佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その43」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
皆さんごきげんよえ今回のミリンダモニョ のテーマはこの私たちの体肉体をどう扱う べきかどのように見るべきかという問題で ありますえもう何度も申し上げてきました ように仏教では執着をする何かに しがみつくということが苦しみの大元で あると申しますで当然ですが私たちの肉体 というものに執着をするのもまたこれは 苦しみのもになる所業無常でどんどんと年 を置いてえあるいは病気になって衰えて いくこの体をいつまでも今のままでいて ほしいと言ってしがみつけば当然ですが 現実と自分の欲求とのこのそ食い違いに よって苦しみが生じるわけですから私たち は自分の肉体というものにま執着をしそれ をもういつまでも今のままの状態で起き たいと願ったならば必ず不幸になるとこう いうわけですね苦しみが来るというわけ ですですから私たちの体に執着をするなと 言いますしかしそれならばその一方もし 執着をするなと言うんだったらこの体を さっさと捨ててしまえばいいんですかと もうこんな体なんかいらないですともう この世からおさらばしたらいいんですかと いう話になるとそうはいかないなぜならば 私たちは自分の心を変えることによって 自分の心の内側を変えることによってえ 苦しみから逃れようとしているのですが その心を正しく保っていく入れ物としての この体肉体はどうしても必要なんです ね肉体が滅びてしまいますとそれをその中 に存在しているえ精神作用も当然崩壊し ますからえま簡単に言えば仏道主にができ なくなるそれはそうですね心が壊れて しまうわけですからそうなりますと仏道資 尿そのものが根底から不可能になって しまうというわけでこの体というものは 厭うべきもの執着してはならないもので ありながらしかし大切に守らねばならない というそういうま両面を持っているんです ねで今回のこのミリンダ門入の問答はその その点をえ長聖な長老が明確に語ります じゃちょっとご紹介いたしましょうえ大論 の28まこの数字はあんまりもうあの意味 ありませんけどね私が勝手につけてる数字 です体は身体は厭うべきものかもう嫌がる ものもういらないとこう考えるものなのか 保護すべきものなのか厭うべきものか保護 すべきものかどちらなんだというそういう 手あのテーマでありますで王様が メナンドロス王がこう聞きます出家者に とって身体は愛しいものです かもう大事大事体って素敵だねもう可愛い 可愛いとこういうえ愛しいものですかと 言いますすると尊者がいいえ愛しいもので はありません仏道主業者にとってこの身体 肉体というのは決して愛しい愛すべきもの ではありませんではどうあなたたちは身体 を至るのですかこれはですね至るというの はえ仏教ではもちろん病気になったらそれ を直す治療をしますしえあるいは場合に よってはそのお寺の専属のお医者さんと いうのがおられてお坊さんが病気になっ たり怪我をしたりしますとその人がえ直し てくれるというそういうまあの事例ですね そういうものもあるわけでえ仏教のお坊 さんというのは自分の体をま痛めつけたり 粗末にはしません大事にします健康を保つ ような様々な努力をするんですね例えば 仏教ではあのあ皆さんご存じですか日本の お風呂ねえあのお湯につる今のお風呂の あのスタイルの期限は仏教なんですねえ 元々えインドでえお釈迦様がえ僧侶たちが 体をま損なわないように健康を保つために ということでえサウナを制定されますだ から仏教の昔の文献の中には本の中には サウナの作り方とかえサウナの入り方とか ね詳しく書いてあるんですよでその仏教は 必ず体を保つためにまお風呂に入るサウナ ですけどねそういう伝統がインドでえ 始まりもう古くからそういうものがあって それが東南アジアにもスリランカにも そして中国にも伝わりそれが日本に入って きてえいわゆる虫風呂サウナの1つの形式 が出来上がるわけですねでそれが日本中に 広がってえやがてえそれがもう少し贅沢に