2倍速で韓国朝鮮人を知るための聞き流し動画
今月の総まとめ特集2倍速30分で楽しく 学べる韓国問題として編集しましたどうぞ お時間ある時や就寝時にでも聞き流して いただけたら幸い ですこんにちは日間朝鮮研究所です韓国人 からしてみたらどうして日本はあんな 小さな国なのに1度も植民地支配されずに いたのか不思議だと思う人が多いわけです が私は韓国人があまりにも日本に比べ自己 中心的な民族であったかが根本的理由で あったと考えておりますまた韓国と比べ 日本国民の優秀な思考回路とその運用が 韓国の日でなかったことも大きな要因と 思っておりますこれらはあくまでも試験 ですのでならが術的なバックボーンに 裏付けされたものでないことから少々時代 背景を負ってさらに客観的な視点で紐解い てみたいと思います字幕には韓国薬も入れ ております多くの勘違いしている韓国人 たちに日本の優れた民族力を理解して もらうためですので見づらかった大変 申し訳ございませんがご了承ください今 から170年前アメリカのペリー提督 率いる4隻の異国線が裏がきに現れ日本は 開国しますこの時日本が植民地支配される 瀬戸際だったと言われていますが実はそれ 以前から日本は何度も植民地支配の危機に 直面していたのですではなぜ日本はその 危機から逃れることができたのでしょうか 15世紀にヨーロッパで始まった大時代 それは新板を手に入れた国々が概要公開を 可能にし世界に進出した時代のことを指し ますヨーロッパの国々は先を争って新しい コールを確立し新しい大陸を自分の領土に するために領土獲得競争を始めましたこれ が植民地政策の起源ですこれは日本でも 中高生が歴史で学ぶことしかし韓国では この部分はあまり取り上げられていないの です韓国にとっては欧州列国との比較を 当時の韓国とされることを避けていると 言われてますあまりにも格差が激しく劣等 感を成してしまう恐れを回避したと言った 図なのでしょうさて話を戻します当初は スペインとポルトガルが他のヨーロッパ 諸国よりも先がけて世界に進出していまし たしかし彼らが新しい大陸で行った行為は 現代の常識では到底考えられないものでし た植民地政策とは何か大公開時代の スペインとポルトガルの影響は南米に たどり着いたスペイン人は現地の人々に 奴隷労働を共用し人々を制圧していました コロンブスと同じ時代のスペイン人選教師 であるラスカサスはその非道な行いを告発 する文章を国王に送っていますラスカサス が残した記録によるとエスパニョラ党現在 の配置ドミニカ共和国に約300万人住ん でいた10人はコロンブスが来てから わずか50年で200人にまで歴 generしましたスペインはアステカ 帝国を滅亡させて当時世界最大だった銀の 三出を手に入れイカ帝国を征服して金の 交渉を手に入れましたさらに難北米大陸の 52を領有し北米大陸の総面積の26を手 に入れましたまたスペイン人がヨーロッパ から持ち込んだ天然とバドこれらなどの 病原金が免疫のない現地の人々の命を次々 と奪っていきましたコロンブスが サンサルバドル島に上陸してから110年 部にはなべ24000万から1億人いたと 推測された現地の1人とは1000万人に まで歴generしたのですそして奴隷 貿易は400年も続けられ8000万人 から1億人のアの人々が理性になったと 言われているのです大公開時代が終わり 18世紀になると欧米では産業革命によっ て飛躍的に技術確信が進み本国から本格的 に移住を始め征服した国を経済的に開発し て統治するようになったのですこの頃に なるとオランダイギリスフランスドイツ アメリカなどの国々も植民地を広げてい ました現地では人々を従させるために教育 を受けさせない政策を行ったのですこの 教育を受けさせという政策は日本が韓国を 統治していた時とは正反対なものです植民 地や統治というような一言で韓国人は安生 というイメージを植えつけて半日運動を 展開していったのですさて当時の植民地家 の人々はその結果反抗する能力を奪われ 高い税金の支払いと労働を強いられること になりました当然のことながら現地の人々 と移住者との間で軍事的な衝突も起こり ました北米では16世紀頃から白人が入植 したことにより200万人いたとされる ネイティブアメリカンの人口は19世紀に はわずか35万人にまで減少しました現在 の感覚で考えると欧米の植民地政策は侵略 にしか見えませんが当時の常識では領土 拡大と言ってこのような行為は正当化され ていたのですこうして15世紀から19 世紀にかけた欧米列強の領土拡大政策で 南北アメイカアフリオセアニア インドネシアジア中東を除く東南アジアが 植民地下されました1914年頃は地球の 表面面積の85%が植民地下にあったと いうことですさて今回の本題に入ります なぜ日本は植民地下されなかったの でしょうか大きく分けると日本の危機は3 回ありました古くは鎌倉時代それから戦国 時代から江戸時代の初め大公開時代そして 江戸時代マキ欧米の帝国主義の時です鎌倉 武士団と幕府の連携が当時世界でも蝶が つくほどひれていたことです健康とは13 世紀後半の鎌倉時代モンゴル国によって 2度に足り行われた日本進行のことです この現行は失敗資源軍は撤退したため日本 はモンゴルの支配を受けることからまかれ ましたちなみにこの歴史については韓国で は暴風によるラッキーな出来事が日本に 起こったといった理由でさらっと説明して いるだけです鎌倉主が強かったということ は一切触れられていないのです特に学説で は襲ってきた元軍のほとんどが有望な モンゴル人ではなく当時の朝鮮半島の国家 であった後来とそのの民族だったために 夕刊仲間クラブが押し戻したとも言われて いますつまりはヨチ韓国民族が大半の先兵 隊であったことなのですだから触れること はしないですよねそして日本は南村との 交流があり危険な情報を収集していたの ですそして情報収集の結果現の続SECに なるよりも現と戦う選択を行ったようです また2度目の現行までの7年の間鎌倉は 集団戦闘を行って北九州に20kmに及ぶ 類を築いて来に備えていましたご存知の先 もりですねその結果現を撤退させ日本を 守ることに成功したのです戦前の教科書で は現行の所員は武士の遊具と民衆の働きが 合わさり国中が一体となって国難に当たっ たからといった精神論で語られてたのです がこのようなことが科学的にも判明して いるわけです戦後のGHQは日本人の強さ は日本人の精神にねざしていると考えその ような国民性を実は恐れていたのですこの 精神性はすでに鎌倉時代には出来上がって いたのですこのような日本人の団結力も国 を守る1つの武器だったと言えるの でしょう選教師たちの野望を見抜いたから 大公開時代当時ヨーロッパの中で突出して いたポルトガルとスペインは条約を結び 世界を勝手に2つに分けていました日本は ちょうどその境界線に位置していたため 16世紀半ばになると両国の選教師が 入れ替わり立ち代わり来日することになり ます1543年種ヶ島に漂着した ポルトガル人により鉄砲が伝来しました この時はまだキリスト教の不況は許されて いました当時は南蛮貿易と呼ばれて西洋と の攻撃をむしろ歓迎していたのですところ が九州閉廷に赴いた豊秀義はキリスト教を 信じていたキリシタン大名によって日本人 が奴隷として世界中に売られていることを きしたのです秀吉はそこでスペイン ポルトガルの野望に気がついたのですその 野望とはスペインが南米で行ったように 狙った土地に先に選教師を送り込み表向き は不況させながら実際は将来の植民地の 情報収集や怪獣工作を行うことそして信じ た人々を操って味方につけた後軍隊を送っ て土地の人々を殲滅し植民地にするという ことでした実際スペインはイカ帝国の皇帝 に回収を迫りこれを拒否すると命を奪い イカ帝国を滅亡させていますそこで秀吉は キシタバテレ追法令を出しその後朝鮮出兵 を行います朝鮮出平の目的は民国への出平 でした朝鮮はヨッチー軍隊しかないので 相手にはしていなかったのです実際には 半島は通り道に過ぎませんでした秀吉の 狙いは民で出平した目的はスペイン ポルトガルの植民地支配の脅威から逃れる ためだったのです弱体化している民が スペインやポルトガルに征服されれば半島 や日本が植民地化される危険性は明らか だったからです両国より先に民を配下に 置こうと考えたと近年では言われています また江戸幕府の3大将軍の時代には キリシタンの反乱である島原のラを きっかけににポルトガルの貿易省を国内 追放し鎖国政策を引き締めています戦国 時代の軍事力が充実していたことも理由に 挙げられます戦国時代は武士の戦闘能力が 最高に高まっておりましたこの時代での 日本の鉄砲保有数は世界一だったと言われ ていますこのように鉄砲を量産することが できたのは日本の職人たちが優れていた からです韓国の鉄砲の製造はこの戦国時代 から遅れて200年と言われていますので 日端の技術力の差は歴戦としておりました 韓国所では韓国が日本の伝授したと説明し ているものもあるのですが量産というほど ではなかったのは明らかです種ヶ島で手に 入れたひ銃をわずか半年で複製することに 成功しましたさらに外国産のひな銃を改良 して精度を高くしオリジナルより性能が ずっと良いものを量産化しましたこのこと を見ていた選教師アレッサンドロバニアノ はスペイン国王に日本の国民は非常に勇敢 でしかも絶えず軍事訓練を積んでいるので 制服が可能な国土ではないと信言してます 次の理由をそもそも日本は地理的に孤立し ていたから一部の不毛地帯を除いた全ての 地域にヨーロッパ人が到達したことで大 公開時代は終わりを告げますそして18 世紀中頃から始まった産業革命によって 資本主義が発達し欧米諸国が領土や市場を 拡大させましたしかし日本が植民地支配を まかれていたのはこれらの大国から遠く 離れた孤立し島で植民地下することが困難 だったこと立教が注力していたインドや 東南アジアと違って日本を植民地にする 優先順位が低かったということが考えられ ますさの武村孝太郎氏は著書日本の謎は 地形で解ける文明文化編日本が植民地にさ れなかった理由として地形と気候という 独特な見解を挙げています日本には豊富な 高物資源や広大な土地がなかったことまた 日本列島には欧米人を恐怖させる自然な嫌 というほどあったからだと記述しています 欧米人を恐怖させる自然とは日米和新条約 を締結してから5年の間に大事がぎこれら が蔓延し江戸中が大水害に見舞われた自然 災害のことを指しています日本が植民地に なる可能性が1番高かったのは日本が開国 した時期です太平の眠りを覚ます蒸気戦 たった支配で夜も寝られずという有名な歌 がありますこれはフェリーが1853年に 来行した時のことを歌ったものです過去の 歌をご存知の方は江戸幕府は混乱し フェリーの圧力に屈服して開国したという 印象を持っているのではないでしょうか しかし事実はそのな単純なものではあり ませんでした日本は鎖国政策を思考してい た江戸時代においても海外の情報収集に 努めていましたこの知識アメリカのペリー 提督との交渉において日本が堂々と事故の 立場を表明する上で重要な役割を果たし ましたその情法言の1つがオランダ別産 風説書きですこの報告書はオランダから 提出され幕府はこれを通じて海外の動向を 把握していました具体的にはペリー来行の 目的やその時のアメリカの武器装備につい て実際の来の1年前から知ることができて いましたペリー艦隊が現れた時最初に ペリー川と接触交渉をしたのは裏が武行所 のより中島三之助でした彼は感染を研究し ておりさらに世界情勢にも通じていたので ペリー川との交渉で一歩も秘を取りません でした大統領書館を直家に天皇に渡すと いうペリー側の要求に中島はこめせず国に はその国の法がありその法を犯すことは できないと堂々と主張したのです翌年 ペリーは感染を増やしてドアンに入りまし た彼は圧倒的な軍事力を背景に強行な交渉 手法を用いましたその時ペリーに対応した 人物は日本側前件の林副problでした ペリーは日本に対してモリソン号事件を 