【BS11】偉人・敗北からの教訓「第50回 徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」2024年6月29日放送分見逃し配信
[音楽] 偶然の勝利はあれども敗北は全て 必然日本の歴史を彩った偉人たちはいかに して破れていったのかその裏にはどんな 原因と誤ちがあったの か今回は江戸幕府2大将軍徳川秀たの敗北 をひき ます天下分け目の関ヶ原の戦いにまさかの 第一差 さらにその後の大阪の人でもなぜちを犯し てしまったの か偉大なる死家康に対する思いさらに秀た の心の奥底に渦巻いていたことと は破れし者たちの失敗から学ぶ人生 哲学偉人敗北からの教訓 [音楽] 歴史場の偉人たちが犯した失敗から私たち は何を学ぶの か偉人敗北からの教訓進行役の中西由です そして歴史作家の伊藤純さんですよろしく お願いしますよろしくお願しますまいつの 時代も親子関係というのは難しいものだな と思いますけれども結構親から言われた 言葉ってこうずっと胸に残っていたりま なんならちょっとトラウマになってしまう みたいなこともありますよねうんあります よねですから親はですね子供に厳しいだけ ではダメだっていうのがやっぱ最近分かっ てきたようで色々教育会でもですねそう いった指導方針で親を指導してるってこと ありますよねああさあ今回は偉大な親徳川 家康に多大な影響を受けて育ったこちら 江戸幕府2代将軍徳川秀たの敗北に注目し ていきたいと思いますはいお父さんの家康 があまりにも有名な人物なのでまやや秀と いうちょっと大人しい印象がねどうしても あるかなという気がするんですが見直す 動きも最近結構あるような気がしてるん ですよねうんかなり日ただに対する評価が ねここんところ非常に高くなっているなっ て気はするんですよねただ一周して私自身 はその一概に相太言いきれないっていう風 に思ってるんですよねあそうですかうん 確かに江戸幕府が長く続いたことで結果 往来の部分ってあると思うんですよえです けどですねまそれ結果往来だからと言って え日たがえなかったんだっていうのは あまりにもちょっと短絡的かなって気が するんですよねこの秀たにとってお父さん 家康というのはどんな存在だったと思われ ますかはいいやもう本当に仰ぎ見るほどま 依頼な存在だったでしょうねそして恐怖の 対象だったと思いますねま現代と違って 当時の不死関係っていうのは非常に冷めた ものだったんですねしかも父親っていうの は後継者の使命権を握る恐ろしい存在なん ですねちょっとした失態とかですねえま なんか気に入らないことをしかしてしまう とえ自分も拝という形でそれで恐怖が非常 に閉めてたんではないかなっと私は思うん ですよねさあ今回はそんな秀たの敗北の 理由を紐解きながら現代にも通じる教訓を 探っていき ますまずは徳川秀たとはどんな人物だった のかこちらをご覧 ください江戸幕府2大将軍徳川秀太は 1579年徳川康の三南として美の国に ある浜松で生まれました当初秀たが家督を 継ぐ予定はありませんでしたが成合5ヶ月 で20歳上の兄信安が服しその5年後5歳 上の兄秀康が橋秀吉の容姿となったため 家康の着弾として育てられまし た1590年秀吉の小田原攻めを前に落 すると 12歳で伏し秀吉の秀の地をもらい秀たを 名乗り ます秀吉が天下統一を果たした後家康は 関東に放されましたが本人は機内にいる ことが多かったため両国経営は主に秀たが 担い ます 1598年秀吉がなくなると豊政のが対立 し分する戦いへとれますこの時秀たは 関ヶ原での本線に算するという大失態を 犯してしまい ます日た抜きで合戦を制した家康は誠意 大将軍に任じられ新たな天下人となりまし た1605年秀は27歳にして2代将軍と なりますが家康が護所として実験を握り秀 は父の指示に従い ます秀が将軍としての主導力を本格的に 発揮するのは大阪の人で豊が滅び家康が この世を去った後でし た秀たは各種の法を整備するとそれに背い た者たちを容赦なく罰し幕府の体をぎない ものとしたのです 秀が最もういかつ恐れを抱いていた人物が 父康 です秀は大阪の人に向かう際大軍を急行さ せ疲弊させてしまったことを家康に強く席 されまし た日ただ敗北の瞬間 ですタはなぜ大軍の兵たちに無理な軍をさ せたのでしょうか 今回は父家康の激論に触れた秀たの敗北に 迫り ますさあここで秀たの人生の主な出来事を 振り返っていきますま秀たは家康の産難と して生まれたということなんですがま かなり子供の頃に弱男になったんですよね はいそうですねあというのもですねまず あの長男の信安はま外交方針などで家康を 対立しえま爪を切らされましたよねで次男 の秀康はですねま家康に気にられなかった とかまた母親の地位が引っかかったとかま