津波で両親を失った少年が二十歳に 『頑張っている姿』が恩返し 13年分の感謝と誓い #知り続ける (24/03/06 11:40)

あですかお腹壊さなかったですか今月 二十歳を迎える小川ハトさん です地元陸前高田市で1月に行われた 二十歳の集いに袴姿で出席しまし た心も引きしまってまし腹も引きしまっ てるんですけどまあでもま切れてよかった なって思い ますハルトさんはこれまで自分を支えて くれた人たちへの感謝の思いでこの日を 迎えています [音楽] ハルトさんの父久さん と母翔子さん [音楽] です東日本大震災の津波に飲まれ亡くなり まし た震災の直後は両親が行方不明だったにも 関わらずさんは兄のさんとに小さ手での 手伝いに励んでいましたちの手伝い終っ たうん終わった共に避難した母方の祖母 いこさんはけなげな2人を大切に見守って いました頑張ってる からよしですまだ本人のおの父の顔も見れ ない から笑顔を振り 2人この表情の裏には切実な願いが隠され ていたのです今日これからどこ来てくれる と思っている頑張って たら立っていればお父さんとお母さんが 見つけて くれるそう信じて2人は明るく振舞い続け ましたが両親が迎えに来ることはありませ んでした やんちゃでみんなのアイドルだったハルト さん避難所に身を寄せている人たちは我が 子のように可いがりまし たなんか私たちの癒しになってて私たち3 色自分たちで作ってんですよそれで配とか 全部やって くれ小さいながら もっ [音楽] そうそう [音楽] さんは我がをマイスな子でしたの行かなく て見た さん興味 [音楽] ないそれから2年後ハルトさんは8歳 に住宅を尋ねると可愛いいたずらっ子に なっていまし たい大丈夫取ってんじゃねえよ大丈夫 約束は守って ああ真っ だけメコテレビもまたハルトさんの成長を

カメラを通して見つめてきまし たよあ来 た震災から10年地元の高校へ進学し すっかり大人びハルトさんは地元の七夕 祭りへ本格的に参加するようになってい ましたあなんか夕やんないとなんか夏が 始まらないみたい なお祭り好きで異性よく対抗をたいていた 父の 姿を引いて祭りに連れて行ってくれた母の おかげが記憶にしっかりと残っていたから [音楽] ですこの大石田端祭り組の会長斎藤正彦 さんもハルトさんの成長を見つめてきた 1人 です頼もしくなっては来てるねうんだから あの子たがこう大きくなるまでなんとか俺 も頑張ってそしてバトンタッチできたら 安泰だろうなと思うので楽しかった ですもちっちゃい子に憧れてたお父さんの 食いた姿と同じようにできてなんかすごく 嬉しい です七夕祭りを通してハルトさんは地域の 人にも育てられていまし たそしてハルトさんに誰よりも愛情を注い だのは祖母のいこさん です震災後は親代わりとなって2度目の [音楽] 子育てさんが仙台の専門学校に進学して からは少し広くなった災害公住宅でハルト さんと2人で暮らしていまし たハルトさんが新学先の仙内に引っ越す 前日いこさんはハルトさんが大好きな カレーライスを夕食に作りましたこなんか 優しい味する感じですかねあま俺の中だと そのまずっとうんこのカレーなんでま カレーと言ったらこの味かなみたいな感じ ですか ねらはれなるさんのカレーをしっかりと 味わいまし [音楽] たそして 翌朝ハルトさんがいよさんの元を離れる時 が来まし た 落ち着けて ね多分陸前高市の発展につげたいという 思いから大学では主に地域学を学んでいる ハルト さん講義の内容は地元の課題に置き換えて 考えを巡らせてい ますバリアフリーとかそういう授業だった んですけど車さの人のなんかやりに スロープつつけるだとか高田ってそういう のないよなと思ってたりもしましたわ