持ち出し漂流船員に対する人道的待遇を 求め合わせて通称関係を要求しましたモリ 尊皇事件とはアメリカの小鮮モソ皇が漂流 した日本人7名の相関と日本との通称を 求めて来行したものの異国戦打ち払い例に より日本から攻撃を受けた事件のことです ペリーは人狼的待遇が保障されない場合は 戦いもじさないという強行な姿勢を見せた のです林はペリーの主張に対し反論しまし たモソ号事件はすでに17年前の事件で ありそれが長年の恨みを引き起こしている とは思えないそれなのにその事件を理由に 戦争に及ぶというのは強引なのではないか と指摘したわけです結局日本はアメリカの 要求を一部受け入れ下田と函館の2項の 開校と人身保護と物資の補給を主目的とし た日米は新条約が締結され通称の目的で 来日したペリーに対してはお土産を持たせ たものの国を守りきるという最後の取出に は一歩も近づけさせなかったのですしかし 日本が軍事的に劣っている中幕府はペリー の同角にこめせず主張すべきところは主張 し相手側の譲歩も引き出し結果として植民 地支配をまかれたことは評価されるべきで はないでしょうかちなみに日米は新庄約定 結合幕府がすぐに行ったことは海軍力の 増強です加えてエドアの防衛を強化する ために6機能台場を建設していますそして 忘れてはならないのは江戸時代の教育水準 です韓国ではこの頃まだ独自の文字が存在 しなかったのはゼロからの韓国の歴史と いう動画の後半でも取り上げていますが 全くもって文化的な力の差があったのは 韓国は認めません教科書では韓国が日本に 感じを教え独自に日本国民が理解しやすい ようなひらがなを開発してあげたような 説明もされているようですでもない錯覚 ですさて脱線しましたが欧米列強は アフリカインドアジアをほとんど植民地下 した後日本にやってきました欧米人から 見れば日本人はおかしな格好をして木造の 家に住んでいる貧しい国に移ったようです しかし彼らは上陸して日本を研究し日本人 の敷地率の高さに驚愕しましたそして色々 な証言を残しています例えばペリーの日本 遠征の報告書であるペリー提督日本遠征期 には次のように書かれています日本では 読み書きが普及していて見分を得ることに 熱心です教育は日本全土に普及しており 深刻の女性とは異なり日本の女性は男性と 同様に知的な発展に参加ししばしば母国の 文学にも精通していますといった具合です また1860年に来日したプロイ線海軍の ラインホルトベルナ館長はエルベ号館長 幕末の中で日本では飯使いの女性が互いに したし友達に手紙を書くためにヨカを利用 しボロをまとった肉体労働者でも読み書き ができことで我々を驚かせた民衆教育に ついて我々が観察したところによれば 読みかけが全然できない人々は全体の1% に過ぎないと書き残しています当時武は ほぼ100%読み書きができ庶民の男性で も約50%女性は20%読み書きができた と推測されています韓国はどうか1%にも 満たないと言われているのですが彼ら教科 書では逆転現象の説明をしていますなん たることかですまた江戸の修学は70から 86に登りましたこれに対して1837年 頃のイギリスの大工業都市での修学率は わずか20から25%フランスは1794 都市に初島教育無償化が行われたものの 10から16歳の修学率は1.4でした 江戸時代には教育機関としては工夫直轄の 学校である小平坂学問所があり私塾庶民の 初頭教育機関にあたる寺小屋がありました 中でも寺小屋は江戸マキにはは 1万5000以上も存在していたと言われ ますその寺小屋では読み書きソバを教える にあたって集熟度システムがありました 統一された教科書があるのでは子供ごとに 能力を引き出し将来に必要なことを教える 個別指導でしたつまり社会に出た時に即戦 力となるような指導内容になっていたの ですまた道徳に基づいた人格形成にも力を 入れていましたペリーと交渉したより クラスの人材が堂々と論戦を繰り広げ られるほど高いレベルだったのは江戸時代 の教育方法が大いに影響していたと考え られています今までの歴史的な背景は立教 の国々において日本を植民地下することは 用意ではないと警戒したと考えられている のです韓国人が疑問に思っているどうして 我々は植民地経験があるのに日本はないの かという疑問や展望についてのロジカルな 説明展開をしてみましたこの動画がそう いった韓国人たちへの連になれば幸いです しこの番組をご覧になられた我々誇り高き 日本人の方には最近の国力弱体化などの 風評に対して自信を持って堂々と反論して いこうではありませんかということで今回 はこの当たりで終わりとさせていただき ますなお今回ご紹介した理由はあくまでも 日間朝鮮研究所の独自視点です他の視点や あなたの意見も是非コメントして いただけると嬉しいですそれではまた次の 動画でお会いし ましょう こんにちは所です今回は韓国の歴史を30 分で凝縮してまとめてみましたこの動画を 見るだけで韓国の歴史の大きな流れを把握 できるようになります是非最後までご覧 くださいでは始めていきましょう古代の 朝鮮半島にはいくつかの王朝が存在してい たと言われていますがその中でも学術上 認められているのが紀元前195年に誕生 したa子朝鮮という王朝ですこの王朝は 中国の観王朝の時代にという人物の宿から 逃れたものによって建国されたと言われて います初期の栄子朝鮮は韓王町に対抗する 力を持っておらず間の下につき兆候して 守ってもらうという体制を気づきます しかしその後英市朝鮮の王様が間に対して 好戦的な態度を示すとそれに起こった間の 7代皇帝である武帝の進行を受けて紀元前 108年にa子朝鮮は滅亡します英子朝鮮 が滅亡した後の朝鮮半はそのほとんどが間 王朝によって征服されることになります間 は朝鮮半島の直轄地として楽浪軍などを 設置して朝鮮半島の支配力を高めていき ますしかしこのこの朝鮮半島の北部では コクという国家が誕生しますコクは次第に 勢力を増していき313年には楽浪軍を 滅ぼし朝鮮半島から中国の勢力を追い出し ます一方朝鮮半島の南部では朝鮮民族たち