明石家さんまとなんば花月を支えた女性の話

お茶子さんとはその昔吉本工業の主要劇場 難波ヶ月で芸人さんのお世話をしていた 女性のことで楽屋の掃除洗濯お風呂を 沸かしたり電話対応出前の注文芸人さんに 劇場出番を伝えたり言うことを聞かない 芸人さん悪さをする芸人さんを叱ったり 落ち込んでいる芸人さんを励ましたりお腹 をすかしてる芸人さんのために弁当を作っ てきたり雑務全般1.に担うナンバーヶ月 になくはならない存在でした今回はそんな お茶子さんとさまさんについての話をして みたいと思いますこれものすごく好きな エピソードなので前から紹介したいと思っ ていましたとてもいい話だと思いますので 是非最後までご覧 ください新入から大ベテランまで強烈な 個性を放つ吉本の芸人さんたちを相手に 分け隔てなく母親のように接していたお 茶子さん歴代何人の方がお茶子として働い ていたのか僕は知らないんですけど最も 有名なお2人は難波ヶ月が会館した 1963年から勤務されていた狭徳さん そしてその10年後から勤務された古住 高えさんこのお2人だと思います徳さんは 奥という相性で高井さんはその見た目から たぬきまたは大き金太郎と呼ばれていまし た特さんは難波ヶ月の会館から閉館まで 勤務されたので難波ヶ月の歴史の全てを 知る女性ということですね2角三子安きが スターカドを爆進していく姿漫才ブームで 溢れかえる難波ヶ月の様子アシアさんまの 絶頂期難波ヶ月の誕生から難波ヶ月が消滅 する瞬間まで全てを内部から見つめてこ られた方なんですねさまさんは弟しっこ 時代からお茶子さんに楽屋での作法なんか を教えてもらって特に可愛がられていまし た1976年さまさんが21歳の時に小福 亭2角師匠の爆笑3段とびというテレビ 番組の埋設を担当されて携帯模写という 物まねゲーを用いて吉本の社員さんから 注目されることになるんですけどその舞台 となったのも難波ヶ月兄弟子との漫才が 注目され吉本から正式に漫才コンビを組む よう命じられそれを断り一時期難波ヶ月の 出番を干されるという出来事もありました まそんな苦難にもめげずに踏ん張り便芸人 として再びヶ月の舞台に立ちその舞台を見 た桂三子さんに気に入られサンマさんは 人気番組ヤングOOのレギュラーメンバー として抜擢されるということもありました そしてのりおよおB&Bザボンチとの コントユニットビールス7ではちゃめちゃ なコントをナンバーヶ月で披露し吉本工業 の社員さんからバイキン扱いされていた 時代もありましたでもこのユニットでの 経験が後に訪れる漫才ブームにおいてサマ さんを救うことになるんですねねそんな さまさんの歴史の大きなターニング ポイントの影に狭徳さんは常に存在しさま さんを元気付け励ましていました特さんは 声が大きく口が悪い毎日のように行儀の 悪い芸人さんを叱りつけナンバヶ月の楽屋 を走り回っていました大昔はやんちゃな 芸人さんが多くて中には犯罪を犯す芸人 さんもいたそんな中で楽屋を取り仕切って 雑務をこなし芸人さんを劇場まで出さない といけない林や小さんは何度しっても出番 前に酒を飲む2日酔いの横山安さんはいつ も怒り散らかしている芸人さんに金を貸し ているやが連日楽屋に押しかけてくるので その相手もしなければならない特産は必死 だったんだと思いますさまさんはそんな 特産をおのおばはおのおかと親しみを込め て呼び母親のように慕っていたんですね 劇場の支配人も大御所原でさえも頭が 上がらない難波ヶ月の頼れるを感そういう 存在だったんだと思います古住高えさんは 希少の激しい特産と比べると温和で黙々と 仕事をこなすタイプだったようです芸人 さんともすごく仲が良くて狭官平さん なんかは一緒にパチンコに行ったりしてい たそうですお2人とも芸人さんに寄り添い 献身的に芸人さんを影から支えていた難波 ヶ月に欠かせない存在だったということ ですねさまさんとチコさんの1番の思い出 は何と言っても風呂場逃走漫才ブームの時 も連日お客さんが押し寄せて難波ヶ月は大 混雑して色々と大変なことはあった でしょうけどその時は老若男女いろんな 世代のお客さんが来場するので大勢の若者 が楽屋guysまで押し寄せるということ はあまりなかったと思うんですねもちろん 一部の若いファンが出待ちするっていう ことはあったんでしょうけどまそれは容易 に対処できたとでもさまさんの再生期人気 絶頂期ですね通常公演の時はまだマシだっ たと思うんですけどサマさんの特別公演と かスペシャルライブが行われる時は とにかく難波ヶ月の周りに若い女性ファン が集まってきて大変だとサンバさんは タクシーを降りてから難波ヶ月に到着する