【朗読】亀井勝一郎「太宰治の思い出」 朗読・あべよしみ
ダザイおの 思い出加克 一郎6月15日の 朝ダザイ君失踪のことを新聞で知っ た確実に自殺した様子で ある昭和10年頃と思うが彼は数辺の短編 小説を書き上げ これを封筒に減封しその上に万年と記して 死ぬはずであっ た実現していたならば万年が唯一の衣装と なっていたで あろう当時のことを考えるとそれから13 年ほど長生きしたわけで ある今日まで生きならえたことは不思議と 言えば言えるのである 作家は処女作に向かって成熟していくもの だ晩年への成熟の極点に今日の死があった ように思われてなら ない必然な安らかな感じがするのだがどこ かに信じきれぬ気持ちも あるダザイ君は私にとっては極めて言う もらすな明るい友人であった 時々途方もない空想的計画を抱いて我々を 面白がらせることが あるその1 つある時に彼 曰く自分は自殺したふりをしてしばらく身 を隠すすると先輩や友人や批評価どもは 様々の思い出や悪口を書くに違いねえ味方 のような顔をしていたやが敵であったかも しれぬ 急に友人ずらをするやつもある だろう自分はその時のこのこ出てきて死後 の評価を残らず読んでやるというの だこんな意味の冗談を言ったものだ がそうであって ほしい様々の事情から今度の死は疑えぬ ようだがこんな冗談が明るい一点の光と なってなお私の心に揺らいでいるので ある私は自殺についていかなる判断も持た ない少なくとも彼の実生活に即して言う なら ばあらゆる憶測は比例である人間は死ぬ ものだこの事実だけを信じれば 足りるそれに私自身は自らを殺そうと思っ たことは未だかつて1度もない人間で ある死のうと 思うダザイの若年の頃の作品にこうした 言葉がしばしば繰り返されるのを見て私は 不可解であっ た 午後イさんのオタへ 行く川森吉蔵市も来るそこへ大勢の新聞社 の人がやってきて死の原因について色々 尋ねる ダザイが青年時代状況してから最近までの 文学的全障害を一番よく知っているのはイ さんだけで あろう私がイさんと親しくなったのも打を 通じてであっ た新聞記者の尋ねる死の原因については 何事も知らぬと 答える事実かなり長い間打に合っていない のである 死なねばならぬ理由はないはずだと言い はるしかしそう言っているうちに死の原因 は非常にはっきりと分かるので ある作家にとって死の真因とはその政策で ある他のどんな原因もこれに付随したもの にすぎ まい井さんと共に三鷹へ行く子に会う ダザイの最も古い友人の1人今春部君も すでに駆けつけてい たイさんととにダザイの仕事部屋の方へ 回る千草という店に大勢集まってい た初めて詳しい事情を聞かされ た死はどうしても疑えないように思われて き た色々の手はを決める 豊島吉義が早くから来て適切に応答してい てくださった らしい打も酒飲みだからまあいいだろうと 言って3人でウイスキーを 飲む新聞の人々編集者カメラマン近所の 人々実に大勢集まって いる我々は何をしていいのかわから ない事件はしているようで実は一歳が停滞 しているように 見える何事もなかったような気も するただいつでも会えると思っていた ダザイがそばにい ない日が暮れてき たイさんといや大師君を誘ってダザイが 受水したという川にそうて歩いてみ た乳色の脱水が非常な勢いで流れている だけで ある自然文化園の裏側を通って2人を接着 へ 招くダザイも酒飲みだからまあいいだろう と言って酒を 飲むダザイおの名を知ったのは昭和9年頃 であったと 思う当時私は日本ローマン派を始めた ばかりであった 中谷高尾伊藤先夫神保孝太郎安田与十郎羽 由子中島栄治郎子緒方高が相関当初の同人 であったと記憶 するちょうど同じ頃青い花という同人雑誌 も相関されたがその同人には打おを始め今 へ今の春部君ダ和夫今間一山岸返しがい た青い花は1号を出した霧で配管となり その同人が全部日本ローマン派に合同した ので あるダザイはその頃まだ健康が悪く同人会 には1度も出席しなかったので顔を 合わせる機会はなかった 晩年の初編を書いていた頃であろうが雑誌 の上には発表せず昭和10年になって日本 ローマン派に連載したのが今日水相集に 納められている物う足と壁岩発で ある物う足という題名にて日本ローマン派 の機関雑誌におよそ1家年ほど続けて書か せもらうと思い立ったのには次のような 理由が ある生きていようと思った から私はなりわいに務めなければいけない ではない か簡単な理由なん