テニスのサークルに入り親友もできました いやまあまあ他には大学の友人たちには 人柄が評判のようですみいな人がこれ以上 ないぐらい優しいんでまやっぱみんなから 愛されてるなっていうのはすっげえ感じ ますねあもう大好きですよ恥ずかしい じゃん 苦手だった自炊もできるようになりいつ しか1人暮らしにも慣れてきたハルトさん とじゃなくてそれでも気にかけているの はさんの存在でしたあっちも年なんで普通 にま年齢から来るなんて言うんですかね 体調の変化とかまあとは1人になって 寂しくしてないとかそういうのはその たまに電話したりして確認してます いこさんの元を離れ2年が経ちまし たそして今年1月だらおハトさんがの集い に出席するためしてきまし たハトさんが帰ってくるとさんとても嬉し そうです明日で私成人式ですよおめでとう ばあさんのおかげ ですみんの [音楽] みねたくさん迷惑かけてきたけどさな [音楽] ないつもありがとう [音楽] ね稼ぐようになったらなんか買ってやっ から13年分の感謝の言葉でし た歳という人生の指名を迎えられた皆さん 誠におめでとうござい ます迎えた二十歳の 集い避難所を駆け回るあけなかったあの ハルトさんが立派な青年になりまし [音楽] た 高いよさんにもりりしい晴れ姿を見せる ことができまし たあ良かったなって思いますちゃんと立派 な姿見れ て皆さんにお金で助けてもらって立派な転 式を買いまし たん [音楽] なさいの魅力を事 たいまで支えてくれた人たへの感謝を口に しまし た何かしらの形でま地元貢献できたらいい のかなっていう風に思いますしまそうやっ てまちゃんとしてたらその今まで支援して くださった方のま恩返しというか自分は 頑張ってるよっていう姿を見せて安心さ せることできるのかなって思います両子 どっちもまおめでとうっていうのと立派に 育ってくれてありがとうって言ってくれる

かなってちょっと思ってます 両親をなくしながらも多くの人に支えられ てたくさんの愛情を受け生きてきた13 年優しくまっすぐに育った青年が今明るく 照らされた未来へと歩みを進めてい ます

東日本大震災の津波で両親を失い、2024年1月に二十歳のつどいに出席した岩手・陸前高田市出身の男性の13年。
親代わりとして育ててくれた祖母、支えてくれた人への感謝を胸に未来への歩みを進めている。

