里人・徳山藩改易騒動「第十一話」吉元公の養嗣子入と、吉廣公の御逝去

[音楽] 長沼戸の徳山吹のご関成この桂競復いたし まし たお言葉痛みいるこの夏に殿様が八幡宮に 奉納なされた識を始め宇都宮とアドの作 生息同機と松屋 発しそれにお手前が作りし松屋発景を納め た四分衆を 徳山名称として今日の諸子文海道の林兵に 思考させようとのご意行で ござる大八景を忍ぶ徳山の18形を四分衆 として思考なされるとは素晴らしきことか な我が大様は久保様の教書公爵に度々ご 列席なされまた殿様の分が戦闘様にエセ らる栄誉に預かり申す 我が殿こそまの文人代表でございます なじは今日堀川宿の伊藤当該殿にご依頼 なされたる よし来年の書籍の仕上がりが楽しみじゃ の放映2年1705年12月26日王の国 徳山涼の川曲村にて大下が派生いたしもし たおしも冷たい北よりの強風に煽られた炎 は村の家を焼き21件の家が消しついた下 をし たくしくも日の神様がご集法の折りの 日本海側の徳山半両名の裏での大下と同じ ように貫中聖母の災難でござっ たこ時の神様は徳山半に滞在中で直に民の 救済に動かれたので [音楽] ござるごめんくださいこちらは名古屋様の お屋敷でございましょうか おやいかにも名古屋門の屋敷じゃけど旦那 様になんぞご用か ねはい手前は川曲村百勝じ衛門のせがれ 吉衛門と申すもでございます先日の大下に おいて家族と住まいを失い行く当てもなく 途方に暮れておりましたところ名古屋様の お屋敷にてご方向のお話を頂戴いたしまし た ああその話なら旦那様から聞いちょい ねこの度は難儀なことじゃったね家業の3 段がつくまで家の中原として働きん さやはいありがとう存じ [音楽] ます [音楽] ほ3年の徳山の町は木山36に建てられた 親方から南に下ってけの屋敷が広がって おり申し [音楽] たそしてその屋敷の南の橋をに 桜の馬場を境にして南に広がる平野の内 から瀬戸内海に近い場所山陽道が東西に 通りその周辺に消化が立ち並んで徳山の

町屋が反映しており申し [音楽] た徳山森家の倉本日記によると毎年小月 15日を式日として定め内初村のや徳山年 より大徳山化のお客屋へ集めて13歳の 料理を振る舞い商や百しらの心へを 読み聞かせ年の長州から民の安定を 心がけるように命じるので [音楽] ござる正月に取り行っれるこの行事は 日本海側の徳山両の名村や大い村からも 参加するのでござるが冬の時期ゆえに積雪 や悪天候などによる交通手段の喪失や風 などの病気によってことが叶わぬものも ござっ [音楽] た阪が五在国中の年は親方にさじてご所員 の波の間においてお目見えが許されたので ござるが普段100勝や長人が親方に参上 することは許されておらぬのでこれは大変 な名誉でござっ た対当を許されている身分のものは対等し 合わせ氏もに清掃した一同はついで年理の 順に阪に見えし逆月を賜ったので ござる殿様の肺がんのAによした一同はお 客屋へ会場を移して切を賜るのでござるが オタル大と称して銭に一貫もを半風のご 祝儀として見上してござっ た試を食らうのは恐れ多いということで ござるな [音楽] [音楽] なんやあんたらもう戻ってきちょったん か今年はどの村の勝野が表彰されるのか気 になって の去年はとど村と山田村が表彰されたが 今年はどうなるじゃろう なわしが予想するに今年もとど村が表彰さ れるんじやなかまかあの村は隣の群れもの 百姓が仮式を取りに草刈り場に入ってくる けご小夜の吉た様が人刀ならぬ極神をなさ れちると聞く でなんじゃ群れの百勝はまだとみの 草刈り場に入ってきちるん かりゃほれでお立山の江戸ま山に入れんの じやけしょうがない じゃろう右田様も大がわりなされた者から 解決するかもしれん でそうなるとエじゃが [音楽] のそれにしても去年は年末になってから 川曲がり村で家事が起こって災難じゃった が今年は良い年になると映画 の焼け出された村の州は殿様のご意行で 手厚い救済じゃったと聞いた