ちょっとよくわからない理由なんですけど 着男の座からえま落とされてしまったと いうことでえヒダに後継者の地位が回って きたわけですもう早い時期にあの実の お母さんをなくしているというのを聞いた ことがあるんですけどそうなですええま1 さの時に実母をなくしたっていうことがま 秀たの心に暗い影をさしていたのかもしれ ませんけどまあの人格形成で大きな存在と なるのがウバだったんですよねんうんで秀 にはですね大の壺というえそういうがつい たんですけどこの人はですね康が今の人質 となっていた時代からえイ知っていてです ね賢くて厳しいだけでなくて非常に慈悲 深い人格者だったということで多くの人 から慕われていたあの身分の低い人たちを 定期的に集めてご馳走するということやっ てたんですよあまそういった形でえまあの 自分の貧しかった時代とか自分が苦労した 若い頃を忘れずえみんなに施してたという 人の痛みの分かる人だったんですねうん ちょっとマザーテレサみたいなところが ある人だったんですねりね秀吉が亡くなっ た後ですねこの秀た自身と豊家の関係と いうのはどうなったんですかうんうんあの 元々ですねあの秀たというのは小巻長くて の戦いの後人質として豊都に入るんですね でまあ秀吉と北の満所に痛く気に入られて えま一時配慮しそしてトで元服したという ことで非常にこの後もですねま秀吉の死後 も含めてえ秀たは北の満所と良好な関係を 貯め続けるんですねで北の満所も秀たを 信頼してたというかうんかなりいい関係を 続けていたんですねうんあそうだったん ですね え秀吉なき跡に勃発した関ヶ原の戦いで 家康から重要な役割を任された秀たですが その後の人生にも大きく関わる失態を犯し てしまいます秀たが犯した失態の一部四重 をご覧ください 1579年家康と最後の壺の間に生まれた 秀たは3難でありながら着手として育て られまし た新たな視点で家康を研究する志さんは秀 たは幼い頃から父の期待を背負っていたと 言い ますひたという人物の元で徳川がま続いて いくことを癒やすとしてはえみたいわけ ですのでま最初から重いプレッシャーと いうものはあったんではないか と徳川家の継承という圧を感じていた秀た は11歳の時突然の悲劇に見舞われ ます母最後の骨がなくなったの です悲しみにくれた秀に寄り添いその成長 を見守ったのはかつて今で康育て上げた大 の壺でし [音楽] た秀たに関する著書を持つ歴史作家の川井 さんは2人の関係をこう話し ますもうすごい大好きだったですね秀たの ウバになった時には結構年配だったんです けどもあのかなりこうはっきりものが言う 方でダメなことはダメっていうような人 でしたね当時の教育って直接やる以外にも 女性を返して教育するっていうのがすごく 多くて家康もども人質時代から窮地の間柄 だったようであそれをまあいい人だなって いうことが分かっていて自分の息子につけ たっていう風に言われてますよ ね若様大殿の言うことをよく聞いて立派な 後にならなければなりません よはも優しい宇を心の支えとし着手として の自覚を深めていきまし た17歳になった時秀たは秀吉の妻淀殿の 妹にあたる豪を妻に迎え ますそこには家康の決意が感じられると 言います秀吉を支える親類大名となった 以上その秀吉の政権を支えていく そこにえ立場あるいは役割を見い出してっ たんではないかと秀たは徳川豊両家をつぐ 存在となったの ですところが秀吉がこの世を去ると家康は 天下鳥の野望を荒にし ますそして五太郎の1人合津の上杉かかに 無本の疑いをかけその討伐をみました この時海人でありながら総大将を任された のが22歳の秀た です天下を収めるのは徳川けである家康は その体勢の万力さを世に示そうとしたの ですしかし家康の背後をつく形で吉田三成 が挙兵したため家康は三成討伐に家事を 切り 日たに重要な役割を命じまし た軍についた真田市の巨田城の攻略 ですサ領土っていうのはちょうど中央で あるま大阪あ及びその周辺ですねと合津を つぐそこの位置にあるんですね真田を攻略 まずは攻略しなければないだて連携を捉え てしまいますの でが に渉を持ちかけるとは頭を丸め幸福する 態度を示しまし た潔よいことよここは首の顔を立て命は 助けようところが翌日城を明け渡して もらいに行くと正雪が態度を変させ ますあれは嘘じゃを運ぶ時間が稼げた わいまさかですよねなかなか幸福しないん でどうしたんですすかて言ったらあれは嘘 だという風に騙したわけでまこれ日にとっ ては非常に腹立たしいわけです ね戦の厳しさを思い知った秀たは打当真田 を決心し総勢3万8617ドル と思われまし たところが家康から風雲急を告げる例が 届くの です直に落 せよ東軍が予想以上に早く義父女を落とし たため成との全面対決が迫っていまし