ピンキーとキラーズ – 土曜日はいちばん いずみたく 渋谷毅 和ボサ

[音楽] 土曜日は土曜日は 1番あの人と遊びにも行ける わ今夜だけ2人とも大人 でとしに誘われて踊るの 帰りの時間も気にしない で 驚 驚川 をあの人に少しだけお酒 を飲まされて幸せな土曜 土曜日は土曜日は 1番あの人と旅にでも行ける わお休みの口づけの代わり におはようの口づけをするの よの にも怯えない で 遊ぼう 遊ぼう明日は 日曜あの人と 帰り道忘れ て遅くなる 素晴らしい土曜日 [音楽] [音楽] 帰りの時間も気にしない で 驚 驚明日は 日曜あの人に少しだけお酒 を飲まされて幸せな土 あの人に少しだけお酒 を飲まされて幸せな 土曜日飲まされて幸せな [音楽] 土曜日は

Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.3
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
http://www.coolhand-records.com/Hip-on-Showakayo-vol.3.html

ピンキーとキラーズ – 土曜日はいちばん
7inch single : King Records BS-1130
1970年1月20日リリース。

作詩 : 岩谷時子
作曲 : いずみたく
編曲 : 渋谷毅

強めにエコーをかけてフロアー向けに立体感を与えている。
心地よいダンスチューンであるが、週休二日制になって
土曜日の意味合いが変ることを誰が当時予測できただろうか。

1967年に15歳で「甘ったれたいの」でビクターレコードから
ソロ歌手としてデビューした今陽子(ピンキー)が
キングレコードに移籍し、男性ヴォーカルのジョージ浜野、
エンディ山口、ルイス高野、パンチョ加賀美の4人と結成。
グループ名は、当時アメリカで流行っていた男女混合バンドの
スパンキー&アワ・ギャングをもじったもので、作曲家の
いずみたくが命名した。当時、今陽子はいずみたくの事務所に
所属しており、いずみは彼女を売り出すためグループに
することを考えて、ルイスたち男性陣を集めてピンキーとキラーズ
を結成させた。この頃の音楽業界では“大きな女性歌手は売れにくい”
というジンクスがあり、ルイスたちは高身長の今陽子 (167cm) に
不安を感じた。しかし陽子の歌声を聞いたルイスたちは彼女の声量が
すごく、リズム感の良さや英語歌詞も上手に歌えたことから
「これはモノになるぞ」と確信したという。

1969年1月、4枚目のシングル「涙の季節」が発売され
1位になり、続く「七色のしあわせ」が4位、「星空のロマンス」
が10位とオリコンのトップ10に入ったが、それ以降
トップ10からは遠ざかった。
その後デビューから4年で陽子がグループを脱退したが、
実はグループ結成の時点でルイスたち男性陣にはいずみから
陽子の処遇について事前に聞かされていた。
それは「ピンキーが20歳になったら、その時ピンキーとキラーズが
売れていても売れていなくても、この子はソロで活動させる」
という話だった。ただし陽子本人にはこの話は知らされていなかった。
このためルイスが人づてに聞いた話として、「『私(陽子)が
ピンキーとキラーズを脱退になったのは、自分の努力が
足りなかったせい』と裏事情を知るまで責任を感じていた」とのこと。

いずみ たく (1930年1月20日 – 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員 (第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄 (いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する (同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲 (演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲 (笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている) と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965 – 1969年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下に BLACK レーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。

渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。

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