「いただきます」と「ごちそうさま」の歴史を日本映画で検証してみた。~小津安二郎、木下恵介(木下惠介)、黒澤明(黒沢明)【意味がわかるとナニゲな日本史】「麦秋」原節子の、ぼっち「いただきます」が原型?
いただきます これがおそらく小津安二郎の映画の中で 一番印象的ないただきますのシーン でしょう 1951年 昭和26年公開の 学習です 主人公のノリコ 原節子ですね 原節子が遅くに帰ってきて 台所で一人でお茶漬けを食べるシーンです この 食事の前にいただきますと声に出して言う 習慣は 長く続く日本の伝統のように思えます でもいただきますというのは 実はここ100年もないくらいの 新しい習慣のようなんですね 笹塚大介さんという方が2013年に出し た日本人はいつからいただきますするよう になったのかというとても面白い研究本が 電子書籍にあっていただきますという挨拶 が 世間に浸透してきたのは昭和17年 1942年頃ではないかとしています 柳田邦男という民族学者がこの年に いただきますという言葉が随分広まって いるということを 随筆に書いてるんですね ラジオの料理番組がいただくという言葉を 乱発するので広まったというふうに柳田 邦夫は言っていて いただきますという挨拶に方言がないのは ラジオで広まったからだという 佐々木大介さんの分析はとても面白いと 思います さてそこでこのいただきますなんですが その歴史を 映画で検証してみました 小津安二郎 木下恵介 黒沢明の映画です まずいただきますが広まったのは 1942年頃だということなんですが これ 1941年公開の小津安次郎の映画 戸田家の兄弟の ワンシーンです お弁当を食べ始めるシーンなんですが いただきますとは言っていません よ 1942年公開の 同じく小津安二郎の 父兄の 前でご飯を食べ終えるシーンがあります
ごちそうさま」と言っていませんね ごちそうさまというのは 江戸時代末期にはすでにあった食後の挨拶 らしいのですが いただきますと ご馳走様はセットで考えていいだろうと 思います ごちそうさまと言っていないということは おそらくはいただきますもう言っていない でしょう 小津安二郎は 第二次世界大戦中は日中戦争に従軍して 一度は帰りますが 終戦間近にはシンガポール先生に十分して いますから 父ありきの後 戦前には映画を作っていません [音楽] そこでこれは 1944年公開の 黒沢明の一番美しくという 戦中の日本を描いた映画なんですが 軍需工場の大食堂のシーンがあります 女子公園のリーダーが 橋を取って食べ始めます [音楽] 不可能だわ いただきますとは言っていませんね もう一つ 1944年公開の映画に 木下恵介の 陸軍という映画があって 家族で 釜揚げの手打ちうどんを食べるシーンが あります [音楽] [音楽] ごちそうさまでした 息子たち2人とも ごちそうさまと言っています ということはおそらくいただきますとも 言っていたでしょう 小瀬康二郎の映画に初めていただきますが 登場するのは 1947年公開の 長谷新城です の戦後大作です [笑い] これは見事ないただきますでしょう 1941年公開の著作権の兄弟 1942年公開の父ありきではいただき ますは言っていません 1944年公開の陸軍では ちゃんと ごちそうさまと言っていますからいただき
ますもう言っていたでしょう そして 1947年の 長屋新視力では 確実にいただきますと言っています ですから 柳田邦夫がコメントした 昭和17年 1942年を境にして 戦中から戦後にかけていただきますが 広まったというのはまさにその通りなの でしょう そして 1951年公開の小瀬康次郎の 学習ですいただきますこの 原節子の 可憐ないただきますが 決定的だったのではないでしょうか 今の私たちが言うのと同じとても現代的な 一人の時でも言ういただきますです いただきますと ごちそうさままあおそらく最も 新しくできた日本の 綺麗な綺麗な 習慣 伝統です 学習は キネジュンという映画だし毎年発表する 工業ランキングの 1951年度のトップを取った映画でした 1951年当時の日本の映画人公つまり 映画館に足を運んだ人の数は 約8億人です 当時の日本の人口は 8400万人でしたから 日本人1人当たり年間に10本程度は 映画を見ていたことになります 学習はそういう時代の ベストワン映画でした
#日本映画 #小津安二郎 #木下惠介 #黒澤明 #原節子
「いただきます」を言う習慣は意外に新しいという説を、日本映画の巨匠、小津安二郎、木下惠介(木下恵介)、黒澤明(黒沢明)の作品で検証。原節子のぼっち「いただきます」に浮かび上がるナットクの事実!