た家康はたに武訓を上げさせるべく一刻も 早く人するよう秀に強く求めたのです康 から早く来いって言われた時にもうなんか すごい衝撃だと相当焦ってたと思います ねもう決戦が始まるというのかこうしては 折れ ぬ秀たは上田城に抑えの兵を残し急いで西 へ向かい ます実は家康はおよそ10日前に落命令を 出していたものの足の事態が起こってい まし た死者が悪天候によって足止めされ日ただ に命令が伝わるのが大幅に遅れてしまった の です秀たが細い山道の続く倒産道を必死に 美野へ向かう際も天は見方しませんでし た道中の河川が増水し木川に行手を阻まれ てしまったので です 早早く行かね ばもう苛立ってなかなか進まないっていう ことで最終的に彼はもう部下を見捨てて 本当に少数の武将だけ連れて自分だけ先 行っちゃいましたんで本来ならば自分が 中心になって あの軍を叩きのすはずだったのに自分なし に着がついてしまうっていうことはも家康 にとってもものすごいやっぱり面目をわ せることですし戦った後の勢力図について 徳川が天下を取れるのかっていう心配も あったと思うんです ね未だ到着のきしもない秀たを待つべきか 田舎今まさに敵を打たんと生り立つ軍所長 をしりめに家康も苛立ちを感じていました あの福島たちにあの待たせるわけにはいき ませんから彼らをえ束ねる賞としても安を 置かなければいけませんからまどっちを 優先したかということになります ねもうひを待っておれ ぬ9月14日家康は胃を決し美の赤坂に着 し ますそして翌日大垣立てこもる軍主力を 関ヶ原へといいわずか半日で鮮やかな勝利 を飾ったの です伝関ヶ原にてオの引きいる軍が勝利と の 知らせ何もう戦は終わったとそう か秀がの宿場で軍の勝利を知ったのは決戦 から2日後のことでした絶望的な気持ち ですよね終わっちゃったのかっていうね はい関ヶ原の戦いから5日秀たは家康が いる大江にようやくたどり着いたものの 年会を拒まれたと言い ます屁を置いて自分だけもう間に合わ なきゃいけないいってことで来たとでそう いった状況みたいやが頭があ感覚に起って しまっとでこれは自分がもし打たれて しまった時そのわずかな兵でしか来ない秀 ただも当然危い状況なわけですねそは問わ れるような地帯ですので家康としてはま何 やってんだということもあって面会をし なかったんではないでしょう かまさに面木丸つぶれとなった日田 だ農科学者の毛内さんはこの時の屈辱が日 ただの脳裏に深く刻まれた可能性があると 話し ます脳回路が1番書き変わる瞬間ってあの 2つあって条件がで1つは新しい体験で もう1つがその上等換気って言ってるん ですけど要はその上等っていうのはま感情 と言い換えてもいいんですがだから人に すごく怒られた経験とかって結構ずっと 残ってるまトラマって言ったりもします けど初めての失敗とかっていうその新しい なわけですよねでだからそれってすごく こう脳のカルを書き換えるっていうかその 心に刻まれるっていうことはありますよ ね事実この苦い経験が後々まで王を引く ことになるの ですひただからしたらここ1番自分のこう 成果をお父さんに見せたいっていうところ でああ間に合わなかったっての相当こう心 に傷が残ってしまえでしょねまおそらく そうでしょうねま本当にこのヒの人生に おいてこの関ヶ原の算っていうのは非常に 大きな影響を及ぼしたと思うんですよこれ も生涯の追いと言ってもいいぐらいですよ ねま誰でもそういったあのコンプレックス やトラマっていうのはあるもんなんです けど日たっていうのは本当にえそれが ずっとあと後々までね王引いて康が死んで からようやくそれを克服できたような感じ なんですよねうん康はやっぱり秀が到着し てからいにみたかったっていうのがあった んですかねま本心からするそうだったと 思いますねうんただ言やほどですね選挙を 読むことにたけた部将はいないわけですよ ま日出たら引き3万8617ドル 出てきてしまうということでひたに花を 持たせたかったえしかし背に腹は変えられ ずこ戦いに踏み切ったわけですねあの家康 が日ただに起こった本当の理由というのは 遅れてきたこと自体ではなさそうですよね えそうなんですねあま少ない兵隊を率いて ですね駆けつけてきたことにぎったって いうとこなんですよねえ当然西軍が勝った 場合落ち武者狩りに合う危険性も高いわけ ですしそういった対象としての時間が足り ないというところにの怒りはあったわけ ですよねただですねこれ分からないですよ 状況後からどんどん聞くじゃないですか度 大変だったんですよってですが最初は遅れ てきたこと頭来てたけどそういった情報が 後から入ってきて振り上げた拳を下ろせ なくなったやが他の理由を見つけたって いう可能性ゼロじゃないですよねあそう ですか