が小さな国家の集合対を形成していました こうして誕生したのがバカ神官ベカという 3つの勢力ですこの3つの精力はコクが 中国の勢力を朝鮮半島から追い出した後 それぞれが1つの国家としてのまとまりを 見せていくことになりますそうしてバカの 地にはくだという国家が誕生し神官の地に は白木という国家が誕生しますただ弁かの 血だけは1つの国家にまとまることはなく 小国が分裂する状態が続きましたこの国 たちのことをかやとまとめて表現します さて朝鮮半島に誕生したコクくだ白木と いう3つの国家はそれぞれが朝鮮半島の 統一を目指し争いを始めていくことになり ますこの軍閣HOの時代を三国時代と呼び ます三国時代が始まり最初に勢いをつけた のがコクでしたコクは公海道王という有能 な王様が誕生したことで力を強めまずくだ に攻め込みます最初の進行でクはくだの思 10個攻略しますさらに次の進行では58 個の城を攻略しますまたコクは北方の遊牧 民族とも戦いその国力を高めていきます 一方でコクの信仰によって後輩してしまっ たくだは国力を回復するために白木と手を 組みます力を取り戻したくだらは白城と共 にコクと戦い奪われていた戸を取り戻す などの高成績を納めていきますくだらやぎ に押されることになったコクは次第に国力 を弱めていきましたしかしその後次第に くだらと白城の関係は悪化し対立するよう になっていきます両者の対立が深くなると くだらと白城の協力関係は完全になくなり くだはカヤと協力関係を築いて白城に 攻め込みますただこの頃の白木の国力は とても強くくだとカヤの連合軍は白木に 敗北してしまいますこの戦いで勢いに乗っ た白木はカヤに攻め込みカヤを完全に 滅ぼしてしまいますこれを持ってカヤ領域 は全て白のものとなり 勢力を拡大しそのまま朝鮮半島を全てを 支配しようとする白でしたがコクとくだの 抵抗も激しく3スの状態が続くようになり ましたしかしそこにこの均衡状態を崩す 勢力が迫ってくることになりますそれが 中国の地に誕生していたずという王朝です ずと国境を接するコクはずからの圧力を 受け2回に渡ってずからの侵略を受ける ことになりますクはずの侵略に対して点の 聞いた作戦を実行しなんとか追い払うこと に成功しますしかし髄から受けたダメージ は大きく高国の国土は荒れ果ててしまう ことになりましたさらに7世気色に髄が 滅亡し次に党という王朝が誕生すると塔 からもコクは侵略を受けることになります ず野党の侵略によってコクがくだらやぎに 対して意識を向けられなくなるとくだは 積極的に白城に攻撃を仕掛けることになり ます国力を増していたくだに対して白木は 苦戦を強いられることになりますそこで 白木はくだらを倒すために塔の援助を 取り付ける方法を探します白木は党の異界 制度や原武法を用いるなどして党の機嫌を 取り党の援助を得ることに成功します党の 援助によって力を増した白木は一気にくだ に進行し660年にくだらを滅亡させます その後くだの残党たちは当時飛鳥時代で あった日本に援助を要請し中野大の王子と 共にくだらの復興を図り出平しますしかし 663年の白村校の戦いで白木と党の連合 軍によって日本とくだの残党勢力は敗北し くだは完全に滅ぶことになりましたくだが 滅亡した後とと白木の連合軍はその勢いの ままコクに攻め込みますそして668年に ついに戦いが終了しコクは滅亡することに なりましたこうして朝鮮半島での3国時代 は中国勢力の介入により白のに終わり白木 の実が朝鮮半島に残ることになりました ただし残った白木がそのまま朝鮮半島の 支配者になるというわけではありません でしたなぜなら朝鮮半島には党の影響力が 強く残ることになったからです党は関節的 に朝鮮半島を統治して白木に完全な実験を 与えることはありませんでしたしかし当然 白木はこれを受け入れることができません 朝鮮半島を本当の意味で統一するために 白木は党にに対して戦争を仕掛けることに なります白木は党の残党兵たちと共に党と 戦い公成績を納めていきますそんな中党は 時刻での問題の対処に負われるようになっ ていき次第に朝鮮に対する意識が薄れて いくことになりますそして676年に党は 朝鮮半島から撤退していきついに白木が 本当の意味での朝鮮半島の統一を達成し ましたしかし半島統一後の白には決して 安定していたわけではありません8世紀 貴族たちが王様を頂点とする体制を崩す ために何度も氾濫を起こしていました反乱 はどんどん過激になっていき6度目の反乱 では当時の王様が暗殺されてしまいます これ以降王様の地をめぐる争いが激化した 混乱の時代が到来しますさらにこうした 混乱の社会の中各地の豪族たちが着々と力 をつけていくことになりますそして豪族 たちはそれぞれの勢力を拡大していき10 世紀にに入ると白木の朝鮮半島を統一時代 は終了し極だやごコクという国家が誕生し ますこうして朝鮮半島は新たな3国時代へ 突入していきますこの3国の中でも特に力 を持っていたのが五コクでしたそしてその 中で対当したのが王家という人物です王健 は着々と力をつけて行き国家の実験を握り ますそしてその後国後を5高クリラ後来に 変更します後来が誕生した後3国それぞれ が朝鮮半島を統一を目指して動き出すこと になりますまず動いたのが極だでした極だ は弱体化していた白城に攻め込みます対抗 する力を持っていなかった白木は極だに 敗北しその後滅亡してしまいます白城の 滅亡も残った後来と極だの争いが始まり ます一心一体の状態が続く中極だの中で 大い継承を巡る争いが起きてしまいます極 だが国内で混乱している中コクがうまく木 だに攻め込み936年に極だは滅亡し王建 率いる後来がついに朝鮮半島の統一を達成 することになりました後来が朝鮮半島を 統一した後943年に国家の中枢であった 王家がなくなってしまいますその後後来で は大い継承がうまくいかず権力者たちの 争いが激化していくことになりますそんな 中立ち上がったのが高層という人物でした 高層は権力者たちの争いを終わらせ49年 に後来の大いにつきます構想は過去の導入 