まで多くの女性ファンを引き連れながら 歩かないといけない難波ヶ月は駐車場が ないのでどうしても難波の商店街を歩か ないといけないんですねそういう時は徳 さんと高えさんがさまさんが到着する頃に 楽屋の通用口のところでさまさんのファン に向けて水を巻くんですねまそうしないと さまさんが楽屋に入れないので水をかけ まくるんですねまそれでもひまないファン にはゴミを投げることもあったそうです それが名物というか高齢の行事になって 2人はファンから水かけババーと呼ばれて 疎まれていたそうですドアのところに 水かけばばはしねと落されることもよく あったそうですそうして嫌われ役を買って 出てさまさんのお身を守っていたんですね 劇場から出る時はさらに大変で劇場に入れ なかったファンも混ざって劇場の出入り口 から難波ヶ月周辺まで至るところで出待ち のファンがさまさんを待ち構えているとま そんな時は難波ヶ月の風呂場の窓からさま さんは出ていくんですねまこれも特さんの アイデアでまそっから出てって毎回道を 変えてファンを巻きなからタクシーに 乗り込むとま風呂場から出ることで大混乱 を避けて帰ることができたんですねまそこ までしなければならない芸人さんはさま さんが最初で最後だったようですまこれが その難波ヶ月の風呂番の写真ですね大輔 花子の宮川大輔さんが入ってありますけど もま徳さんは合法内楽で肝っ玉が座ってい てま男性芸人さんと一緒にお風呂に入る ことがあるぐらい豪快なところがあって時 には特さんがお風呂に入ってる時にさま さんがこの窓から出ることもあって毎回 うまく帰りの時間をずらしながら出ていっ てたんでしょうねま当時さまさんといつも 行動を共にしていた村上正司さんは難波 ヶ月の進行がかりをされていたので特さん には特別可愛がられたそうですでもさま さんと一緒に風呂場から出て行こうとした 時にはお前は10年早い表から出ていきと 怒られたそうですまさまさんの他に唯一 風呂場の窓から帰っていたのは狭官平さん 理由は出待ちのファンから逃れるためでは なく借金取りから逃げるためでしたま ちなみに吉本新規劇の桑原和夫さんが かず子ばあちゃんのキャラで登場する時に お乳を出すことがあるんですけどこの ビロンと垂れ下がったお父のモデルは特産 であると聞いたことがあります1984年 になるとサマさんは過劇場の定期公演に 出演しなくなりましたまそれはなぜかと 言うと当時落語から距離を置いていた様 さんはナンバーヶ月で披露していた満々も やめて雑談ゲフリートークを極めるために 様さ自ら決断したことだと僕は思ってい ますま当時はテレビの仕事が忙しすぎて ヶ月の出番に穴を開けることもしばしば あって吉本への不満もピークに達しようと していたっていうのも大きかったと思い ますね自分で自分の仕事を選べるようにと サバさんはこの時吉本と戦っていたんだと 思いますそれが認められたのか吉本が諦め たのか分かりませんがサバさんは難波ヶ月 への定期講演に出演しなくなって正月公演 や盆公演などに数回それとサンマ スペシャルという特別公演を行う時にのみ 南波ヶ月に出演するようになりますそれで もテレビのサマの駐在さんの収録は難波 ヶ月で行われていたので週に1度のペース でお茶子さんとも会えていたんですね 1986年には俺たち表金属で大活躍 ドラマ男女7人夏物語も大ヒット特さんと 高えさんお2人のおチコさんはデしっこ 時代のさまさんからテレビ会の大スターと なっていくサマさんをすぐそばで見守り 続けていたということですねそして時代は 流れ1987年11月吉本工業が運営する 総合レジャービル吉本会館の館内に新劇場 ナンバグランドヶ月がオープンします しばらくの間はナンバヶ月とナンバ グランドヶ月は共存しますが1988年5 月31日難波ヶ月はその役割を終えて閉管 しますサマさんの最後の難波ヶ月の ステージは1988年5月22日サマの 駐在産スペシャルの収録でした高えさんは 1983年に退職しており以降はおそらく 特産1人でナンバヶ月のお着をされていた んだと思われます月の閉に伴いおチコ制度 は廃止ナンバグランドヶ月に特産の居場所 はありませんでしたナンバグランドヶ月 通称NGKは寄せではなく小水恵比寿橋 小竹やないんやからお茶子はいらんと林 正之助会長の方針でそう決まったのだそう です後に廃止されましたがNGKでは会館 当初出前を取るのを禁止するという制度が あったそうです勝に出前はニということな んでしょうねサンマさんのナンバヶ月最後 の公演1100枚用意されたサマの中さん スペシャルの観覧チケットは即日完売マグ が上がり客席の完成を一心に浴びたサさん は全盛紀のナンバヶ月の熱気を思い出し ます舞台には月亭発砲さん中田ボタンさん 今行くよ来るよ何人トリオ朝明恵さんハイ ヒール博多海さん小腹艇松のス決勝など3 中さんを彩ったメンバーたちが勢揃いして ステージを盛り立てました公演終了後楽屋 へ戻ったさまさんは月刊誌マンスリー吉本 の取材に応じます僕の難波ヶ月はこれで 最後です奈良の田舎から先のとんがった靴 を履いてラッパズボンで出演していた頃を 思い出します舞台で満々をやっていると 子供がエナメル靴にマジックでアホと書く そんな演芸状がなくなるなんてこれだけの 人が毎日来てくれたら閉せずに住んだのに 難波ヶ月の思い出は語り尽くせませんこの 寂しさは難波ヶ月の舞台を踏んだものに しかわからないみんながわしも出るわしも 出るって言ってくれて本当に嬉しかったと 語りましたサバさんはしばらくの間仲間 たちと楽屋で断捨した後おかんそろそろ 帰るわと特さんに話しかけますその瞬間特 さんのノりには売れない頃のさまさんが暇 を持て余し大好きだった先輩の森刑事さん と難波の町をうろついては道行く女性を 笑わせるため片方の靴を脱いで歩き靴下を 真っ黒にしてナンバヶ月の楽屋に入って くるのを怒鳴りつけた思い出やおかん霊光 言うといてとアイスコーヒーの出前を特さ に頼むさまさんの声さまさんとやきと阪神 巨人が夜遅くまで楽屋でトランプをして いるところに割り込んでいつまでやっとん やうち帰られへんやないかいと放棄で 追い出した時の思い出などが浮かんだんで はないでしょうかそしていよいよ別れの時 さんまちゃんこれでお別れやで気つけて 行きやと風呂場の窓を開けてさまさんを 送り出そうとすると徳さんは涙が溢れてき ましたさまさんはそれを見て大笑いし ながら何泣いとんねんまた会えるかなほな 行くでと特さんに語りかけ楽屋中に響き 渡るような大声でほなまたなと言い残し 風呂場の窓から去っていきました徳さんは そのさまさんの背中を見てもう2度とさま さんに会えないのではないかと寂しさが 募りさらに涙が溢れてきました特さんは その後難波ヶ月の閉管を見届け吉本工業 から去っていきます吉本工業は1984年 から一時期ヶ月の劇場に多大な貢献をされ た芸人さんを称えるヶ月対象という賞を 設けていました特さんはその第1回表彰式 に招待されヶ月お茶故障という賞を授与さ れていますチコさんのヶ月劇場への貢献度 は数字では図ることはできません昭和の 時代売れてる芸人売れていない芸人強烈な 個性を放つ荒くれ者の芸人たちその全ての 芸人さんのお世話をする楽屋を綺麗に保ち 芸人さんを円滑に舞台へと送り出さなけれ ばならない芸人さんを慰めたり時には知っ た激励するそれには大変なご苦労があった ことは容易に想像できますそんなお茶子 さんたちを称えるためヶ月お茶コシという 息な賞を設けてお茶子の代表である特さに 授業するこれは素晴らしい計いだなと思い ましたその後さまさんと狭徳さん古住高え さんは読売りテレビで2000年と 2002年に放送された春はサマから スペシャルという特番で2回共演されてい ます僕はその特番でお2人の存在を詳しく 知れたんですけどその特番の1回目に特 さんが難波ヶ月で働いてる時はみんなが 色々お祝いをしてくれたとおじこさんにお 世話になった最後の世代ダウンタウンの 浜田さんからはタバコケースをプレゼント されてそれは特産の宝物になっていたそう ですでも難波ヶ月が閉管したらそういう こともなくなるんだなともし難波ヶ月が ある間に死ぬことができたらみんな葬式に 来ててくれて盛大に見送ってくれただろう なと吉本を辞める時にそんなことが頭に よぎったと語られていたのがとても印象に 残っていますまでも徳さんと高えさんも サバさんと再開できて本当に嬉しそうでし たねサバさんも嬉しそうでしたま2回目の 時はお2人がさまさんたちを招待されて手 料理を振る舞っておられましたま当時お 2人は80歳を超えていたんですけどその 後も何度かお元気な時は年に2回ぐらいサ さんに内に手作りのチラシ寿司を持って 毎日放送に遊びに行っていたようですその 度にサマさんはお小遣いを渡されていた ようで正司さんによるとサマさんはお2人 が現役時代の頃からよくお小遣いをあげて いたそうですまこうしてささんの特番でお 2人にスポットが当てられたりこの特番が きっかけとなって時々再開できるようにも なったとま本当に素晴らしいことだなと 思いますさまさんほどおチコ高校をされた 芸人さんって他にいないんじゃない でしょうか2018年7月20日にはさま さんが企画プロデュースを務めた