え急がなきゃと思って大事なものを忘れて しまうそんな経験ありません かのそな優すべきことを考え ましょう秀たの心に傷として残ることに なった関ヶ原さその痛い記憶が14年後に 呼び起こされます大阪冬野陣への参戦を 求められた秀たはいかなる行動に出たの でしょうか敗北までのカウントダウンが 始まり ます1603年誠大軍にられた家康は2年 後27歳の秀たに将軍職を譲りまし たその継承を痛く喜んだUBの大羽の壺は 秀たの裁を願い後に池神本問寺に50の塔 を混流しまし た家康はその後寸城にしきますが護者とし て実験を握り続けたと言います でしかまだ解決できない問題とかもある わけじゃないですか外交とか大きな問題と かそういった問題に関してはまだ引き続き やってってでま秀たがそれにえまそういっ たことにですね全て携われるような状況に なった時にま時代に任せていくと いう秀たは不満を何1つ口にせず家康の 主導に従ったと言い ます何事も大御所様のせのままに 基本的には家康が寸farで力を握って そして江戸にいる本田正信などを通じて秀 たをに指示を与えていたので秀たは ほとんど権限がなかったとやっぱり頼り ないと思われてるんだなっていうことを 思ってたと思います ね1611年二条条で豊投手秀義と対面し た家康は立派に成長したその姿に警戒を 強め豊富廃除へと動き出し ますその気運が熟したのは1614年の夏 でし [音楽] た家康はひよが最高した方寺の本章の文字 は徳川を呪うものだとし豊との合戦を決意 したのです [音楽] 10月家康は主力部隊の編成を江戸の秀た に任せ寸城を出陣し ますまず自分が落し織の出方を見る準備が 整い代出さ れよ江戸で家康の名を受けた秀たは総勢 20万の兵を整えるべく本し ますまだまだその分がいう風に康自身が 思っちゃってるのでそしたら周りの大名を みんな思うじゃないですかどこかで自分の その復建というか権威を見せなくちゃいけ ないっていう時がそれが大阪の人ですよ ね家康の場から東海場を経た後秀たは およそ5万の兵を引きようやく江戸を出し ました その日のうちに家康の側近に所場を送り ますもう相模まで出馬しましたすぐに上陸 するので私が到着するまで大阪攻めをお 待ちくださるよう父にお伝え くださいところが実際に相に到着したのは 翌日の こと秀たは自分が急いで向かっていること を分かってもらおうとして偽りの報告をし たの です秀たは自らを追い込んでいまし た破局的思考とかって言うんですけど たった1度の失敗でもう俺の人生はダメだ とか特にその脳が疲れてるとそういう思考 に陥りがちなんですよね将軍らしく 振る舞わなきゃみたいなのを一倍感じてて まは てで今度はもう絶対に遅れたくないって いうことですねで2回第算をしてっていう そんな人が天下人っていうのはさすがに 難しいっていうことですよ ね関ヶ原での苦い思いが脳裏をかめたのか 秀たは翌日再び所場を送り ます一刻も早くすべきと思いますが 遅くなるであろうと方にくれております 欧州関東の大軍は後から軍させ私1人でも そそうに参上したく思っており [音楽] ます本来の目的を意早くつくことしか頭に ない秀たは供回り州も置き去りにし部や 荷物も持たず先を急ぎます 清水に着いた時には価値240人牙30 余りだったと言い ます秀たの状況を伝え聞いた家康は死者を 走らせ秀たの皇軍を嗜めまし た大御所様より大軍ゆるゆると皇軍生徒の せにござり ます秀がですねんでくるってことは分かっ てたと思うんですけどもそれでもちょっと 早すぎだろううと いう一刻を争う関ヶ原とは状況が異なる ことを将軍として見極めてほしい家康は そう願っていまし たところが日たに父の思いは届きませ んもう2度とあのようなことはあっては ならぬのだ が名古屋に着いた頃家康のいる二条に死者 が到着し依然として大急ぎで神軍する日 ただの状況を伝えまし たそれを聞いた家康 は急軍は陣馬とに披露する大軍が疲れ果て ていてはの役に立た ぬたは怒に震えていることを知り愕然とし まし たまたも判断を誤ったひただ敗北の瞬間 ですここはそこは見極めてほしいともう 関原段階とは違うわけですので後継者とし てもう動き出してるとそういう状況です からまそこはしっかりしてもらいたいと いうところはあったかと思いますあのあれ だけやすにお前大将が部下を置いてくる なっていういう風にられたんですけど やっぱり生来ちゃったですね失敗しちゃっ たりとか遅れちゃったりとかそういうこと がこう他の人に知られることはたまら なかったです ね大美に到着した秀たは皇族の軍を待って から伏見城に入りまし たそして二条で家康に詫を入れ到着を待っ てくれたことへの礼を述べたのです その後大阪冬野人の初戦となる川口の戦い が始まり ますもう遅刻が怖いっていうあのそこを 