や簡易制度の改良などを行い国家の基盤を 作り上げていきますその後も後来は周辺 諸国との戦いもうまく進めていき11世紀 には全盛を迎えることになりますしかし 12世紀に入ると後来の中で大規模な判断 が発生し後来の国家としての基盤が少し ずつ崩れていくことになりますさらに13 世紀に入るとモンゴル地域にモンゴル帝国 という強大な国家が建国されることになり ますこのモンゴル帝国を建国したのはチリ スハという人物ですチリスハが死亡した後 もモンゴル帝国は脅威的なスピードで勢力 を拡大していき1231年になると モンゴル帝国は後来に進行してくることに なります国力を弱めていた後来には圧倒的 な力を持つモンゴルに対抗する力はなく また琢磨にとが攻略されてしまいます後来 の人々も粘り強くもモンゴル帝国に対して 戦を続けましたが1259年に後来は モンゴル帝国に降伏することになりました 高来はモンゴル帝国によって滅ぼされる ことはなかったものの以後モンゴル帝国に 服属するという形になります1260年に フライ班という人物がモンゴル帝国の皇帝 に即位しますフラ反の時代のモンゴル帝国 はその領域をヨーロッパや西アジアの方に まで広げており世界の約4分の領土を保持 していましたただその後このモンゴル帝国 は4つに分裂することになります分裂に よって中国の地域に誕生したのが原という 国家ですアジア地域のほとんどを死中に 納めた原は次は日本に保先を向けます日本 に地理的に近い後来は必然的に現の日本 振興に協力させられることになります そして1274年についに現は日本へ進行 を開始しますしかし当時鎌倉時代だった 日本はに対して激しい抵抗を見せます 準備不足もあり現の軍隊は劣勢に立たさ れることになり撤退をよぎなくされます ただ元は1度の失敗で諦めるわけではなく 1281年に再び現は日本に進行を開始 することになりますしかしこの時も原野 軍隊は日本の激しい抵抗に遭いさらに 暴風雨の影響もあって現は再び撤退をより なくされてしまいます2回の日本進行の後 反がなくなってしまったことで現は日本を 諦めることになりました日本振興が終わっ た後現は少しずつその国力を弱めていき ます1351年には後金の乱という大規模 な反乱が起き現は衰退の一等をたどること になりましたこうした状況の中手元省と いう人物が中国で新たな王朝民を建国士 中国を支配してきた原はついに滅亡する ことになりました原が滅亡したことでこれ まで現の支配下にあった後来も現の影響 から脱することになりますしかし次は民に 真住するべきかするべきでないかという 問題が発生します後来の中では民に真住 するべきだと考える勢力と民とは交戦す べきだと考える勢力が存在しており両者は 争いを始めることになりますこの争いの中 で対当してきたのが明りに真住すべきだと 考えていたリ星系という人物ですリセ系は 軍隊を引きて民と交戦すべきと考えていた 後来の王様を捉えますその後リセ系はその 王様を排除し自ら大いにつくことになり ますこれによって約500年続いた後来は 滅亡し新たに利子朝鮮という国家が誕生 することになります西朝鮮が誕生した後 リセ系はまず宮子の移動を行いますこの時 に都子に定められたのが現在のソウルに 位置する感情という場所です条をにした後 その地に応急のキボ君が建設されます15 世紀に入るリー世系はなくなってしまい ますがその後森市朝鮮の国家の基盤づりは 進んでいくことになりますまたその後大い に即位した清掃という人物は大きな鉱石を 残すことになりますその鉱石とは民族固有 文字の作成です実は当時の朝鮮には朝鮮 独自の言語はあったものの独自の文字は ありませんでしたそのため朝鮮の書物野 政府の公文文は全て中国の漢字で書かれて いましたしかし漢字は南海であり庶民たち それを読むことはできていませんでした そこで清掃は庶民たちでも文字を読むこと ができるようにするために朝鮮独自の文字 を開発していきます清掃やその他の言語学 者たちは周辺民族たちの文字や日本の金 文字などあらゆる文字を研究して開発を 進めていきますそうして誕生したのが17 の母イ寺と11の因寺を組み合わせた訓民 聖王という文字ですこの訓民聖王は現代の 韓国で使用されているハングルの基礎と なっていますさて清掃が朝鮮独自の文字を 築いた後西朝鮮の中でクーデターや宿政党 内の争いなどが横行して社会が混乱して いくことになりますそんな中日本では豊富 秀吉が1590年に国内を統一して次は 朝鮮半島に目を向けていましたそして 1592年についに秀吉が朝鮮半島へ進行 を開始します朝鮮半島の軍隊も日本に対抗 し一気に戦争状態へと発展していくことに なりますただ戦国時代を戦い抜いた日本の 武士たちはとても強く不に上陸した日本軍 は各地を占領しながら1ヶ月も経たずに 感情を陥落させます朝鮮も利春神という 人物が回線において大きな活躍を見せます がそれでも日本の勢いを止めることはでき ませんでした国家の存亡した市朝鮮は総国 である民に助けを求めますこれに応じた民 は朝鮮と日本の戦いに介入しては平交渉が 進められて行くことになりますその後交渉 は終了し日本は軍隊を朝鮮から撤退させる ことになりますしかしこの交渉の内容には 民と日本で認識のずれが発生していました このずれに気づいた秀吉は激怒して再び 朝鮮への進行を開始します朝鮮もそれを 迎え打つ姿勢を見せたため再び日本と利子 朝鮮の戦争が始まりますこの戦争の中でも 利春神は回線で大きな活躍を見せ日本に 莫大な被害を与えました一方日本も負け時 と戦闘を進めていきますしかしそこに民の 軍隊も入ってきたため戦争は到着状態へと 陥ることになりますそんな中線598年に 豊富秀吉が病しすると日本の軍隊は繊維を 失いその後日本軍は朝鮮から撤退していく ことになりますこうして利春の活躍や民の 援軍などのおかげもあり利子朝鮮はなんと か日本から国家の生存を守ることに成功し ましたしかし利朝鮮は安土する意もなく 新たな脅威が誕生することになりますそれ が中国東北部に存在していた公金という 