で下々のことを思って祭り事をなされる わしらのご領主様がひの神様であられて 本当に良かった のほんまじゃ のこれより小夜の表彰を取り行っ お始まるでみの州お祭 や これより昨年のうち特に鉱石のあったもの を表彰して殿様より褒を 賜ると村や吉田りー [音楽] でよ その方村の田が後輩しているにも関わらず 主してよく年を開催し たよってと村へ目一貫もなて与えるもの なりありがたき幸せに存じ ます大村中原りーでよ ははその方ここ数年事の所役をよく務め年 開催に修正し たよって大村しへ米一を当て与えるもの なりありがたき幸せに存じ ますこれより当職名古屋様のお言葉を [音楽] 賜わり当職名古屋現場で ある昨年のこうあるものに報いて表彰 いたしたが漏れたるものについても今年の 目標として励むが 良い常日頃の皆の性に対し今日は殿様のお 心遣いにて皆にご馳走を 賜るありがたく頂戴いす [音楽] べしこの小夜表彰は徳山半海駅の翌年承徳 5年から中断したがおの最高後はとばの 戦いが行われた慶4年頃まで継続して行わ れたので [音楽] ござる放映3年1706年4月5日日の神 様はモご創家の吉子と入れ違いに江戸へご 産婦なされ申し [音楽] た [音楽] ひのかさんはようやく町に待った徳山名称 が届きましてござい ますおお現地やっと届いたかどれ早く見せ て みよこれにござい ますどれどれ おう良きか [音楽] な出来栄えはいかがでございましょう やよい良いぞ 現地当該の女も気に入っ たよは満足 [音楽]

じゃ 当該やギタラに褒を使わさねばならぬな 中方の際に大阪の屋敷で 会おう現地その方に取持ちを 任せるはかしこまりました当該殿のらも 喜び [音楽] ましょう [音楽] 6月25日徳山の五浄化付近で大風と大雨 により洪水が派生いたし申した東海した家 の数433ゲムナパした船の数は2波を 数えたので ござる 日の神様は留役の阿やや殿に命ぜられ 手厚い救済を行われ申し たつぐ火災や地震などの災害にも関わらず 徳山班の御陵内では全盛を敷かれる日の神 様の人気はうなぎ登りでござっ たしかし萩のご創家では日の神様を激怒さ せいる事態が始まろうとしてござった [音楽] 5月に萩へご修法になられた吉孝はご世子 の誕生が望めぬ場合をうえて要しを決めて おくようにご一問がろや兵隊我に表情 いたすべしとお申しつけになられたので ござるお様のご誕生までの間ご用しを迎え られたいと殿様のせがござっ た今日は皆のご意見を聞きたいと存ずる 服装なきところを申し述べられ たいただいまのところ当分用紙は長府の 受け一長殿を幕府へ届けておりもが仮用紙 ではなく正式な御用紙として幕府へ届け 入れるということでござるか [音楽] いかにもおつ様のご誕生がなくば次のご家 のご投資となら れる正式なご用紙ということで ござる恋し気味はまだに今すぐのおぎは かなり難しいございましょう [音楽] な松田ではの神様の姫姫様との義がなって おれば今頃はご着しがわしたじゃろうて万 姫様のご創生がなんとも口惜しい のであれば当分用紙になっておられる長殿 の他にお願いできるお方はござらぬので はそうじゃな長殿以外にご適任はござらぬ な あやしばらくしばらくお待ちくだされ展示 校の落ち筋はお考えでござろう か殿様まで4台展示校の落ち筋を守って ござる受長殿は天字港の落ち筋にあら ず小山光の落ち筋でござる天字校の落ち筋 は徳山港が す徳山港をしてご用しとなされるが落ち筋