意識しすぎてあ大事なことをねまた忘れて ないかなっていうようななんかちょっと そういう危さがありますよねありますよね ま秀たにしてみればここで護を上げなけれ ば武幸なしのまま総軍員につかねばなら なくなるというをてたんですねま秀たの 時代はまだ武幸によって初代味を抑える それが必要だったんですねですから秀たと してはなんとか戦に間に合って自分自身が この戦勝ちをま呼び込んだという形にし たかったわけですよねああそうですかでも もう常にこうお父さんの顔色を見てこう ビクビクしているのかなっていう気もし ますねえうんそうですよね秀太にとって やはり言や恐怖の対象なんですよねなんか 意にそわないことすれば着にされてしまう というそういう期間を常に抱いてたえ かなりイには遠慮があったということでま そういったですねイに対する恨み恨みって いうちょっと言い方おかしいかもしれませ んけどイアに対するコンプレックスがです ねまイアの守護その側近で非常に可愛がっ てたほな正の海域に繋がっていったんでは ないかなと思うんですよね家康が豊家との 戦いをま決断した時ま秀た自身は本心では どう思っていたと思われますかはいま本心 ではですねえ秀イアが生きてるうちに トトミを滅ぼしたかったと思いますもう 自分の手に余ると思ってたんですねもし 家康が先に死んでしまえばですねあです から家康がえトヨミケを滅ぼす決意をした 時は嬉しかったんじゃないですかね最初 から確信犯的に家康がえトヨ向が滅ぼす ためにこう行って行って打ってるように 思われがちですけど実際そうではなくて あのイも迷ってたと思うんですよねでひた はそれを一生懸命背中を押してたあえそれ によってえ康がようやく分かっだと豊 滅ぼしとこうかっていうになったっていう のが最近のま説ですよね うん過去の経験がトラウマになってしまう こともあるでしょうだからと言って同じ 誤ちを犯すのはいかがなものかくれぐれも 本来の目的を見失わぬよう [音楽] に戦国世に収支婦を打つことになった大阪 の人家康の死後秀は将軍としての主導権を 握り意外とも思える行動に出ます幕府の 基盤を固めることになった秀たの決断実行 した政策の数々をご覧 ください1615年大阪夏野人は徳川軍の 大正に終わり ます豊臣からひよの除名を壊れた家康はた に判断を委ねまし たが率いていく世の中になるわけですから この事体の決着というものは日たに 任せようとそう思ったのが康の考えだった かと 思いすると秀たは除名を拒否し少女の夫秀 よと妻の姉淀殿に説服を命じたの です秀たね全く迷いなかったと思います ひよとかヨのをこう潰すというそこで将軍 の権威を全体にけたいって考えていたので 徳川の永続のためにも自分の権を上げる ためにも潰そうと思ってたと思い ます翌1616年秀たにとって絶対的な 存在であった父家康が75歳でこのよ去り [音楽] ます地圧のよどう守る かのにのが浮かび ますそれは母のように慕っていたウ大の壺 が今の際に発した遺言とも言うべき言葉 でし たあなたの鉱石に免じてなんなりとお望み を と私の望みなど 情けで掟てを曲げるようなことはせ ず大御所様からの教えをお守りください ませ最愛のウバと偉大な父の死を秀たは席 を切ったように狂を発動し ますまず断行したのは1615年に発布し たハットと並びに を徹底させることでし たとりわけつで行ったのは関ヶ原で勝利の 立役者となった福島正初代名の海域天方 ですでこれによってやっぱり徳川のその 将軍の権威が一気に上がったと思いますね 彼はやっぱりずっと家康というすごい偉大 な人物がいてある意味尊敬もしてますけど 頭をこう抑えつけられていた面がまそれが 取り除かれた時にまあの自分がふわふわで 軽かったらすぐにやられてしまうのでま それ以上のやっぱり見を発動したっていう ことなのかもしれないです ね秀たは家康の側近本田正を始め自分の 兄弟親戚にも容赦なく海域を命じまし た幕府に反抗的であったり危険とみなした 人物を徹底的に排除したのですさらに娘を 天皇に代させ朝定との関係を強化すると 江戸城や大阪城の大回収を手掛け ますキリスト教や海外貿易の統制も行い まし た1623年45歳で将軍職を息子イミに 譲る と家康にならい大御所として実験を握り 息子の成長を見守り ますそして9年後54歳でその生涯を閉じ まし た校生ぼ葉の人と表された秀たがその生涯 を通じて目指したことと は自分にはそんなね家康みたいなカリスマ 性もないし才能もないしかも関ヶ原で第刻 をしちゃったっていう中でじゃどうやって そのついていくかっていうことで相当悩ん だと思うんですねそれは1つは自分自身が 家康になることだ徹底的にお父さんのやり 方を真似してまコピペしてですね家康自身 