なりますとあの釜でお湯を沸かすという こっちの方が燃料もかかりますしねえ大変 なんですがやがてお湯に浸るというそう いう習慣が出てきて今の日本のまお風呂 文化っていうのかなえそういうものが発展 してきたわけで元々我々がこう湯舟に使っ てああ極楽極楽とまさに仏教的にねこのえ 楽しんでいるえこの姿はこの仏教が元々 ですねここで体を至りそしてえ健康を保つ というその方針から生まれてきたものなん ですねでそれがここにも現れてるわけでえ 王様が不にがるわけです体はうべきものだ 肉体なんかに着してはいけないと おっしゃるのにその肉体を至って健康を 保つ保とうとするのはどういうわけですか とちょっと矛盾してませんかとこういう わけですねでこれに対してえ尊者様が答え ますえ身体に執着はしませんその通りです 正しい修行を続けることができるように体 を至るんです執着はしませんが しかしあの1番の目標は主要が続けられる ということなんだとそして主要をま え正しくねま瞑想ですわね瞑想したり お釈迦様の教えを習ったりま要するにえお 寺の中で仏道を学んでいくそのためには まずは体が健康でないとできませんとそれ はそうですねえ動か体が動かなくなってま 精神もね衰えてきたらもう瞑想するどころ じゃないえお釈迦様の教えを聞くどころ じゃないということになってしまいます から主要のために体を至るんですとで例え としてこんな例えがありますえ傷ができる と私たちがこう暮らしてると体で色怪我を するで怪我をした傷口というものは愛しい ですかと傷口は愛しいです切っちゃったと でここにまああの切り口ができてカブが できたりねえなんか炎症を起こしたりする その傷口に対してあなたは愛しいと思い ますかと思うわけないですね愛しいと思わ ないのにどうしてあなたはその傷口に そっと薬を塗りそして包帯を巻いてえ大事 にえま言って保護するのはどうしてですか 一緒じゃないんですかて言わこれなかなか 面白いですねでそれは傷口がしいからでは なくってその傷口が悪化したり傷が治ら なかったりするとそれによって私自身がえ ま正常な生活ができなくなるので正しい 生活良い生活を守るためにそのために傷口 を私たちは大事に保護するでしょそれと 同じで同じ体が傷口なんですだから体と いうのは決して愛しいものでも何でもない んだけれどもその体というものがちゃんと していないと主要というもっと大切な1番 の目的がえま阻害される叶わなくなるだ からえ体というものを厭うことによって 狩女という道を守っているんですとこう こういう例えなんですねそしてえ最後に このえ長聖な長老はえゲを解きますゲと いうのは死ですあのインドインド語で書か れた死を解くんですですがその死はこんな 死ですねここで赤い文字で書いておきまし たがえ身体とは湿った肌に覆われここのの 出口を持つ傷である傷のようなものだと 例えですねその全てから汚くて腐った匂い のするものが流れ出すのであるとなんか すごいあの表現ですがあの目とか耳とかね 私たちの体にはこのの流質光があると言ん ですねでえ例えてみれば私たちの体という のは小の流質光を持ち湿った肌湿ったって いい意味じゃありませんなんか ジュクジュクしてるという意味です湿った 肌で覆われた生き物そういう存在であり そこからは常に汚くて腐臭が漂うような いろんなものがその小の穴から外に出て いるそんなもんなんだとそんなものがです かと言ってるわけなんですねで愛しくは ありませんしかしそのまあなんだか気持ち の悪いそのその肉体を保っていかないと その内側で働いている心が働かないこ別に ね心は綺麗だとは言ってじゃ言ってるん じゃないですよあの心だって煩悩煩悩で 汚いんです人間の体は肉体も心もみんな 汚いというのが仏教の基本的な世界の見方 ななんですねなぜならば生きてることは 苦しみだからこの私という存在は苦しみの 大元なんですねでそれが綺麗で美しくて 素敵なんていうはずがないというわけでま そういう意味では非常にま悲観的に自分の 姿を見るんですがだからこそそのそのどう にもならないその私の身体肉体それから心 心身を自力で安楽なその汚れた状態から 