だこれがその書き出しで ある日本ローマン派は当時全部印刷しその 費用は同人費全部でおよそ100円に満た なたがそれが容易に払えず印刷屋にはいつ も230万の借金があり責められてばかり いた状態であったから到底打のいわゆる なりわいにはならなかったので ある日本ローマン派は昭和初島における 左翼崩壊の後の混明理に発足した雑誌で ある1人1人が傾向をことにしていた それまで私のこういう範囲も物の考え方も 概ね左翼的であったからこのグループは私 にとって非常に珍しい異質的なものであっ た同人の中で多少とも左翼運動に関係した ことのあるものはダザイと安田と私の3人 きりであったと 思うしかしダザイと安田の左翼というのは どう考えても珍妙で私は長い間納得ができ なかっ たこの2人だけでなく同人の中には ユニークな才能を持った人が多く大部分は 20代ないし30歳をわずか超えたばかり で元気もあり私には天才の見本ばかり 集まっているように見えて愉快でもあり 不快でもあった こういう文学流派はそれまでの分断に反抗 するのが常であり我々もそれをやったわけ だが1番激しい告は同じグループの内部に おけるそれぞれのユニークさによって火花 を発するもので ある打veryの最も嫌った人物は安田 与十郎であり安田の最も嫌った人物は ダザイオであり 私自身にはこの2人とも一向に容量を得 ない人物であっ た安田の書くものは何が何やらさっぱり わからず今でも私には分からないのだ が打にはまだ合わなかったがその書者は私 には軟弱で生息でわがままで気取っていて 到底手に負えぬものと思われたのである 私は固くストイックであり酒など一滴も 飲まなかっ たダザイは佐藤春押とイさんに指示してい たようで ある私はこの両線生にも無関心であり私は 武者さん以外の誰も尊敬していなかっ た打に初めてあったのはいつだったか はっきり思い出せぬ確か 昭和11年秋の晩年出版記念会であっ たろそれは上野西洋県で催され た佐藤春義も井さんもその時私は初めて見 たダザイは黄色い朝の着物を着て仙台平の 袴を吐き誰かが新しい旅を持ってきたのを 宴会場の入り口のところで吐きかけている ところであっ 彼と私は黙ってお辞儀をしただけで ある出版記念会には全部の出席者が テーブルスピーチを試みた私も演説をし たやめる貝殻にのみ真珠は生まれるという アンドレーフの言葉を彼に送っ た最後に打は立って挨拶することになった がその時彼は非常に健康を害していること を初めて知っ た誰かにそばから支えてもらってよろめき ながらかじて立ち上がったそしてしばらく の間何も言えなかっ た皆が真として彼の発言を待っていたが いつまで立っても何も言わなかっ た口もりつつ何か言ったのだが明瞭には 聞き取れなかった ダザイは静かに涙を流しながら全身を持っ て感謝の心を表していたので ある彼は震える手で私に万年を渡し たその扉には筆で 大きく朝日を浴びて赤いりんごの川を向い ている ああ僕にもこんな 一刻亀井勝一郎 学系と書いてあっ たダザイ君が三鷹へ移ってきたのは昭和 14年と記憶する私の家とは歩いて15分 ぐらいの距離で あるある日突然尋ねてき たおよそ3年の間あの出版記念会の日から 1度も会っていなかったの だ見違えるようになってい た発達として実に異性が 良いその時以来昭和22年の秋頃までが 私たちの公有の時期であっ た私に残っている打の印象は健やかで 明るいのだ作品から見ると不学百系東京 八景あたりから正義と美称新ハムレット 宇大臣実友津軽などを経て戦時中の新社 諸国話から社用の執筆が始まる頃までの 時期で ある打は私にとって何よりもまず東北人で あっ た津軽海峡を隔てて北海道の南端と欧州の 北端に生まれた我々は気候フード食物 言葉遣いがほとんど共通してい た海峡の思い出少年の頃はかに望んだ北海 の 山々また北海道の方から見た津軽の 山々そんなことを赤ず語り草にしたので ある特に親しみを感じたのはどちらも東北 弁でありながら勤めてそれを隠そうとして いたところ 今や東北弁丸出しで誰はかることなく方言 することができたためで ある打は状況して以来どうかして東北弁を 直そうと苦心し一生懸命で東京弁を学び彼 の説によると一時は名古屋弁まで近づいた のだそうであるが私にあって立ちまち逆転 したというので ある打おは野人で ある作品から類推されがちなダンディーな おかとはかなり違う繊細な常識家であり 感受性の犠牲者たるべく運命付けられた