になること権力を握った後にその家康のい たレールをその通り発展させるとともにま 将軍の権威をぐっとね高めたというそこは すごい人だな凡人でありながらではなかっ たんじゃないかなと僕は思います ね父家康が愛読していた党の皇帝の現行録 に次の一分が記されてい [音楽] ます創業は安く主は [音楽] 片し将軍家の権威を守りいた秀太その針が 引き継がれ徳川政権は265年の長気に 渡り維持されることになったの ですま家康自身も結構こう凡人だとかあの そんなにカリスマ性がある方ではなかった みたいな言われ方をすることが多いじゃ ないですかそういう意味では家康とひたっ てなんか似てたのかなっていう気がしてき ましたま似てる部分ありますよねやはり あの身長でですねえ何をするにしてもです ねよくですね周囲を見た上で行ってます からねまその点非常に学習能力あるという 点でも共通してると思うんですよねうん あの秀たがあのひよと淀殿の切 publicを命じたっていうのは結構 こう冷酷なことするんだなという気がして ちょっと意外な感じがしましたはいうん これもやはりあの他の大名たちになめられ ないためにもですね厳しい将軍になろうと したという一面があると思うんですよね うんただこれ本当にその2人をあそこで 殺す必要があったのかと言うと私はそんな 必要性はなかったと思うんですよねそう ですかうんで江戸に連れて行ってホに置け ばあの全く無法の兆しもないと思うんです よね私だったらやはり自分の構成の評判 っっていうのを気にしてですねえま母子を ですね殺すようなことはしなかったですね ああそうですかえあのあとは秀たはあの 結構いろんな理由をつけてあの初代を解役 していたじゃないですかこれも解役する 必要ってあったと思われますか うんここで歴史作家ならではの視点で歴史 の裏側を考察する伊藤の見解 ポイントまあの初代名になめられないため にですね厳格な将軍っていうの演じてた 部分ってあると思うんですよしかし私は やりすぎの感があったと思うんですよね 初代名から衣を抱かれても自分の人望人徳 には繋がらないわけですよねああ恐れられ たからといって尊敬されるわけではない うんそういうことですよねま結果的に特学 が続いたからいいようなもののこれは危険 な賭けだったと私思ってますというのは なぜかと言うとこうした武断政治っていう のは長続きしないんですよでやはり家康の 死後秀たが分地政治に切り替えていか なければですねならなかったと思うんです この秀た家光の時代ずっとあの武断政治を 続けていったということでこういう恐怖 政治を行ったことによってですねやはり 江戸時代というのはですね全体的に何か こうギスギスした雰囲気が漂ってたと思う んですよねうんそれがやはりあの260年 経った後にですねまいわゆる爆発にですね え初犯が一斉に新政府側になったのもです ねこういった武断政治に対する恨みみたい なものがあったんじゃないかなと思うん ですよねああま秀太自身がその2大将軍と して1番大切にしていたことは何だったと 思いますかうんま家康から受け継いだ天下 を次の時代に残していくということですよ ねうんまそれだけしか考えてなかったと 思いますうん秀た監督の功績としてはま 年寄りによる集団指導体制の確率という ことが挙げられると思うんですよでイア 時代はですね本田政信を側近として側近 政治やってたんですよねで本田政に権力が 集中してしまったということがあるんでえ その鉄を踏まないためにも権力の集中をえ 防いでいったというこれ大きなヒデタの 貢献だと思うんですよねまあとはですね キリスの金霊の徹底とかあのま最近に鎖国 って言わないんです貿易行を限定した制限 貿易これらも上げられると思うんですよね まこういった政策っていうのはですね海外 との交流がなくなるんで国家全体の発展と いう面ではマイナスなんですけど特会の 転換を守ってくつまり天下性質を維持する ためには必要な措置だったという風に思い ますうんなるほど私はあの若い頃秀たが あのもっと華々しい先行を上げていたら こういう形の将軍にはなれなかったんじゃ ないかなという気がするんですよねあそう ですねこうはならなかったでしょうねもう 少しこう調子に乗ってしまったりお父さん を超えてやろうみたいななんかそういう 着替を見せてしまって逆に失敗してしまっ たんじゃないかなという気がするんです なるほどねそういう視点もありますよね この後は必見伊藤順のアナザー ストーリー実だけでは語れないもう1つの 物語伊藤さんが描くアナザー ストーリーもし家康が日たの将軍就任直後 に亡くなっていたら歴史はどう動いたの かそうですね家康がなくなる時期がですね もう何年か早かったらですねも顕在ですし 特会は窮地に立たされたと思うんですよね