汚れていない状態へ自分で変えていかねば ならないとそういう風に言うわけなんです ねもちろん肉体は変わりませんからこれは もう小のの汚い穴を持ったえ存在はもう 変わらないけども内側の心は自分の力で 清らかになるというんですねだからそこに 主命を集中せよとこのように言うわけなん です ねえまとめて言いますと生き物は外界と その外界からの情報を取り入れる認識期間 目とか耳花これが肉体ですこれが肉体です その肉体にある感覚期間を通して情報を 内側へ送り込んでそこで心の働きが起こっ てくでこの3者外界それからそ肉体そして 内側この3者が一体となって複合的に存在 ししているのが私たち生き物です魂など ありませんどこかに中心などありません この3つが合わさって作用している状態が 私ですということはそのちょうど中間に ある継目にある肉体新体が衰弱しますと心 の作用も衰弱するんですね体が衰弱すると 心の作用を正しく制御することができなく なりつまり感覚機関が衰えてしまうわけ ですでそれによって心の働きがえ弱くなり そして修行が阻害されるのでありますです からそういうことにならないように身体を 保護して修行に専念する環境を整えること が推奨されるというわけでそれで肉体を 健康に保つというのは大事な仏道主要の 要素になるということなんですねでそうし ますとね体が弱っちゃったらどうすんだと 体弱っちゃったいくら保護したってみんな 年を取って病気になりますからだんだん 修行できなくなりますよねでどんどん収用 が進んで完成してしまった人ならいい けれども途中なのに体が何かこう肉体的に ね弱ってしまったらどうなるんですかと いうことに対してはこう考えますね修行 できないあるいは修行できない状態になっ てしまった人はどうすれば良いのかそれは 世間的全を積んで世の中の接続の良い行い をしますと前王がつきますねその前王に よって将来先を見通し主要できる環境に 生まれることを期待するまあ言ってみると 1回休みというよな感じでねすごろくのね でまた今いいことしとけば例えば人に不正 をしたり人に優しい言葉をかけたりこれ ならば体が弱ってしまってもできますわね そういうことをことによってゆくゆくは やがて主命が進むような状態に自分がこう 生まれたいとこう願うという形が1つです まお釈迦様の時代の古い仏教だとだったら こう言いますよねこのように言います しかしそうじゃなくてもうその主要という もの自体の内面を主の本質を変えてしまっ てまあ言ってみると体が弱ってそう座禅が できなくなっても悟りの道を進めない だろうかという思いがやがて膨らんできて そしてお釈迦様が決めたような厳しい出家 修行と出家した修行をしなくっても日常の 暮らしの中で私たちはえその狩女のま エネルギーを貯めていけないだろうか主要 を積み重ねていけないだろうかということ でやがてえ仏教の悟りへの道が色々と別の 形が考案されるようになっていくこうして まあのお釈迦様が言うような えー厳しい修行でない形での悟りの道を 探るうちにいろんな違った仏教の道が 生まれてくるようになるんですねえこれが いわゆる大腸仏教と呼ばれるような様々な うん別の形での悟の道を生み出していく まあなんていうかなえ 根本的な思い雰囲気同機になっていくと いうことなんですねですから今回の対話は ま非常に純粋単純シンプルなんですけれど もえそれがもしうまくいかなかったらどう なるんだというところから別の形の仏教も 生まれてきたということもえわかるんです ねはいそれじゃあ今回はそういうお話で ございました次回はまた別のテーマについ てお話をいたしますこれでゴブレしますご OG
第13シリーズ。ギリシャ人の王ミリンダと,仏教の長老ナーガセーナが対論する『ミリンダの問い』をご紹介します。全シリーズを最初から順にご覧になりたい方は下記の「再生リスト」をお使いください。今回は本シリーズ第四十三回目。身体に執着してはならないと説く仏教が,それでも身体をいたわって暮らせと言うのはなぜか,というお話です。
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