からしてもよろしいのではござらぬ かその義なれば当分用紙を消したおにも 論じたはずでござる ぞたえ一時であっても徳山校は進化筋の 長い系入っておられ た親戚にあったお方がご創家のご投手にお つきになるとは渾身のけじめに関わるお家 の一大児長府校が黙ってはおられまい再び 長府モ家の独立をお考えになられるやも しれ ぬいや しかし日の神様が親戚にあったことが 差し障るなら誤着の百次郎気味をお迎え するのはいかがでござろうか なそれでも長不幸は黙っておられまい百 次郎気味は数えで本年4歳でござるどなた かにご貢献役をお願いいたさねばなります まご貢献が徳山校では触りが ござろうならば校にご貢略をお願いすれば よろし かろう長府校がお断りになられましょう それに16歳以下のご集はご講義が顔を なさら ぬむギじゃ な丹波殿は長府海の神様にご相談申して おられますの かいやそのようなことはござら ぬな大王徳山長のご何のごもなく消すべき ではないと存じます [音楽] がこの表情の結果は我らカシの意見で ござる殿様のご意思を決するものでは ござら ぬしかしご参考にはなさい ましょうご両家のご意向をお伺いすること なくこの場で決するのはいかがなもので ござろう かこれはのをお聞きになりたいとの殿様の ご命令で取り行っ表情で ござるどなたをご用紙に押されるのか山代 殿のご意見をお聞かせくださらぬ [音楽] かタバの我が子山代は右田の家を継いだ ばかりにてまだまだみくもなればどうかご 容赦願い たいあいやクローズドの山代殿が申される ことにも通りが ござるしかしお殿様のご加盟による今回の ご表情でござるこの表情にて過労州の意見 をまとめ たいここは1つこの難題解決のためご協力 いただけまい か承知いたした我ら親子は一文がロゴ筆頭 の丹波殿のご意見に同意 妄想片の

ござる若狭殿はいかがか なそれがしはだ14でござれば波殿のご 意見に賛同いたし ます片 の きか殿はいかがで ござろうそれがしは12でござる若狭殿に 同じく丹波殿のご意見に賛同いたし ます片の ござるそれでは家カの意見として教の大部 元より殿をご用紙にご推薦いすことと決し それがしのことを忘れてもらっては困り ます がこれはゴブレいたした悪気はないのでお 許し あれあのな悪気がなっちゃういかん じゃろうんどこかで聞いたようなセリフ じゃ な大倉殿は長殿のご用し入りにはご反対か なあいや反対ではござらぬ よさ様でござるか よろしいそれではカの意見として教の大部 元より殿をご用紙にご推薦いたすことと 決し [音楽] 申す 10月長府モ家の誤着しであった右京の 大部元子がモ大前大府吉孝の容姿師になら れると幕府へお届けいでされ申し [音楽] たついで12月5日元より子は樹下に進士 将軍徳川綱義校から一次を賜わりモ吉本と 5回目なされたので ござる そして12月23日民部の台風に人税られ 樹のモリ民部の体育吉本称されるので [音楽] ござる 放映4年6月13日伊藤当該伊藤バ林米の 3人が大阪堀にある徳山森家の大阪倉屋敷 へ出向いて日様から頂いたご褒美の御礼 本城のために留役中島兵モドの都会いし 申し た映4年の大阪絵を使えないので完成元年 に野球名の名で出版された大阪絵でご説明 申し上げる と大阪城から西に淀川を下ると天満橋 天神橋名橋淀屋橋と続き東西の本願寺前を 通る現在のみ堂筋へ至るのでござる が堂島川と分れた土佐堀川をさらに西に 下ると現在上安橋と呼ばれる田屋橋付近に モ五創家の大阪倉屋敷がござっ たそこから江戸堀を渡った南に長府森家の 大阪屋敷もござっ た徳山森家の大阪倉屋敷はそこからさらに

南下した木川に近い堀にかかる新橋後の西 二橋を渡った付近にござっ た [音楽] この旅はかぶなるご褒美を賜り超越四国に 存じ ます本来ならの神様のごをとでござった がにとスケジュールの調整がつなんだ 申し訳 ないいやいやすでに身に余るご褒美を頂い ており ますこの上殿様にご配いただくなど誠に 恐れ大きことでござい [音楽] ます 実はこの度日の神様を差し置いて萩ご家の 御用紙に長海の神様のご則が入られ申し た展示公のご決闘から申せば当然ひの神様 じゃ がどういうわけか日の神様が外されもし [音楽] たの神様は通りが通らぬことを断じて許さ ぬあの で ござるいずれ時を見て再度ごハエの機械を 支度したいと存ずるゆえ今日はこらえて くだされさでございました かそれよりも野宮様のご門名古屋様の書が 御天使様の映によくされたと か殿様もお喜びでございましょう [音楽] そうでござる戦闘様や新王様のご鑑賞まで も構ったと伺って ござるまさに家にとってもほれでござい ます殿様の鬱も少しは晴れ ましょうそうでござるわ沖が晴れると よろしいござる [音楽] だ [音楽] この日から伊藤当該の時定伊藤バが強の ままに徳山森家から客分として5人口の6 を与えられてモ元校に受信として使える ことになったので ござる 放映4年8月15日伊勢の赤服が創業した とするこの年モ義博康夫人の小石気味が 将軍徳川綱義校の夫人高塚佐様をおつみに ご招待なされ申し た大おば様今日はよくお越しくださいまし た江戸のお話をたくさん聞かせてくださっ てゆっくりとしていってくださいませ こいしちゃん今日はおつみのお招き 大きに私も若い頃はこいしと言ったの よそれよりも聞いたわよモリ殿の容姿に長