おそらく秀たは関東に孤立し豊臣大名たち の攻撃を受けていたんではないかなと思い ますあの天下を性質に導けるっていうのは ですねそれなりの軍事的な実績とですね 初代名との信頼関係が重要なんですよで やはり秀たにま天下政権のアジが務まるか というと私は2が重いと思いますおそらく 初代名もそう思うはずですでえおそらく ですけどえ徳っていうのはそこびた可能性 ないしは1大名になった可能性が高いと 思ってるんですよねえそういった意味で 日デただとしてはですねやはりえトケを 滅ぼした後に家康が死んでくれたっていう のは本当に助かったと思います ねさあ改めて秀たの失敗から私たちが学ぶ べき人生の教訓をお願いしますはい手にし た権力によってはいけないということです ねヒタはですね自らの脅威となる人や気に 入らないと思った人をですねま悪い言い方 ですけどの重くままに解禁にしてるような 気がするんですよつまり自らを軽く見られ たくないという思いとかま将軍として断固 たる姿勢を示すことが幕府の一心を高める という風に本気で思っていた口があるわけ ですよねえしかしですね添加人には得が 必要なんですよその得ある意味肝要な態度 で人に接するえそれをですねやはりそれを やっても天下が覆らないえそういうところ を努力しなかった点でやはり日ただは二流 の人だという風にですね断じ負えない部分 ありますよねま現代社会でもま何がしかの 権力や決定権握るとそれを乱用する人が いるわけですよねえそういった得のない 人間が高い地につくことによってですね そういった権力者になったえ人の周囲に イエスマンだらけになるわけですよ誰も 苦言を呈する人がいなくなって間違ってい たことをしてもそのまま突っ走ってしまう まその結果言うまでもないですよ ね自分の権力によって狂を振るうのは今の 時代なごハト上に立つものは特に観葉な心 で部下たちに接するよう心がけ ましょうこれぞ徳川秀たの敗北から学ぶ 教訓 です最近はあのヒたの鉱石を見直そう みたいな動きがあるなと結構思っていたの で今日はあの伊藤さんが意外と秀に対して 厳しい評価をなさっているなというのが すごく印象的でした今回見ていただいた ようにあの日立自身がですねもうあの結構 焦るじゃないですかねいろんなことにです ね焦ってしまってとても大人物には思え ませんで結果的にえま徳掛が続いたという ことで秀たの評価も高くなるんですけど私 はこれある意味幸運だったと思ってるん ですよねですから本当歴史の人物というの はですね結果から評価していけないという 風に強く思いました藤さん今日も ありがとうございましたありがとうござい まし た偉人敗北からの教訓それではまた次回お 会いしましょう [音楽]
江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家康の三男として生まれながら嫡男となった秀忠は、父・家康から多大な期待を寄せられていた。豊臣秀吉の死後、家康が天下取りへの野望を露わにすると、秀忠は信州・上田で真田氏との合戦に臨み、あと一歩のところまで追い込む。そんな中、家康から上洛命令が届き、秀忠は急いで中山道を西へ進むが、関ヶ原の戦いに間に合わず、勝負は秀忠抜きで決してしまう。
1603年、征夷大将軍に就任した家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として実権を握る。そして、1614年、徳川政権を脅かす豊臣家との決戦を決意する。家康は駿府を出陣し、西へ向かうと、江戸にいる秀吉にも出陣を命じる。ところが、秀忠は大坂の陣に向かう際、大軍を急行させ、疲弊させてしまい、家康に強く叱責されてしまう。秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか?
大坂の陣で豊臣家が滅び、翌1616年、家康がこの世を去ると、秀忠は武家諸法度などの法を整備し、それに背いた諸大名を容赦なく処罰するなど、将軍としての主導力を発揮する。父・家康が目指した路線を継承し、徳川幕府の基盤を固めたのは秀忠の最大の功績であり、その結果、史上最長の武家政権が維持されたと言える。もし、家康が秀忠の将軍就任直後に亡くなっていたら、歴史はどう動いていたのか?
(2024年6月29日放送の期間限定見逃し配信です。)
#BS11 #徳川秀忠 #徳川家康 #関ヶ原の戦い #関ヶ原合戦 #室町時代 #安土桃山時代 #江戸時代 #平安時代 #明治時代 #戦国時代 #歴史 #日本史 #偉人 #伊東潤 #中西悠理
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
【配信期間】
2024年6月29日~7月22日まで
📌BS11の「歴史」関連動画をチェック!