(監修・制作/歴史観測)
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(内容紹介)
これがおそらく、小津安二郎の映画の中でいちばん印象的な「いただきます」のシーンでしょう。1951年、昭和26年公開の「麦秋」(出演:原節子、笠智衆、淡島千景、三宅邦子、菅井一郎、東山千栄子、杉村春子、二本柳寛、佐野周二)です。主人公の紀子、原節子ですね。原節子が遅くに帰ってきて、台所でひとりでお茶漬けを食べるシーンです。
この、食事の前に「いただきます」と声に出して言う習慣は、長く続く日本の伝統のように思えます。でも、いただきます、というのは、実はここ100年もないくらいの新しい習慣のようなんですね。篠賀大祐(ささかだいすけ)さんという方が2013年に出した「日本人はいつから「いただきます」するようになったのか」というとてもおもしろい研究本が電子書籍にあって、いただきます、という挨拶が世間に浸透し始めたのは昭和17年、1942年頃ではないか、としています。柳田國男(柳田国男)という民俗学者がこの年に、いただきます、という言葉がずいぶん広まっている、ということをエッセイに書いているんですね。ラジオの料理番組が、いただく、という言葉を乱発するので広まったというふうに柳田國男は言っていて、いただきますという挨拶に方言がないのはラジオで広まったからだろう、という篠賀大祐さんの分析はとてもおもしろいと思います。
さて、そこで、この、いただきます、なんですが、その歴史を映画で検証してみました。小津安二郎、木下惠介、黒澤明の映画です。
まず、いただきます、が広まったのは1942年頃だということなんですが、これ、1941年公開の小津安二郎の映画、「戸田家の兄妹」(出演:佐分利信、高峰三枝子、葛城文子、斎藤達雄)の1シーンです。お弁当を食べはじめるシーンなんですが、いただきます、とは言っていません。1942年公開の同じく小津安二郎の「父ありき」(出演:笠智衆、佐野周二)には、息子が父親の前でごはんを食べ終えるシーンがあります。ごちそうさま、と言っていませんね。ごちそうさま、というのは、江戸時代末期にはすでにあった食後のあいさつらしいのですが、いただきます、と、ごちそうさま、はセットで考えていいだろうと思います。ごちそうさま、と言っていないということは、おそらくは、いただきます、も言っていないでしょう。
小津安二郎は、第二次世界大戦中は日中戦争に従軍して、一度は帰りますが、終戦間近にはシンガポール戦線に従軍していますから、1942年の「父ありき」のあとは、戦前には映画を作っていません。
そこで、これは1944年公開の、黒澤明の「一番美しく」(出演:矢口陽子、入江たか子、志村喬)という戦中の日本を描いた映画なんですが、軍需工場の大食堂のシーンがあります。女子工員のリーダーが箸をとって食べ始めます。いただきます、とは言っていませんね。
もうひとつ、1944年公開の映画に、木下惠介の「陸軍」(出演:笠智衆、田中絹代、東野英治郎、上原謙)という映画があって、家族で、釜揚げの手打ちうどんを食べるシーンがあります。息子たちふたりとも、ごちそうさま、と言っています。ということは、おそらく、いただきます、とも言っていたでしょう。
小津安二郎の映画に初めて、いただきます、が登場するのは、1947年公開の「長屋紳士録」(出演:飯田蝶子、青木放屁、河村黎吉、吉川満子)です。小津安二郎の戦後第一作です。これは、見事な、いただきます、でしょう。
1941年公開の「戸田家の兄妹」、1942年公開の「父ありき」では、いただきます、は言っていません。1944年公開の「陸軍」では、ちゃんと、ごちそうさま、と言っていますから、いただきます、も言っていたでしょう。そして、1947年の「長屋紳士録では、確実に、いただきます、と言っています。ですから、柳田國男がコメントした昭和17年、1942年を境にして戦中から戦後にかけて、いただきます、が広まったというのはまさにその通りなのでしょう。
そして、1951年公開の小津安二郎の「麦秋」です。この、原節子の可憐な、いただきます、が決定的だったのではないでしょうか。今の私たちが言うのと同じ、とても現代的な、一人のときでも言う、いただきます、です。いただきますとごちそうさま、は、おそらく最も新しくできた日本の、きれいな習慣、伝統です。
麦秋は、キネ旬という映画雑誌が毎年発表する興行ランキングの1951年度のトップをとった映画でした。1951年当時の日本の映画人口、つまり映画館に足を運んだ人の数は約8億人です。当時の日本の人口は8400万人でしたから、日本人ひとりあたり、年間に10本程度の映画を観ていたことになります。麦秋は、そういう時代のベストワン映画でした。
15件のコメント
戦争を経て穀物にも感謝する姿勢もあったかと思う、素晴らしき日本語ですね!
