寺尾聡 – The More I See You 三保敬太郎 和ジャズ 和ボサ

[Music] the more I see you the more I want to so how this feeling just grows and grows with every sight I’ve become what M about you my lost without you and so it goes can you imagine how much I love you the more I see you as you go by I all the only one for me can only be you my arms on tree you and my heart won’t try la la la la [Music] la la [Music] la with every sight I become what my about you more lost without without you and so it goes can you imagine just how much I love you the more I see you as years go by I know only one for me can only you my arms on for you and my heart won’t try and my heart won’t try and my heart won’t try [Music]

Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.3
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
http://www.coolhand-records.com/Hip-on-Showakayo-vol.3.html

寺尾聡 – The More I See You
LP : 二人の風船 恋人と一緒に聴いて下さい
Union UPS 5235-J
1970年4月1日リリース。

作詞 : Mack Gordon
作曲 : Harry Warren
Chris Montez のカヴァーヴァージョンをモチーフにしている。

1ヶ月前の3月5日に引き続き東芝とテイチクのボサ戦争第2ラウンド勃発。
先ずモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが4月5日に本件名作アルバムを
リリースした。それに対して流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝は
ボサや同傾向のソフトサウンドのシングル2枚をリリースした。

この曲は1945年の映画『Diamond Horseshoe』でDick Haymesに
よって発表され、オープニング クレジットおよび付随音楽の下で
序曲としても演奏された。インストゥルメンタル・ヴァージョンは、
20世紀フォックスの1946年のフィルム・ノワール『The Dark Corner』
の会話シーンで、ラジオの BGM として全編演奏された。
Chris Montez クリス・モンテスは、この曲の最も商業的に成功し、
よく知られたカヴァーヴァージョンを1966 年にリリースした。
彼のヴァージョンはビルボード・ホット 100 で全米16位を記録し、
イージー・リスニング・チャートでは4週間2位を記録した。

寺尾 聰 (てらお あきら : 1947年5月18日生れ)
日本の俳優・ミュージシャン。
父は俳優の宇野重吉。妻は『西部警察』で共演した元モデルの星野真弓。
1979年秋の資生堂CM『微笑の法則』などに出演したが、
結婚を機に引退した。前妻は范文雀。『2丁目3番地』で共演し、
1973年に結婚するも、翌年離婚した。
劇団民藝の創設者である宇野の長男として生まれたが、この境遇に反発し
音楽に傾倒。1965年に奥島吉雄、林廉吉らが結成した
カレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」に加入し、ベースを担当した。
1966年に「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー、この曲と
2枚目の「この手のひらに愛を」が大ヒットするが、すぐにグループを脱退した。
1968年、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスという
グループ・サウンズに参加、シングルを1枚出して解散。
同年には、石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューを
果たす。石原軍団入りするきっかけは、当初宇野の主宰する劇団民藝に
一研修生として入団を希望したが、宇野本人から「たとえ研修生扱いでも
マスコミは親の七光りとして見るだろう」という理由で、
宇野と懇意だった石原を紹介されたという。

1967年3月、寺尾は父と同じ俳優の道へ進むためにサベージを脱退。
だが、完全に音楽から足を洗ったわけではなかった。
ジャズ・ギタリストの小西徹に師事し、ジャズを学び始めたことから、
ジャズ・ピアニストで作・編曲家としても著名な三保敬太郎(1934-1985)
と親交を持ち、寺尾(ベース)と三保(ピアノ)に、サベージ時代の仲間
林廉吉(ギター)、志村康夫(フルート)、河手政次(ドラム)、
そして紅一点のヴォーカリスト森野多恵子(のちの大空はるみ、TAN TAN)
の6人で『ザ・ホワイト・キックス』(WhiteとKickで白蹴る→シラける、
という意味)を結成。1968年5月に東芝のエキスプレス・レーベルから
「アリゲーター・ブーガルー」でデビューした。GSブームの真っ只中、
ジャズ・コンボ・スタイルのホワイト・キックスは異色グループとして
注目されるが、シングル1枚のみを残して解散。
しかし、寺尾と三保のコラボレーションはその後も続き、
1969年10月〜1970年7月にかけてレコーディングされた寺尾の
初ソロ・アルバム『二人の風船/恋人と一緒に聴いて下さい』で結実する。
洗練された手法で定評のある三保敬太郎が、ほぼ全編にわたりアレンジ
を手がけたこのアルバムは、スタンダード・ジャズ/ボサノヴァ感覚
あふれる極上のイージーリスニング作品に仕上がっており、
現在でもソフト・ロック/ラウンジ系ファンたちから高い評価を
受けている名盤である。

三保 敬太郎 (みほ けいたろう : 1934年10月17日 – 1986年5月16日)
東京都出身の作曲家、編曲家、ジャズピアニスト、
レーシングドライバー、俳優、映画監督。妻はボーカリストの宮崎正子。
鮎川義介の懐刀で満州重工業開発理事や日本コロムビア社長などを
歴任した三保幹太郎の息子。高校時代から、ピアニストの守安祥太郎に
師事し、在学中の1950年に「クール・ノーツ」でプロデビュー。
慶應義塾大学卒業後は、トミー・パーマー・オーケストラなどで
ピアニストとして活動。1959年4月、前田憲男、山屋清とモダンジャズ3人の会
を結成。同年『モグラの唄』で芸術祭奨励賞受賞。
1961年、日本ジャズ界の作・編曲分野に大きく貢献し、2度目の
芸術祭奨励賞を受賞。1965年、日本テレビのテレビドラマ『ザ・レーサー』
(演出 早川恒夫、脚本 倉本聰、主演:鈴木やすし、長谷川明男、和田浩治、
斎藤チヤ子) に俳優として出演。1968年、寺尾聰らとともに
グループ・サウンズ『ザ・ホワイト・キックス』を結成。
シングル1枚(「アリゲーター・ブーガルー/愛のことば」:東芝)のみで解散。
一世を風靡したテレビ番組『11PM』のタイトル曲の作曲者でもあり、
死後の2000年に発売された「11PMのテーマ」が、オリコンシングル
チャート初登場92位となる。同チャートでの自身初のチャートイン記録となった。
福沢諭吉の曽孫でレーシングドライバーの福澤幸雄とは、福澤が慶應義塾
幼稚舎在学中からの仲であり、1969年には福澤の死を悼み、追悼盤を
発表している。また自身もレーシングドライバーであり、マカオグランプリに
1965年(ロータス・エラン)と1966年(マツダ)に参戦。
1967年、第6回シンガポールGPツーリング&サルーンカーレースでは、
クラス1(850cc以下)にて第3位に入賞した。
1986年、酒に酔って階段から転落し、その際の怪我が原因となり
5月16日に脳内出血により死去した。51歳没。

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