【番組情報】
全国無料放送BS11「偉人・敗北からの教訓」
📺毎週土曜日 よる9時00分~9時55分放送
※4月から放送時間が変更になりました。
番組公式HP:https://www.bs11.jp/entertainment/ijin-haiboku-kyoukun/
<番組詳細>
「敗北」「失敗」から、偉人の人物像に迫る!
毎回、偉人たちがおかした「歴史的な大失敗」から、その背景、要因、影響などを読み解き、
偉人の人物像を浮き彫りにするとともに、今を生きる私たちの教訓としていく新しい歴史バイオグラフィー。
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23件のコメント
関ヶ原に間に合わなかったこと
2度の大坂の陣
秀忠にはいい刺激になったでしょう。真田親子に勝ち、関ヶ原本戦でも手柄を立てるようなことをしていたら、天狗になって暴走した政治家になっていたんじゃないかな。
千鳥ノブみたいな顔やな
概要欄江戸にいる秀吉にも出陣命令は草
一度あることは二度あるってことわざがあるから、努力と知識で乗り越える為にやってきても結果が報われないとどんな人間でも精神が病む。
酒はアルコール中毒になるから必要なのかなって思っていたけど、こんな世の中には必要不可欠な存在だったのかな?
あのぼんやりはあかんな
信長の野望結構政治数値高い野望も高いが関ヶ原遅延豊臣家断絶嫁の姉見殺しやはりだいぶきつそう
解説してる人、西郷隆盛やん
にしごうりのツボネでないの?
16:45心境グチャグチャだったろうな
このポーズホンマ好きw
家康が長生きでよかったのかな
天下が定まらないうちは秀忠だときびしいか
秀忠からすると「ハラホロヒレハレ」ってな感じて関ヶ原、大坂冬の陣の2回ともテンパってたのでしょうね😅
大河ドラマで秀忠は西田敏行のイメージが強い。
個人的には秀忠が豊臣家つぶしにこだわったのは、あくまでも将軍ゆえの責務からくる判断もあったんじゃないかな〜
秀忠は幼少期豊臣家で過ごした事もあり、その時に高台院に手厚くもてなされた事もあって、秀忠と高台院って凄く仲が良くて上洛するたびに顔を見せるほどに。(平姓杉原氏御系図附言纂)
また秀忠も秀吉から貰った"秀"の字を豊臣家を潰した後でさえ生涯通じて名乗ってるし
べつの動画で小和田先生も言っていたが、秀忠個人としてはある程度、豊臣家には思いというか情というものがあったのではないかな〜
秀忠『やってもうたー‼』
偉大な父家康のプレッシャーで、何をやっても良くて当然、失敗すれば跡継ぎらしくないと断罪されてしまう辛い立場です。関ヶ原の戦いでの遅参は、天候不良と家康との連絡の不手際、経験不足と理由は多く、初陣では無理もないのかもしれませんが、家康の跡継ぎとなると余計にその失態を責められたのでしょう。大坂の陣では今度こそ汚名返上を!とはりきったのでしょうが、状況が関ヶ原の戦いと違う点を見極められず、大軍を急がせ疲弊させてしまい家康をまたも激怒させる、悪い人ではないのにちょっとタイミングの悪さを感じてしまいます。彼自身自分が平均的人間であり、カリスマ性や才気ある者ではないと自覚していたと思われます。豊臣家滅亡を強く主張したのも、目障りとなる可能性の高い家を父の存命中に今滅ぼす必要性を感じてのことでしょう。そのためには、娘の夫、妻の姉を犠牲にできる必然性を彼は抱いていたのだと思います。だからこそ、父家康の死後は将軍の権威を高め徳川家の永続性を第一に、独自性も加味しながら進めて行ったのだと思います。乳母の遺言の”情で掟を曲げるな。父の教えを守れ。”をいわばそのまま踏襲し、福島ら旧忠臣や側近をも改易し、大きな勢力を持ち過ぎた大名の力を削ぐことにより幕府の体制を整えて行ったと感じます。貞観政要の”創業は易く、守成は難し”は確かに正しいですが、私にはどこか恩義や家臣との繋がりに薄い人物に見えてしまいます。
やってることは金正恩と大差ないな
俺は秀忠ファンですけど
伊東さんの秀忠に対する厳しい評価に聞いててスカッとしました。
幕末に秀忠の改易ラッシュの恨みは引き継がれていきます
中西さんがかわいい🩷
家康が偉大か?凡庸だろう。ただ長生きしただけでチャンスを得たにすぎない。
モジャ夫が色々やらかしてるから脳科学者って聞くと笑っちゃうんだよなw
秀忠家康o型だから
どちらも失態といえば失態だが、関ヶ原の件はともかく大阪の陣の件は番組で取り上げられるほどの失態と言えるかは疑問