方言もなくこの言葉が全国に伝わるのはその当時のラジオやら映画のおかげです❤
小堺一機と高島忠夫・寿美花代夫妻の話じゃないのね……
という戯れ言はさておき、
全国的に普及したのは太平洋戦争と戦後に復活した学校給食制度が関係してはいないでしょうか?
ありがとうございます。
たいへん参考になりました。登録しました。
現代社会の基礎の多くは、敗戦後ではなく戦時の動員体制において形作られたと聞きますが、この「いただきます」もそうだったのでしょうか。総力戦体制のもと、物資的にも質素や節度を要求される中、国民一丸となりそれを達成しようとする空気の中で普及し、その名残りとして戦後(豊かになった今も尚)定着したと思うと、戦争とは社会や人を倫理的にもするものなのか・・との不思議な思いがしました。
邦画を通しての「いただきます」「ごちそうさま」の考察、たいへん面白く拝見しました😊 映画というのはもちろんフィクションなんですけど、時代の風景を切り取った貴重な記録でもありますね
とても参考になりました、ありがとうございます。
よく調べられましたね。
とても興味深く視聴させて頂きました。
「ベストワン」という言葉には違和感を感じますね。
畿内では「ごちそうさま」には「よろしゅうおあがり」と返しています。この返しも昭和に入ってからだったのでしょうか?今はあまり聞きませんが、、
いただきますは、尋常小学校で広めた挨拶で、浄土宗(浄土真宗?)で行われてた礼の採用だよ
1942年生まれ、「いただきます」、「ごちそうさま」は言わなかった。戦後学校給食から始まったという説納得します。というのも給食の経験が全くないので自宅でも言わなかった。お婆さん達は言ってたけど宗教的な所作だと思っていた。最近は赤ちゃんでも手を合わせて可愛い。
映画【寅さん】の中で(吉永小百合さん出演)おいちゃんの団子屋に訪ねて来た二人の女性が団子を出されて、食べる前に「いただきます」とは言わずに「ごちそうさま」と言うのを観て、そういうのもありなんだと初めて知りました。
かあやんの「いただきます」は、ご祝儀の振る舞い酒を「ご馳走んなるよ」の意味だから食前の「いただきます」とはニャアンスが違う。33:01で、配給のお知らせに来た為吉に、かあやんが「夕べはご馳走さん」と言うのとセットになってるけど、これも昭和以前からある「ご馳走頂戴つかまつる」が「頂くよ」と「ご馳走さん」に分かれたものだから、食前食後には関係なかろう。56:11には大工の伜という設定の子供が「いただきます」と言っているから、生活水準の低い家庭でも、おそらく戦前戦中から「いただきます」を言う習慣があったのかもしれない。中流家庭をあつかった小津の愚作の「麦秋」を持ち出しても、当時全国的に「いただきます·ごちそうさま」が普及していたとはいえまい。キネ旬ベストワンといっても、それは選考委員が選ぶサロン的な順位付けであって、観客動員数で決まるものではない。同年の今井正の「どっこい生きてる」のように、満足に仕事も金も寝る所もない社会の底辺に生きる人びともまだ大勢いたのである。この映画の貧しい食事では、子供から「いただきます」という言葉は出てこない。
「いただきます」はどちらかといえば、他家で食事などを「いただく」時の「挨拶」習慣から転化したものでしょう。「命を頂く」は後付けと思います。
「いただきます」に方言がない
なるほど〜。何かすごく納得してしまいました。