繁に移動した新たな権力者が 新たな場所を気づくことが多く前のものは 放棄されることがあったあるいは地震や 洪水などの自然災害があって放棄されたの かもしれないし社会の変化があったのかも しれない最近の有力説は巻向遺跡は日本発 の都市計画に基づいた人だったのではない かというものだ都市計画に基づいた人 2009年巻向遺跡から型建築物の移行が 発見された南北約19m東西約12mの 特大サイズの建築物を含む独立した3つの 建築物が中心軸を揃えて東西に並んでいた 規則的に並んでいたのねこれまでの良のり 遺跡などでやい時代の大型建築は見られる が複数の建築物が明確なラインを定めて 規則的に配置された例はやい時代どころか 古墳時代を通しても例がない東西南北を 意識した配置にないるという指摘もあり 計画的な建築であることは確実だ巻向遺跡 は大量の桃の種が湿度したことでも有名よ ね3000粒近い桃の種と竹猿が出土して いるな桃は中国で不老不死の果実とされ 宮殿の東園を備えるのは中国の応急のやり 方だ巻く遺跡の設計者が中国の制度に 詳しい人物だったのかもしれない巻く遺跡 にいたかもしれない天皇は誰かしら実在し たとすれば大重代の崇人天や第11代の 水人天皇など古墳時代初期の天皇たちだ 特に崇人天皇の時代に国家体制の整備が 進められたとされ巻向はその中心地の1つ であったとも言われる大和の初期の天皇に ついては分からないことが多いけど天皇の 存在は豪族にとっても大きな権威だったん でしょうねそうだな豪族たちが大和地方に 集まり特別な地だと考える大きな理由と なったのかもしれない巻く遺跡の発掘長査 はまだエリア全体の5%にも満たない巻向 遺跡を解き明かすことは日本の国家形成の 始まりに迫ることだもの今後の発掘調査に 期待したいわ今回は触れなかったが日本が なぜ大和で誕生したかについては太陽の道 からのアプローチもあるな太陽の道って何 日本の奈良県を中心に古代遺跡や神社が ほぼ一直線に並ぶラインのことを指すこの ラインは北井34度32分付近に位置して いて代の人々が天文学的な知識を使って これらの遺跡や神社を配置したと考える説 だどういう遺跡や神社が太陽の道に含ま れるの三重県伊勢市にある伊勢神宮奈良県 天理市にある磯上神宮奈良県桜井市にある 大宮神社奈良県アカ村にあるアカ寺これら の遺跡や神社が一直線上に並んでいるの そうだ古代の日本で太陽や星の位置に 基づいた高度な測量技術が存在した可能性 があるのかしら北34度32分の仮説には 反論も多いが興味をそられる説であること は確かだなここまで日本はなぜ大和で誕生 したのかについて解説してきたがどうだっ たか地形地理的な要因が大きいという話が 面白かったわ海に面して海外と攻撃し やすい方が有利に違いないと思ってたから 海から遠い内陸にある奈良盆地に都が置か れた理由がこれまで分からなかったんだ けど今回の解説を聞いてその疑問が解けた わ距離は防御だったわね方を山に囲まれた 大和ボチが大身の宮殿を建てる場所として 都合が良いという理由がよく分かったわ それから大和大県の豪族連合にとって大和 ボチが真ん中という説も面白かったわよし それでは本日の動画はここまで動画が 面白いと思ったら高評価とチャンネル登録 をよろしくお願いしますコメントもお待ち しています最後までご視聴いただき ありがとうございまし [音楽] たY [音楽]
【動画目次】
00:00 オープニング
01:21 天然の要塞に守られた奈良盆地
08:54 豪族の勢力均衡に適した大和盆地
12:40 大和初の王宮「纏向遺跡」とは
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▪️参考図書
『古代史の定説を疑う』(監修:瀧音能之・水谷千秋/宝島社)
#ゆっくり解説 #歴史 #大和

7件のコメント
今年の歴史の教科書(6年)には大和朝廷、大和政権と呼ぶんだけど😖💧
メソポタミア は 周囲に 山が ないため、いろんな 民族が 入れ替わり 立ち替わり 支配して ましたね。しかし、ヤマトは 生駒山系と 金剛山系の 間に 大和川が 通る 絶妙な 谷間が あり、これが まさしく「山の戸」つまり 堰き止める 関では なく、出入りを コントロール する「戸」だと いう気が して しょうが ありません。
奈良盆地のネックは「亀の瀬」かと。ここが地滑りすると奈良盆地が「水没」するんだよな。
古代には「奈良湖」があったという話がありますが、地滑りでまれに「巨大な湖」が出現し、すぐに消えたんだろうという話。
神武東征あたりの時代だと、海は今より5~10mほど海水面が高かったそうで、そうなると海沿いの平野などあまり存在しないのですよ。
なので、奈良にある平地は当時は貴重だったのは事実。大和王権がここを都としたのは正しかったと思います。
朝廷とは官僚制度が前提で、古墳時代以前はこれが不十分だったことから、王権との表現になったと聞きましたよ?