Netflixのオリジナルドラマジミー アホみたいな本の話が配信されましたこの ドラマはサマさんとジミー大西さんの若き 日の物語が描かれていてジミーさんは難波 ヶ月の進行係りとして働いていた経験が あるので特さんをモデルにしたお茶子さん も登場します演じるのは浜田まさんこは 悪いが心根は優しい特さんの役を生き生き と演じてはりましたさまさんと浜田まさん も深い縁があるんですよね恋のバカンスと いうドラマでさまさんと初共演した頃浜田 さんは事務所倒産に伴いモダン チョキチョキというバンドの活動を休止 人生のキロに立たされていましたまその時 にドラマ出演のオファーが届くんですね 個人名義でドラマに出演するのはコイの バカンスが初めてでエジル役はサンマさん の恋人役サさんは本番直前までスタッフや 共演者と断捨し本番が始まるとNGを一切 出すことなく演じあげる浜田さんはその姿 を見て感動するんですねまそんなさまさん にまりちゃん演義うまいかな歌手より女優 の方が向いてるんちゃうかこれからも 頑張りやと声をかけられ浜田さんに自信が 芽ばえんですねそして新たな居場所を 見つけた浜田さんは女優としての道をを 邁進していくとまそういう縁のある女優 さんがさまさんがお世話になったおチコ さんを演じるというのはこれもまた何かの 縁なんでしょうねこのジミアホみたいな 本間の話という作品が作られたことでお 茶子さんの存在が映像として永久に世に 残るというのは素晴らしいことだと思い ますこれもお茶子高校ですねお茶子さんの 以内難波グランドヶ月は芸人さんたちの 努力活躍により大きく賑い今も笑いの伝統 として多くのエゲファンから愛されてい ますまここで言いたいのは難波グランド ヶ月が大成功を納めることができたのは 難波ヶ月が繁盛していたからそれは表部隊 で活躍する芸人さん優秀な社員さんたちの 力だけではなくお茶子さんたちの献身的な 支えがあったからこそ成し遂げられたんだ ということです難波ヶ月の内場を知り 尽くした狭徳さん古高さんお2人はに出演 することはありましたが芸人さんとの 楽しい思い出を語るだけで多くは語りませ んでしたまもっとお話を聞いてみたかった なと思いますが余計なことは喋らない そんなお2人だからこそさまさんや多くの 芸人さんたちから愛されたんでしょうね 今回のお話が少しでも興味深かったなと 思っていただいた方は高評価ボタンを押し ていただけると嬉しいですそして チャンネル登録をしていただけるとやる気 がめちゃくちゃアップしますので気が向い たらよろしくお願いしますそれでは最後に 明さまの難波ヶ月あるある を難波ヶ月の舞台に立った時に客席に身内 や昔の彼女がいることに気づくと調子が 狂い羅列が回らなくなり がちさまさんが223歳の頃歯学園短期 大学に通っていた彼女と別れたすぐ後に その彼女が難波ヶ月の1番前の席で新しい ボーイフレンドと腕を君で見ていた時には ロレスが回らなすぎてまあひどい出来だっ たそうですそらそうですよねさまさんの 難波ヶ月の苦思い出でした以上です [音楽] HOG [音楽]

エムカク著『明石家さんまヒストリー11955~1981「明石家さんま」の誕生』

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★プロフィール
エムカク(明石家さんま愛好家)
1993年より、明石家さんまさんの番組での発言、関連書籍、関連雑誌などを収集し、日々、明石家さんまさんの年表を作成しております(´ϖ`)
著書「明石家さんまヒストリー」(新潮社)発売中!

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★誰も知らない明石家さんま(日本テレビ)
第1弾~第9弾リサーチャーとして参加
https://www.ntv.co.jp/sanma2019/

★桃色つるべ(関西テレビ)
出演:笑福亭鶴瓶、ももいろクローバーZ
ゲスト出演させていただき、鶴瓶さんに公開取材しました(^^)

★伝統河内音頭継承者 河内家菊水丸さんとの対談動画
https://www.youtube.com/watch?v=M2RMzTKNFD8&t=1s

★SNS
X(旧Twitter)
主に明石家さんまさんについてツイートしています。

Instagram
https://www.instagram.com/m_kac30/?hl=ja

#さんま #お茶子 #なんば花月

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