飼の神の着手が入ってこられたと かここはなんとしてもモ殿のよをこちゃん が埋めへんとあまへんへ小はまだ13 夜そこは気合いできばり やすあそうそう恐怖からの容姿はあの人の 血筋とは違うと聞きましたえあの人なんて 言わはったっけほらよどにひったかれはっ たえ引っかかれはったってあああれは去年 の大雅ドラマどしたわでもあれはないわよ ねご子孫が怒ってはったわ よ ああそうそうモリの照元はやった長府の 陽子さんは照本さんの血筋と違います やろ血筋なら徳山の神さんです やろば様様は34歳ひのかさんは39歳で 結構年が行ってはり ます殿様より5歳もお兄さんやのにご用し とはおかし 吸えあらそんなにふけてはる のそやったら着手がいてはるって聞いた けど着しの百次郎さんはまだ5歳どす ああそうなのまだ5歳じゃ仕方ないわね 溶接ってこともある しまあとにかくきばりな [音楽] はれ [音楽] 放映4年10月3日モ五創家投手大前の 大部義孝が江戸桜田の上屋敷においてお 倒れになり申し [音楽] たのは重く将軍未どころの訪問を賜り 明るかった家中の空気は一変したので [音楽] ござる 危ない翌日の映4年10月4日1707年 10月28日金半島機を震源とする巨大 地震が派生いたし申した南海トラフのほぼ 全域にわってプレート間の断層破壊が 起こったと推定され日本史に残る最大級の 地震と言われるので ござる地震の規模はマグニチュード8.6 と推定され地震で揺れた地域は近畿から西 は中国四国九州へ東は中部から江戸にまで 広がり申し た特にご機内の内陸部の揺れが激しく記録 によると家国の東海が1800以上死者 500人以上とあり当時の人口から考える と甚大な被害でござっ [音楽] た津波は暴走から九州までの太平洋沿岸 から八条島へ到達し瀬戸内会にまでも 入り込んで被害をもたらしてござっ た伊豆下田では7mほどの津波が到達して 857個の家が失われ11人が歴史したと

記録が残るキ半島の東岸には10mほどの 津波が到達し大汗では610個のカオが 失われ死亡したものは530人を超えた 土佐の沿岸では8mほどの津波が到達し 1万7000個以上の家が失われ死亡した ものは2800人以上の大惨事となったの で [音楽] ござる当職の名古屋現場殿が大阪倉屋敷 陸水役の中島表モドのに当てた所場では 徳山でも余震と思われる揺れが度々起こり 津波の到達もあったが特に大きな被害は出 なかったと書かれて ござる [音楽] 我が命もこれまでか吉本を容姿しに迎えて おいてよかった な 不便なのは小石じゃ実家へ戻ってよきお家 に縁があれば良いのじゃ が殿笑わ障害再婚いたしません殿の母を とい ます何を言うか恋しいそなたはまだ若い 実家へ戻って良き家とついで幸せになって ほしい 殿と共にした時はみこ押したけど楽しした これでお分れなんて寂し 押す慣れぬ江戸で心細ことであったろう もっと相手をしてやればよかったなすまぬ な こいしそうおすなら早く元気になって遅れ やす [音楽] そうじゃな恋し元気になって芝居でも見物 に参ろう [音楽] ぞ吉本後を頼む ぞ弱気を申されますなおきをお確かに なさい ませ 公営4年10月13日モ義博孝が江戸桜田 にあるモ五家の上屋敷において35歳でご 挙なされ申し た原67年に兄吉成の容姿となり兄気のご 挙によって22歳でご創家のご家督を継が れてから13年と6ヶ月つぐ災害により財 生難に悩まされれたご知性でござっ た御射程の元校とその後着し元直はすでに なく吉博子がご挙になられたことでモリ テる本校の男系男子は徳山のモ元校とその 着し百次郎義だけと愛な申し [音楽] た10月15日徳山校は吉博校の病気見舞 に片岡バンゴを死者に立てられ申した死者 のバンゴ郎は驚くべき早さで8日後の23