2024年3月、二十歳を迎える及川晴翔さん(19)は、地元・陸前高田市で1月に行われた二十歳のつどいに袴姿で出席した。

及川晴翔さん
「心も引き締まってますし、腹も引き締まってるけど、着られてよかった」

晴翔さんは、これまで自分を支えてくれた人たちへの感謝の思いで、この日を迎えていた。

晴翔さんの父・徳久さん(震災当時39歳)と母・昇子さん(震災当時39歳)は、東日本大震災の津波に飲まれ亡くなった。

震災の直後は両親が行方不明だったにも関わらず、晴翔さん(当時6歳)は兄の佳紀さん(当時9歳)とともに、小さな手で避難所の手伝いに励んでいた。

兄・及川佳紀さん(当時9歳)
「晴翔、あっちの手伝い終わった?」

及川晴翔さん(当時6歳)
「うん、終わった」

共に避難した母方の祖母・五百子さん(当時68歳)は、健気な2人を大切に見守っていた。

祖母・五百子さん(当時68歳)
「よく頑張っているからよろしいです。まだ本人もお母さんとお父さんの顔を見ていないから…すみません(涙)」

避難所に笑顔を振りまく2人。この表情の裏には切実な願いが隠されていたのだ。

兄・及川佳紀さん(当時9歳)
「(両親は)来てくれると思う、頑張っていたら」

「目立っていればお父さんとお母さんが見つけてくれる」そう信じて2人は明るく振る舞い続けたが、両親が迎えに来ることはなかった。

やんちゃでみんなのアイドルだった晴翔さん。
避難所に身を寄せている人たちは我が子のように可愛がった。

避難所で暮らす女性
「私たちの癒しになっている。3食を自分たちで作っているけど、(晴翔さんが)配膳とかやってくれて、頑張っています」

有名力士が慰問に訪れたときは、夢中になっている兄・佳紀さんをよそに、晴翔さんは我が道を行くマイペースな子だった。

Q:いいの?行かなくて。見た?お相撲さん
及川晴翔さん(当時6歳)
「うん。だって相撲興味ないもーん」

それから2年後…晴翔さんは8歳に。
仮設住宅を訪ねると、“かわいいいたずらっ子”になっていた。
「おい!撮ってんじゃねえ!」と言ってカメラを手でふさぐ晴翔さん。

カメラマン
「あーあー、真っ黒けだ」

岩手めんこいテレビもまた、晴翔さんの成長をカメラを通して見つめてきた。

震災から10年(2021年8月)、地元の高校へ進学しすっかり大人びた晴翔さんは、地元の七夕まつりへ本格的に参加するようになっていた。

及川晴翔さん(当時17歳)
「七夕祭りをやらないと夏が始まらない(笑)」

お祭り好きで威勢よく太鼓を叩いていた父の姿と、手を引いて祭りに連れて行ってくれた母の面影が、記憶にしっかりと残っていたからだ。

この大石七夕祭組の会長・斉藤正彦さんも晴翔さんの成長を見つめてきた1人だ。

大石七夕祭組 斉藤正彦会長
「(晴翔さんは)頼もしくなってきている。あの子たちが大きくなるまで、なんとか俺も頑張ってバトンタッチできれば安泰だと思う」

及川晴翔さん(当時17歳)
「楽しかったです。小さいころに憧れていたお父さんが叩いていた姿と同じようにできて、すごくうれしい」

七夕祭りを通して晴翔さんは地域の人にも育てられていた。

そして、晴翔さんに誰よりも愛情を注いだのは祖母の五百子さんだ。
震災後は親代わりとなって2度目の子育て。

兄の佳紀さんが仙台の専門学校に進学してからは、少し広くなった災害公営住宅で晴翔さんと2人で暮らしていた。

晴翔さんが進学先の仙台に引っ越す前日、五百子さんは晴翔さんが大好きなカレーライスを夕食に作った。

及川晴翔さん(当時17歳)
「優しい味がする。俺の中だとずっとこのカレーなので。カレーといったらこの味」

しばらくは食べられなくなる五百子さんのカレーをしっかりと味わった。

そして翌朝。
晴翔さんが五百子さんのもとを離れるときが来た。
走り出す車の中から手を振る晴翔さんを、五百子さんが災害公営住宅の2階通路から「気をつけてね…」と手を振って見送った。

陸前高田市の発展につなげたいという思いから、晴翔さんは大学では主に「地域学」を学んでいる。講義の内容は地元の課題に置き換えて考えを巡らせている。

及川晴翔さん(当時18歳)
「バリアフリーの講義で車いすの人のためにスロープをつけるとか『陸前高田ってそういうの少ないな』と思った」

テニスのサークルに入り親友もできた。大学の友人たちには人柄が評判のようだ。

晴翔さんの友人 田原慧斗さん
「これ以上ないくらい優しいので、みんなから愛されていると感じる。もう大好きですよ」

苦手だった自炊もできるようになり、いつしか1人暮らしにも慣れてきた晴翔さんだったが、それでも気にかけているのは五百子さんの存在だった。

及川晴翔さん(当時18歳)
「あっちも年なので年齢からくる体調の変化とか、1人になって寂しくしていないか、たまに電話をして確認している」

五百子さんのもとを離れ2年が経った。
そして2024年1月、晴翔さんが二十歳のつどいに出席するため帰省した。
晴翔さんが帰ってくると五百子さんはとてもうれしそうだ。

晴翔さん 「明日で私、成人式(二十歳のつどい)ですよ」
五百子さん「おめでとう」
晴翔さん 「ばあさんのおかげです」
五百子さん「…(涙)」
晴翔さん 「たくさん迷惑かけてきたけど、いつもありがとうね。稼ぐようになったら何か買ってやるから」

13年分の感謝の言葉だった。

2024年1月7日、迎えた二十歳の集い。
避難所を駆け回るあどけなかったあの晴翔さんが立派な青年になった。
五百子さんにも凛々しい晴れ姿を見せることができた。

及川晴翔さん
「良かったと思う、立派な姿が見せられて」

祖母・五百子さん
「皆さんのおかげで助けてもらって、立派な成人式(二十歳のつどい)を迎えることができました。(涙)ごめんなさい(涙)」

将来地元の魅力を発信する仕事に就きたいという晴翔さんは、これまで支えてくれた人たちへの感謝を口にした。

及川晴翔さん
「何かしらの形で地元貢献できたらいいのかなと思いますし、ちゃんとしていたら支援してくれた方々への恩返しとして、『頑張っている』という姿を見せて安心させることができると思う」
「両親はどちらも『おめでとう』と『立派に育ってくれてありがとう』と言ってくれると思う」

両親を亡くしながらも多くの人に支えられて、たくさんの愛情を受け生きてきた13年。
やさしく、まっすぐに育った青年が、今、明るく照らされた未来へと歩みを進めている。

Leave A Reply