国家です公金はどんどん勢力を拡大して いきその後国号を真に変更します真は中国 全域を支配することを狙っておりまた民の 続行であったり市長にも敵対意識を向けて いましたそして1636年についに真が 朝鮮への進行を開始します真の軍隊は とてつもなく強くたったいかで真の軍隊は 感情に到達します圧倒的な力の差を 見せつけられたり市朝鮮は真に幸福して 公和を結びますこの公和の内容は民との 関係を立つこと真の続行になること科学の 賠償金を支払うことなどが含まれており 市長鮮にとってはかなり厳しいものとなり ましたその後中国の方では1644年に民 が滅亡して変わって真が中国大陸の支配者 となります18世紀に入ると利子朝鮮は 世界との繋がりが生まれてくることになり ますその大きな要因の1つがイエズス海の 選教師たちが真を伝って朝鮮の法2まで やってきたことですイエズス海が来たこと によって朝鮮でもキリスト教が広まること になりますしかしキリスト教の競技と当時 朝鮮で広まっていた今の協議は相性が悪く キリスト教は排斥するべきだという声が 徐々に大きくなっていきますこうした状況 が続き1795年には朝鮮内でのキリスト 教の活動は制限されることになります さらにこれに伴って朝鮮は西洋の文化や 技術を拒絶するようになっていき鎖国体制 が気づかれていくことになります19世紀 に入るとイギリスやフランスアメリカなど 立教たちが朝鮮に対して通称や怪光を求め てやってき しかし当時の利子朝鮮の実験を握っていた 隊員君は断固として立教たちとの関係を 持つことを拒否して鎖国を貫きますしかし 隊員君の外国への強行な態度に危機感を 抱いていた人物がいましたそれがビビです ビビは朝鮮を開国すべきだと考えており 同じ考えを持つ人々と協力して1873年 にクーデターを起こしますこれによって 隊員君は応急から追放されビビとその一族 が長の実験を握りますただ追い出された 隊員君もこれで諦めるわけではなくビビし 一族に対して戦う姿勢を見せますそんな中 当時明治神を経て新政権を自立していた 日本が朝鮮との国交を求めてやってきます 朝鮮が日本との国交を拒絶すると日本は 高家党を攻撃して朝鮮に対して圧力をかけ ていきますこれ以上の軍事衝突を避けたい 便秘は日本と条約を結んで海国を決断し こうして朝鮮の鎖国体制が崩壊すると日本 だけでなくアメリカやフランスロシアなど とも条約を結び国交を行うようになって いきますしかし各国との条約の内容は朝鮮 にとってあまりにも不利なものであった ため国家は困窮していきますこうした流れ の中民衆の生活は苦しくなっていきビビに 対する不満が高まっていきますそしてビビ を倒すために隊員君が兵士たち汚先導して クーデターを引き起こしますのクーデター を受けてどうすることもできなくなった ビビは真に助けを求めます真が援助に入っ たことでこのクーデターは鎮圧され隊員君 も幽閉されることになりましたしかし争い はこれで終わるわけではありません次は ビビの方針転換に不満を持った人物が クーデターを起こしますこれも真の援助に よって鎮圧することに成功しましたただ これでも一見が着とはきませんでした次は 外国勢力に対して不満を持っていた人々が 朝鮮内で大規模な反乱を起こしますこれが 公務農民戦争ですこの反乱も朝鮮の政府は 自分たちで沈めることはできず真に援軍を 要請しますただこの時日本も朝鮮に住む 日本人を助けることを名目に軍隊を朝鮮に 派遣していました新と日本の軍隊が朝鮮に 集まってしまいこれがきっかけとなり新 戦争が始まります当時アジアでは最強の 国家と考えられていた真ですがそれに対し て日本は西洋の技術を多数取り入れていた ためこの戦争は日本有利に進んでいきます そして1895年に日本の勝利という形で 日進戦争は幕を閉じましたその後日本と 新都の間で下石条約が結ばれその条約の中 で日本は聖が市朝鮮に対して影響力を持つ ことを禁止し新都朝鮮の集中関係は 断ち切られることになりますこれによって これまで真に真住していた朝鮮は独立する ことになりその後1897年に当時の朝鮮 の王様は国語を大官定国に変更し独立国家 であることを強調しましたとは言っても 当時の朝鮮半島には列ochたちが進出し ており大国の保護がなければ国家の存続は 危ういという状況に変わりはありません でした実際その後朝鮮半島を巡って日路 戦争が行われこの戦争に勝利した日本は 朝鮮を保護国としてしまいます日本ののと なった大官帝国には当間府という期間が 設置されその初代の長として伊藤博文が 選ばれることになりましたしかしこうした 日本の支配に対して朝鮮半島各地では日本 の勢力を追い出そうとして民衆たちが 立ち上がります日本はこうした状況を受け て大官邸国を完全に併合してしまうか独立 国のままにするかという議論が生まれます そんな中909年に安住コという人物に よって伊藤広文が暗殺されるという事件が 起きますこの事件が決めてとなって日本は 大官帝国の併合に踏み出しますそして 1910年に日本と大官帝国は条約を結び 正式に日本に併合されることが決定しまし たこれ以降日本の支配下に入ることとなっ た朝鮮は日本が主導指鉄道や道路などの インフラの整備教育の普及などが行われて いきます日本のこうした社会改革によって 朝鮮の発展は進んでいきました一方で日本 は朝鮮人に対して言論の自由や思想の自由 を認めず反発する者たちを裁判もせずに 逮捕するといった高圧的な統治を行います こうした状況もあり朝鮮人の間で半日勘定 がどんどん高まっていきますそんな中世界 では1914年から始まっていた第1次 世界対戦が終了していました第1次世界 対戦が終わった後アメリカ大統領の ウィルソンによって14課上の平和原則が 発表されますこの平和原則には民族自決と いうものが含まれていました民族自決とは 簡単に言うと自民族のことは自民族で 決めるという原則のことでこれは日本の 統治下にあった[ __ ]に独立の意思を 芽生えさせることになりますこうして どんどん朝鮮人の独立の気運が高まって