日に江戸へも押したがよひこはすでにご挙 なされており申し [音楽] た [音楽] T

1705年(寶永2年)
2月21日
萩藩が、諸借利定および質物利定を公布し高利を禁ず。
【山口県文化史年表 増補改訂版】
2月28日
新古添状借利定を公布し、高利を禁ず。
4月4日
広房(後の広豊)三田邸に生まれるとされる。
実は寶永6年4月4日生於江戸三田邸
【近世防長諸家系図綜覧 P-26】
4月19日
毛利元次が江戸を発つ。
5月2日
毛利吉廣が萩を発つ。
6月1日
萩城下で大雨の為、堀内近くまで浸水し、侍屋敷や町屋敷に大被害をうける。
京都の秤座神善四郎の手代13人が萩に派遣され、秤の検定を実施する。
【萩市史 年表】
この年、橋下大橋を石柱とする。
【山口県文化史年表 増補改訂版】
6月4日
毛利吉廣が江戸へ参府す。
6月12日
萩藩が、百姓の名田をみだりに取りあぐる事を禁ず。
7月12日
長府領六連島に、厦門(現在の福建省:アモイ)商船が漂着。
8月
元次が「遠石記」を完成させ、八幡宮に奉納する。
【徳山市史年表】
10月12日
川島から長福(川添)間の堤防の修築補強と、濁淵から小松江間の新溝開削に関し、幕府の許可を得る。
【萩市史 年表】
10月22日
萩城三の丸の絵師・雲谷等璠宅から出火し、平安古町まで延焼。
平安寺を含む26軒が焼失する。
■雲谷等璠(1635年―1724年)うんこく とうばん
江戸時代前期-中期の画家。
寛永12年生まれ。
雲谷等益の4男。
長門国・萩藩につかえる。
寛文3年に兄・等与の養子となる。
等与が亡くなり、雲谷派宗家を継いで雪舟6代を称す。
享保9年2月6日死去。90歳。
通称は竹右衛門。別号に文海。
作品に「琴棋書画図屏風」「滝見観音図」など
【萩市史 年表】
11月13日
当職・佐世広久郡中諸事書付64ヶ条を定む。
12月
萩藩の禄高3000石以上の者に、5石馳走懸かり
12月26日
川曲村出火、21軒が焼失す。
是月、長沼玄珍が「徳山府記」を完成させる。
【徳山市史年表】
是年
小畑村に禅宗恵日山浄光寺を建立す。
開山は富田建咲院六世祖省和尚
【徳山市史年表】

1706年(寶永3丙戌年)
正月15日
庄屋・町年寄への節飯儀式が行われる。
御領内諸村の庄屋ならびに、徳山諸町の年寄や、目代を御客屋に招いて、御節飯下しおかれ候。
【山口県文書館研究紀要(25)】
2月12日
川島~長福間の修築補強工事が起工される。5月8日竣功。
3月16日
粟屋沖「万屋開作」石盛。
田丸町九段余り、畠四町五段三畝余り、築立人は万屋吉左衛門・松村宗俊・大工長太夫
4月5日
毛利元次が、江戸へ到着する。
4月26日
毛利吉廣公が、江戸を発つ。
5月
毛利元次が伊藤(東涯)長胤に命じて『徳山名勝』を刊行。
序は、京都の伊藤長胤(東涯)
5月25日
毛利吉廣が帰国す。
6月25日
徳山付近大風洪水。
倒家433軒、破難船28艘
7月か8月
御宗家の世嗣を長府・毛利右京大夫元倚と決する。
10月
長府・毛利右京大夫元倚が、毛利大膳大夫吉廣の嗣子となる。
12月5日
従四位下に昇進し、将軍・徳川綱吉から一字を賜る。
「従四位下・毛利侍従吉元」と改名す。
12月23日
民部大輔に任ぜられ「従四位下・毛利民部大輔吉元」と称す。