ような人であるが同時に東北的万人とも 称すべき野生を有してい た百勝のような不しれだった手を持つ たましい体質で ある普通の肉体ならば万年の直後にすでに 倒れていたで あろう彼の肉体にはアジア大陸の血が流れ ているように感じ たイさんに言わせると北方ギリア族の血統 らしいというので あるどのような病気も疲労も23ヶ月の 西洋で回遊するに違いないと我々は信じて いた この自虐家は自分の肉体をも酷使していた のである自分の肉体を嫌悪し恋に酷使して 死滅していく状態のうちに文学を発行さ せる土壌を工夫していたようにさせ らるるスミのダンディズム いや彼自身の血闘に対する渾身の抵抗で あったかもしれ ぬ肉体の国士は言うまでもなく緩慢な自殺 だ太平洋戦争が始まる頃まで毎年6月の 初旬にはイさんに連れられてありに行っ た南伊の八温泉に泊まりそのそばを流れる 河川で釣るので あるこの頃のことが一番 懐かしい彼は上の空で愛を釣っていた 最近はそうでもないがダザイは服装に ひどく 凝るありの時も行しひどく凝ったつもりで とうとう奥さんのスキーズボンを履いて やってきたことが ある彼はまた自分の目立ちやすい長身を はにかみお同じ三鷹に住む元横綱皆川に ひどく道場していたこともある いかに野人であるかは食卓を共にすれば 分かる刺身を1度に8枚ぐらい 食う鮎などは決して好まなかっ た鮎という魚は上品で趣味高き人が食う魚 であると 思い込み特に市の井さんがお好きなので 我慢して食うという次第であっ た彼が本当に食べたいのは津軽に出てく 方のあの荒々しい大味の料理なので ある社用の中で本当の貴族は骨のついた肉 など手掴みで食うとあるが彼はどこからか 聞き込んできて大喜びで行く度も話して 聞かせ た東北流に乱暴に食いたいのであるそれを 非常にはにかみとうとう貴族をちあげて しまう彼の貴族のうちには野生の復讐が あるダンディズムは彼の次長で ある酒に酔うと大声で愉快そうに 話すユーモアに満ちた巧妙な和術時には涙 の出るほど笑いこけて友人たちをもてなす ので ある私たちのためにどんなに努力したかが 分かる肉体の国士である 無理に酒を飲みこうして自身の内部に崩壊 していくものに耐えていたので ある非常によった時など彼はしばしば 言う自分の制作は残り少なくなった絵の具 のチューブを無理に絞り出すようなものだ もう何もない何もないと思っても最後の 一滴と思って絞り出しては書き続けてきた のであるまるで白地だ酒を飲んで心から 美味しいと思ったことなどない酒の味など 分からないのだおい飲もうといった具合で ある非常な寂しがり屋であったから誰かに 会っていなければならぬしかし誰かに会う ことは彼にとって渾身のサービスなので ある誰にも会いたくないのだ口も聞きたく ないのだしかし誰かと会って下酔わねば なら ぬ太平洋戦争に入った頃お酒を飲ませる家 は吉祥寺に1件しかなかっ た彼は三鷹から毎晩 通う誰もいない時はしばしば私を誘ったり また私の家へ酒を下げてやってきて夜まで 飲む彼は何に耐えていたのだろう 彼と飲んでいると人力でどうにもならぬ ことをどうにかしてくれと強制している ような感じを 受ける酒を強制しているような外観を 呈するが壁量を強制しているように感ずる あるいは運命 をたいない酒ではないのだたいない酒だと 称するがその声がいかにも辛そうなのだ 私にどうなるというのか玄関払いを 食らわしてやろうと思ったことがしばしば あっ たそれに彼と話すのはなかなか骨が折れる のだ言葉のなりこそ東北弁とはいえこの 繊細な神経家はわずかな言い回しふとした 火ちょっとした悪口にでもすぐ傷つくの だ人の傷跡に触れることはは罪悪には違い ない他の話をしながら無意しきりに人を 傷つける場合もあろう打にはそれが 答える親しいものほど悪認しされる可能性 が多く なる彼は自分を理解してくれる人のない ことを過つがもしよく理解してくれる人が 出たら彼はその人を最も憎むだろう 神経をあまり使う必要のない自分を 甘やかしてくれるような低能な女が孤独者 にはふさわしいので あるダザイも戦争では被害者の1人であっ た昭和19年の何月の空中であったか彼の 家の周囲は数発の爆弾に見舞われたことが ある家にも一発落ちてその家は倒壊したが 自宅は爆風を受けずかじてまかれ た打は防空号の土が崩れて半身行うとなり すぐそばには巨大な庭石が飛んできてい たこの時家族は興富に疎させお弟子さんの 小山清君と暮らしていたが数日間私の家に 