くると1919年の3月1日にソウルの タプコル公園で独立宣言が読み上げられる ことになりますタプコル公園には数千人の 群衆が集まり州たちは町に出ていきデモ 更新を始めますその後このデモ運動は全国 に波及していき最終的に約200万人が 参加するまで拡大しましたしかしこれを 受けて焦った日本は大量の兵士警察軍隊を 同院してデモ運動の鎮圧に乗り出します この鎮圧の家庭で大量の[ __ ]が犠牲と なりこの運動も1年後には鎮圧されること になりましたただこの独立運動は失敗に 終わったとはいえ[ __ ]の中には本から 独立を願う気持ちはなくなることはあり ませんでしたしかしその後日本は朝鮮の 統治の方法を少し変えつつも依然として 力強い朝鮮の支配を続けますさらに 1931年に日本が満州事変を起こし国 から満州という地域を奪うと満州と日本の 間に位置していた朝鮮の重要度はより 大きなものとなりましたそして日本は朝鮮 に対して公民家政策というものを実施して いきます公民政策策とは朝鮮に日本の言語 や習慣を浸透させようとする行為のことで 朝鮮人の民族意識を日本人の民族意識に 変えようとしました公民家政策が進んだ後 朝鮮人は戦争にも動員されていくことに なります1937年に始まった日中戦争で [ __ ]から志願兵が募集され多数の[ __ ] 兵士が戦地に動員されていますさらに 1941年に太平洋戦争が始まるとここで も多くの朝鮮人兵士が動員されることに なりますまたこの時は兵士だけでなく日本 で不足した労働者を補うために大量の [ __ ]労働者が日本に連行されています 加えてこの時に[ __ ]の女性が慰安婦とし て派遣されており慰安婦たち兵士たちの 性的な奉仕に従事させられることになり ますこのように戦争が激化していくと どんどんひどい扱いを受けていた[ __ ] たちでしたが1945年に連合軍がダム 宣言を発表して日本の敗戦が決まると ついに朝鮮は日本の植民地支配から解放さ れることになりますただ効果不岡日本から 解放された後の朝鮮人たちは朝鮮半島で1 つにまとまることはありませんでしたなぜ ならアメリカとソ連が介入してきたから です朝鮮が日本から独立した後次は北井 38°線を境にしてアメリカとソレンに よって分割されてしまうことになります そしてこの頃にななると世界は本格的に 冷戦の状態に入っていきます冷戦が本格化 していきアメリカとソ連の対立が明確に なっていくと朝鮮半島の統一も不可能に なっていきましたソレンが影響力を持つ 朝鮮半島北部では1948年にキム イルソンを首相として朝鮮民主主義人民 共和国いわゆる北朝鮮が建国されます一方 アメリカが影響力を持つ朝鮮半島南部では 同じ年に利勝判を大統領として大民国 いわゆる韓国が建されます北朝鮮と韓国が 建国されるとその後両者はそれぞれ国土 完成北進統一というスローガンを掲げ互い に武力による朝鮮半島の統一を目指して いきましたそしてその後ろ立てにはソ連と アメリカが存在しており北朝鮮と韓国の 両者は戦争に向かっていくことになります 1950年にソ連から進行の許可を得た 北朝鮮は南下を開始して韓国に攻撃を始め ますここから始まる戦争を朝鮮戦争と呼び ます戦争の準備が整っていなかった韓国は どんどん北朝鮮の軍隊に押されることに なります北朝鮮の軍隊韓国の領地を占領し ていき2ヶ月後にはプ3まで追い詰めます そうした中連合軍総子令官として日本に 中流していたマッカーサーがアメリカ軍を 中心とした国連軍を率いて韓国の援助に 向かいます人選に上陸した国連軍は北朝鮮 の軍隊をしていき北朝鮮と韓国の形成は 逆転します国連軍はソウルを奪還しさらに 38度線を超えて北朝鮮の両地にまで進行 していきます国連軍は北朝鮮の首都である キヤを占領しさらに王力校まで追い詰め ます国連軍に圧倒されることとなって しまった北朝鮮はこの状況を打開するため に中国に援助を求めます当時中国の指導者 であった毛沢党は北朝鮮の要請を受けて 北朝鮮に軍を派遣します中国の軍隊が賛成 したことによって再び北朝鮮が優勢となっ ていきます北朝鮮は奪われていたぴょん ヤンを奪還し再び韓国の領地に攻め込み ソウルを陥落させます国連軍も負け自と 戦い済むに北朝鮮からソウルを取り戻し ますその後北井38°線を境にして両者の 軍は利行し到着状態が続くことになりまし た戦いがどうにもならなくなってくると 1951年に急戦交渉が始まることになり ます交渉は難行したものの1953年に 急戦協定が締結されることになりますただ 戦争を集結させる兵は条約の締結に至って おらず現代でも朝鮮戦争は継続中という 解釈になっていますさて急戦とは家朝鮮 戦争が終了した後北朝鮮と韓国は互いを 歪み合うようになり南北の分断は決定的な ものとなりました戦争後は北朝鮮ではキム イルによる独裁体制が気づかれていき韓国 ではイスマによる独裁体制が気づかれて いきますこの頃の韓国は朝鮮戦争の影響や 通貨のインフレなどで再貧国にまで 落ち込んでいましたそこでイスマは アメリカからの支援を受けながら経済の 発展に努めていき ますまた北朝鮮とはあくまで急戦中である ため戦争が再開した時のため に成人男に約2年の兵義務を貸すように なりますただイス万の政治は大した成果を 挙げれず民衆たちはイスンマンに対する 期待感をどんどんなくしていき次の大統領 選挙ではイスンマンは不正を行います イスマの不正に激怒した民衆たちが抗議 デモを行うとこれに対して警察はデモの 参加者に無差別発砲をしデモの鎮圧を図り 8名が死亡し50名あまりが負傷する事態 にまで至りましたこの非人道的な行動に 民衆たちは一通りイス万を批判する声は 全国に拡大していき数万人にまで 膨れ上がったでもたは大統領官邸を 取り囲みイス万に対して辞任を求め ます結果1960年4月に大統領を辞任し ましたイスマの大護韓国は高度経済成長を 迎え国力を高めていきますさらにこれまで 大統領や首相による独裁色の強かった韓国 ですですが1987年に新憲法が敷かれる と民主家が大きく進みます1988年には