1707年(寶永4年)
4月5日
毛利吉廣公が、江戸へ到着する。
4月6日
上使の老中・大久保加賀守が桜田の上屋敷へ来邸する。
毛利元次公は、不快のため上使取り持ちに参加せず。
4月19日
毛利元次が、江戸を発つ。
徳山藩3代藩主・毛利元次から依頼を受けて、伊藤東涯が校訂加点本を刊行する。
5月10日
毛利吉廣公が、徳山毛利家の江戸上屋敷を訪問する。
元次公は外出中にて面会せず。
同日、返礼の使者を派遣す。
6月13日
伊藤源蔵(東涯)、伊東重蔵(梅宇)、林九兵衛義端らが、大阪立売堀にある徳山毛利家の屋敷を訪問し、梅宇が在郷のまま五人扶持を受ける許しが出た事に対する御礼言上のために、大坂蔵屋敷・留守居役の中嶋兵右衛門(馬廻・80石)と面会した。
長沼玄珍 別號・常庵 (徳山藩馬廻格医師・15人扶持)が、取り持ちを担当。
◆秋の頃
藩主・毛利吉廣夫人(小石君)が、将軍・徳川綱吉夫人(鷹司信子)を月見に招待する。
【小石君様御月見諸控 佐世主殿役中】
10月3日
毛利吉廣公が発病す。
10月4日
13時から14時頃に、東海道沖から南海道沖を震源域とする「宝永の大地震」が発生。
10月13日(11月6日)
毛利吉廣公が卒す。
10月15日
徳山藩から毛利吉廣公の病気見舞に使者・片岡番五郎が、陸道中10日限りとして15日に派遣された。
片岡番五郎は、早々と23日には着府していた。
「八日二時之時廻シ之由、東国路之内ニて遅々手形之前九時余有之、川水之故也、指引候へは七日五時ニ着、前代未聞早使也」と記述されている。
【山口県文書館研究紀要(24)】

参考書籍:
経済雑誌社 校 , 徳川実紀 第4編 , 経済雑誌社 , 明治37年~40
中田憲信・好古社 編 , 好古類纂 第十集 毛利家譜 , 好古社 , 明治33年~42年
黒板勝美 編 , 国史大系 第43巻 新訂増補 , 国史大系刊行会 , 昭和6年
○○○○ , 萩市史 第1巻 , 萩市 , 1983年6月
山県篤蔵 編 , 江家年譜:附・系図 , 出版者:山県篤蔵 , 出版年月日:19○○
萩藩閥閲録 , 山口県文書館 編 , 山口県文書館 , 1986年10月
萩市史 年表 , 萩市史編纂委員会 編 , 萩市 , 1989年3月
毛利十一代史 , 大田報助 編 , 大田報助 , 明治40年-43年
宇都宮遯庵 , 桂芳樹 著 , 岩国徴古館 , 1978年11月
兼崎茂樹 , 我家我藩の歴史 , 兼崎茂樹 , 大正4年
松原醒堂 , 享保秘聞徳山藩再興史 , 現代社 , 昭和11年
徳山市史編纂委員会 編 , 徳山市史史料 上 , 徳山市 , 1964年
山口県教育会 編 , 二州の礎 , 山口県教育会 , 昭和15年
山口県文書館 編 , 山口県文書館研究紀要(24) , 山口県文書館 , 1997年3月
吉田真夫 , 山口県地方史研究・第121号【1】 , 山口県地方史学会 , 2019年6月
吉田真夫 , 山口県地方史研究・第125号【2】 , 山口県地方史学会 , 2021年6月
金子憲之 , 防長の歴史研究 第2集【3】 , 徳山大学地歴研究会 , 1981年3月
小川國治 , 山口県地方史研究・第76号【5】 , 山口県地方史学会 , 1996年10月
三坂圭治 , 徳山市史 上 【6】 , 徳山市 , 1956年
西山昭仁・小松原琢 , 宝永地震における大坂での地震被害とその地理的要因 ,

【1】徳山藩断絶時における藩士の動向について , pp. 1-15.
【2】徳山藩断絶要因解明の一試論 , pp. 17-29.
【3】徳山藩の成立と宗支関係 , pp. 1-13.
【5】徳山藩改易と富海・牟礼両村の下草山紛争 , pp. 8-17.
【6】第四篇 近世の德山 , pp. 163-231.

参考書籍:
著者, 書名[, シリーズ名], 出版社[, 出版地], 発行年[, ページ]

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