石上神宮と飛鳥寺は、ほぼ南北に、車で30分以上かかるほど離れているのに同一ラインなのですか?強引な解釈に思います。
ヤマトが地理的に恵まれていたようである。ただそれは必要条件であり十分条件ではないかも?
日本統一を通説どおり4世紀と考えると2世紀から3世紀あたりで畿内押さえ、ゆっくり九州までとなり無理はない。しかし、卑弥呼の時代に九州まで含め大和が日本統一となると、文化的に遅れていたらしい大和では難しいのでは。邪馬台国大和説がおかしいのは当然で、これは自分が高校生の時から教師でも言っていたこと。箸墓にこだわり大和説推す一部考古学者やマスコミの姿勢は疑問?
もっとも九州は大陸に近いので大きい文化圏はできやすいが、機内→尾張あたりまで制覇するには時間かかる。4世紀過ぎて日本統一したのが大和だから、結果としては東勢力に屈したことになる。そこで、九州王朝説は常識的にうけ入れにくいとしても、九州勢力東征説は饒速日や神武伝承もあっり根強い支持がある。(邪馬台国論争は別として)
問題はそれでは、何故吉備や河内ではなかったかということ。出雲や越、尾張は列島中心から少しずれてているので難しいがこれらは十分な資格はあったのに?実際に大和盆地の唐古鍵遺跡が墳丘墓も見当たらないのに、河内(饒速日→物部氏)には墳丘墓あり、さらに楯築墳丘墓や特殊器台が大和の纏向古墳群→箸墓まで影響与えた考古学研究ある。
ここで、紀記や西日本に残る地元伝承に対する姿勢で考えに差が出る。全て認めなければ、纏向古墳群には初期大和王権の支配者が眠っているとしか言えず、吉備の影響受けた後進大和が、その後短期間で逆に吉備から九州までを押さえられた理由は永遠に謎になる。(邪馬台国と大和をここで結びつけるのは、神武東征や欠史八代そのまま認めるのと同じ暴挙?)
注目すべきは、孝霊天皇あたりで伯耆や吉備遠征の伝承が地元に残ること。考古学成果と偶然に一致する。一部の研究者は孝霊天皇に視点あて、さらに神武伝承、紀記の王統や磯城や葛城直氏などの外戚関係研究により理論を組みたてているようです。
そうすれば、大和に入ったごく小規模の移住者集団の神武が磯城氏の勢力圏の一部の磐余に地盤を得て、さらに葛城直や尾張氏(本貫は葛城とか)など婚姻で勢力伸ばし、孝霊天皇以降、纒向まで支配。そして、崇神以降に縁があった吉備や尾張氏の中部進出(四道将軍伝承)まで、理論的には説明できるのです。(ニギハヤヒ伝説まで含めれば大和王権支配の蓋然性まで言える?)
ただ、これでは纒向古墳群の被葬者が説明できない。紀記や地元伝承では欠史八代の陵墓は磐余や葛城等にしている素直に纏向古墳群にしておけば済むのに頑ななのは何故か。神武や欠史八代天皇仮想に照らし巧妙に設定した結果と言ってしまえば終わりですが・・・・・?個人的には、纏向古墳群に改葬されたか、外戚の磯城氏関連で妃や娘など女系だけ纏向に葬ったと勝手にこじつけています。(ホケノ山墳丘墓が豊鍬入姫との地元伝承や箸墓のヤマトトトヒモモソ姫という紀記の話からの発想)真の神武陵(旧洞村の丸山)が小規模なので数代の陵墓は発見されていないか、失われているとしても、少なくとも孝霊天皇以降は纏向古墳群に葬られるべきと思うのではが?
まあ、あまりこじつけると推理小説なるので、やはり素直に考古学成果だけ認めて、ヤマト王権の初期王墓の始まりが纏向古墳群としか言えないのかなとも思っています。
織田氏や徳川氏、秀吉の事例見れば、数代で全国統一まで行くので、状況と優れた人材あれば、後進勢力でも偶然に強国化するのは確かです。もっといえば、大陸端のイギリスや日本が栄えたのは何故か?
原因と結果の因果性立証は難しいと思っています。今回のこのチャンネルの問題提起は非常に大切だと思います。偉い先生方は意識しているのか技と無視しているのか?
参考 50年ほど前の東大入試で、辺境が中央を制した事例と理由述べよといった日本史の論述問題ありました。色々の解答あるのだろうが。予備校の解答では、幕末の薩長挙げていた。北条氏や徳川の関東経営もあるのだろうが、この大和問題と同じ視点に立った良問かなと思います。
弥生時代半ばの時点で日本最大の水田地帯は現状葛城山麓なんですよ。この秋津地区辺りは神武東征話でも目的地とされた場所でもあります。
更に一番重要なのはここは銅鐸と銅鏡が一緒に埋められていた日本唯一の場所、つまり弥生時代半ばの時点で既に何らかの集権的な場所だという事になります。