ソウルでオリンピックが開催その後も韓国 の経済や政治文化は発展していき現在の 韓国に至ります今回もご視聴ありがとう ございました何卒日間朝鮮研究所ごひきに お願いいたしますあなたはなぜ韓国人が 徹底的に日本叩きをするのかご存じだろう かその本章は多くの動画で解説してきまし たが忘れてはならない歴史的な事実その1 つを取り上げて皆さんで考えていただき たいと思いますこんにちは日間朝鮮研究所 です著作家の山タの執筆内容を参考に動画 で解説いたします1952年朝鮮戦争は着 状態に陥りアメリカとソレントの間で急戦 交渉が行われていました利勝判は北朝鮮へ の徹底交戦を主張しましたがアメリカは耳 を傾けようとはしません韓国軍は北朝鮮軍 にやられっぱなしで軍事的成果はほとんど 上げられませんでした焦ったり相判は スパイカーの名目でホルベレン迎事件を 初めとする自国民の大量虐殺という武居に 出ます朝鮮を武力で統一すべきだという 利勝版の市長もアメリカに拒絶され政権の 新人は地に落ちていました騎士改正を図っ た利商判は日本をきそれを検電することで 国内世論を自分に有利に誘導しようとし ましたそして利勝版ライと共に竹島の領有 を一方的に宣言竹島に警備隊員を常駐させ 今日まで続く法選挙を始めます日本はこの 時アメリカ軍の占領下にあり国家主権が ないために韓国に対抗する手段がない状況 でした利勝版ラインの宣言は サンフランシスコ公和条約が発行し日本の 試験が回復する直前のタイミングで行われ たのですとはいえ利勝版ラインが国際法上 違法であることに変わりありません サンフランシスコ和条約において日本は樹 党分島及びう党を含む朝鮮を放棄しました この中に竹島は含まれていません美判は これに抗議し日本の放棄地に竹島を含める 陽アメリカに要請しましたしかしアメリカ 政府はいわゆるラスク書館で毒とまたは 竹島内シリアンクルとして知られる島に 関してはこの通常でである岩島は我々の 情報によれば朝鮮の一部として取り扱われ たことが決してなく195年頃から日本の 島根県を祈と市長の管轄家にある位と記す などしてその要請を却下しています日本は 古くから竹島を漁業の重要な拠点とし地図 や文献に記載してきました江戸時代初期の 1618年幕府は鳥取班のに竹島近海の 漁業を認めます幕府が鎖国例を出した時に も竹島は自国の領土として渡航禁止の対象 にはならず漁業が続けられていました韓国 の顧問所に竹島韓国側の故障は独島の記述 は見られるものの行政権や領有権が及んで いたとする内容は見当たりません明治時代 の1905年日本政府は竹島を島根県に入 することを閣議決定しました同時に沖東の 住民の要請を受け明治政府は竹島を沖島町 の所管とします韓国政府は1905年の第 2次日韓協約により試験を日本に奪われ 竹島も奪い取られたと主張しています韓国 側が竹島問題を日本の帝国主義の始まりと する理由そして が韓国領であるとする理由がここにあり ますが1905年の閣議決定や日韓協約を 経ずとも前日のように17世紀の江戸幕府 がすでに竹島を時刻の領土としていたので あり韓国側が主張するような明治政府の 帝国主義政策とは関係なく竹島は元々日本 の領土であったのです 1963年パ がクーデターで大統領に就任した時韓国 経済はどん底でした政府は経済を立て直す ための予算すら確保できませんでしたパ チヒは日本の資金に頼るため日本との関係 を見直し始めます 1965年日韓基本条約が結ばれ国交が 正常化しますが竹島問題は棚上げにされ ました日本は韓国政府に総額8億ドル無償 3億ドル政府借間2億ドル民間借間 3億ドルを共有しますこれは当時の韓国の 国家予算の2倍以上の額でしたこの巨額の 支援金を使い韓国は観光の奇跡と言われる 経済復興を遂げます日韓基本条約に付随 する形で財産及び請求権に関する問題の 解決並びに経済協力に関する日本国と大 官民国との間の協定日韓請求権並びに経済 協力協定も同時に締結されました日本が 韓国に経済支援を行うことでこの協定の 署名の日までの両国及び国民の間での請求 源は完全活最終的に解決されるという内容 でしたつまり両国はこの協定によって戦中 などに生じた自由に基づくいかなる請求も 認めないとしたのですこの請求権の中には 利勝版ラインを超えたということで打保さ れた日本漁船その乗組因果から生じた全て の請求権も含まれていましたしって日本は この協定に基づき打保された漁船や漁船員 の被害損害を韓国に請求していません日本 の政府が自ら被害者族に対し 様々な保証を行ったのです一方の韓国政府 は請求権協定を国民に認定していましたイ 爆政権時代の2009年韓国政府は ようやくこの協定の存在を公式に認めまし たが軍官島という映画の大ヒットにも見 られるように韓国では今強制徴用の問題が 取り沙汰されています韓国の公衆地裁はに 三菱工業の名古屋工場で強制用されたと いう訴訟に対し8月8日に計1億 232万約11170円の賠償11日に計 4億7000万音約4500万円の賠償の 支払いを三菱重工業に命じる判決を出し ましたこの判決についてむジイ大統領は 両国官の合意は個人の権利をできず元陽の 個人が会社に持つ民事的な権威は残って いるというのが韓国憲法裁判所と大砲員 最高裁の判例であるという見解を表明これ に対し日本政府はソウルの日本体使官を 通じて徴用校問題は1965年の日韓請求 権協定で解決済みという立場を改めて伝え 韓国政府が従来の解決済みという立場を 変更したのかどうかの確認を求めました 日本の一部メディアは文大統領が8月25 日の安倍首相との電話会談で問題の発言を 修正したと報じましたが日韓両国政府から はこの件について正式な発表は行われてい ません絶対に韓国は日本叩きを行い続ける のは明白ですこれが本省なのですから次回 の動画でお会いできることを楽しみにして おります [音楽]
#日韓関係
#韓国歴史

1件のコメント
なぜニチカンのサイトを閲覧しているとクリックもしていないのに勝手に広告サイトに飛ばされるのですか?こういうのは悪質ではないですか?