避難しそれからまもなく府の会先へ行き そこでは完全に焼けだされ たそして故郷の津軽へ逃れ た再び三鷹へ戻ってきたのは終戦の翌年で あったと 思う彼は廃墟の都へ帰ってきた彼自身を 廃墟とするため に日本の配線について独特の見方をしてい た こうなれば似ても焼いても食えぬ民族と なって世界中のもて余しもになって手の つけられぬしぶさのうちに要するに彼は 自分の覚悟を語ったので ある戦後の一歳を否定し た民主派や共産派やあらゆる思想流派に 対して彼はリベルタンを宣言した リベルタンプライ派の名において彼はそれ まで心にうせしていた一切への反抗を起と していたように思わ れる自分のどうしても担わねばならぬ 運命怪奇すべきそへ向かって滅びの支度を 急速に始めたように思わ れる障害の総決算をすべき適当の時が来た と考えたようである 配線は彼固有の配線であるそして万年が 再び大きく 現れるこの自虐化のプロテスは非常に執念 深い計画的なもので ある何よりも自分自身に向かって破裂で あったことは言うまでも ない万年から人間失格までの系列はにられ た慢な自殺の系列であるそれは同時に講義 と復讐の固有の形式で あるしかも恥ずかしめられ癒しられたもの として己れを殺す ことこれが心情なの だある時自分は最も軽薄な死を選ぶで あろうと語ったことが あるここにの完成を発したの か聖書を常に愛読し会う旅ごとに関心した 言葉について語ったもので あるしかに酔い ながら近来の彼の人生に処す覚悟ともなり 捜索の方法論ともなったものはま伝第10 章に尽きるで あろう彼がしばしば口にしたセク 身を殺して魂を殺し得ぬ者どもを恐るな身 と魂とゲヘナにて召し得るものを 恐れよ我地に平和を当然ために来れると 思うな平和にあらずかって剣を当然ために 来れるそれ我が来れるは人をその父より娘 をその母より嫁をその姑とより分たんため なり人の敵はその家のものなる べし見よ我なじらを使わすわ羊を狼の中に いるが ごとしこの故に蛇のごとくさとく鳩の ごとく素をなれ 命を得るものはこれを 失い我がために命を失うものはこれを うし彼はこれらのセクを持って配当の指針 としたので ある聖書はリベルタンの聖書と貸し たこれらの言葉はブラ派の気となっ た近来の作品の根底にあるものはこの気で あるそれは反抗の叫びとなり響楽の教えと なりやがて彼の担わねばならぬ運命への 怪奇に 結びつく強い酒を煽りながら自殺は柔軟な の だ私は打の作品と人のうちに最も救われ ざるものという自覚に立った人脈家の 貴教に誇張されたキリスト無法を 見る社用のお嬢さんと称する女の人を連れ て遊びに来たことが ある屋台店へ行って3人でカストリを飲ん だこれが我々の最後の晩餐で あるダザイは生涯に渡って何に怯えていた のだろう おそらく彼の耳元にずさくある亡霊があっ たはず だ彼を死に招く亡霊のさやき がダザイは夜仕事ができないのである夜 原稿を書いていると自分の後ろに誰か立っ ているようで恐ろしくて叶わぬというので ある夜はただがむしゃらに酔いしれるのみ であったが 手を振って元気で明定する彼の動作のうち には何か払いのけよとする気配があっ た今晩年の冒頭の作品歯を読み返してみた が彼の一歳の悲劇が何もかもここに暗視さ れているように思われてなら ぬ彼は本当にこの世にいないのだろうか 6月19日の朝受水して1週間の 後屍は発見され た私は発見されないことを密かに願ってい たのだ が誰もが忘れてしまった頃あの無惨無謀無 神経極まるニュースカメラマンの不在の時 を願っていたのだ が死は確定的なものとなっ た打は処女作手晩年を上司してから13年 目の6月13 日絶筆グッドバイを13回書き残して自殺 し たOG
『太宰よ!45人の追悼文集・さよならの言葉にかえて』より朗読させていただきました。
初出・・・『新潮』1948年6月号
亀井 勝一郎
(かめい かついちろう、1907年〈明治40年〉2月6日 – 1966年〈昭和41年〉11月14日)は、昭和期の文芸評論家、日本芸術院会員。
当初は左翼的政治運動に参加したが転向し、仏教思想に関心を深め、文芸評論や文明批評で活躍した。「日本浪曼派」を創刊。著書に『大和古寺風物誌』(1943年)、『現代史の課題』(1957年)など。
ボイストレーナー・朗読家の あべよしみです。
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