知られざる鶴見の『沖縄芸能の歴史』古里友香さんにインタビュー!!【公式】
タジムロガールズです今日は神奈川大学の 常民文化ミュージアムに来ていますここで はなんと横浜鶴の沖縄芸能混じ物語の パネル店が開催されていますえ早速ですが 今日はこのパネルを制作されたふさゆか さんにお話を伺っていきたいと思います ふささんよろしくお願いします はいこんにちは よろしくお願いしますよろしくお願いし ますふささんは鶴見の沖縄芸能を研究し てらっしゃるっってことなんですけれども ご自身も三振をやられているんですよね はいえ私あの歌三振って言いまして沖縄の 民用を実は歌っておますはいえかこもう 20年ぐらいなりますはい三振を習い始め たきっかけていうのは何だったんですか はいもうあの皆さんと全く同じで私はもう 沖縄の生まれでもないですしま本当に沖縄 に行って旅行に行ってあちらで素晴らしい 芸能を見てああこんな素晴らしいのがある んだと思って帰ってきてすぐに探してうち の大城や子師匠のところに行ったんですね 私がやり始めた頃ってほとんどまだあの 少なかったんですね感想にでえっと探し ましてたまたま鶴見にいらっしゃった大子 先生のところに行ったんですけれどもあの その当時 あの登川関東部のえ会長もやってますし そしてえ鶴の人会の会長もしてたんですよ その歌三神だけじゃなくっていろんな文化 歴史を教えていただいてでちょっと周りを 見たら鶴には実はそれがたくさん残ってる んですねそれで興味を持ったっていうのが あの始まりではいうんじゃなんでこの研究 しよっていうところに行きついたんですか そうなんですよもう全く自分の予定人生に 予定なかったんですけどあそうなんですね あの本当にこれは中があってであの本当に 全部のあの芸能の舞台ですとかあと教室 すらもうあの閉鎖になってしまってどう しようと思って私は何ができるんだって 本当考えたんですねでその時にあ鶴には実 はとってもいろんな芸能があるのに誰も これを研究してる人もいないし残されてな いっていうところに気づいてでいやこれは なんとか私のようなあのま沖縄出でもない はいですしつみのあの生まれでもないん ですけどあの外の人間だからこそ分かる ことがきっとあるなと思ってそれで ちょっとあの始めたっていうことが きっかけでじゃあ早速その研究の成果 パネル店を紹介していただいてもよろしい ですか分かりましたでは行きます はいでは早速ですがパネルの説明をして いただきたいと思うんですがまずここは第
1章のブスなんですねはいそうですねあの 一応あの古い年代からずっと並べてるん ですけれどもまずは鶴見にはなぜこんなに 沖縄の方がいらっしゃるかっていう説明を してますでま戦前からま大正時代からが 多いんですけれどもまず移民政策であの来 られた方たちが横浜に集められてで行けた 人もいるけど行けなかった人もい るっていう歴史がありますねあとえっと皆 さんご存知のように景品工業地帯によって あのたくさん労働者が集まったっていうの もありますねはいでちょっとここが特徴的 なはい あのあまり知られてないとで言ますとあの 実は後戦争が終わった後にあの内容の方に いんあのたくさん沖縄の方が行っ てらっしゃったんですねあのパラオとかあ いうあの南の島ですよねあいたところから あ1回こう横浜に集められたんです直接 沖縄には帰れなかったんですよなので えっと横浜に集められてですぐに船が出る わけでもないですなんとか生きていか なきゃいけないっていう中ですにやっぱり こうあのね沖縄の方がいいらしうん み集まってきたんですねだから実は戦後 あの沖縄に帰れなかった人たがたくさん あそこにいらっしゃったていうのがまず あの芸能の歴史としてはとても大事なん ですねでえその中にえと引き上がり者の中 には芸能者もたくさんいたんですあの芝居 やってらっしゃった方とかはいでその人 たちがじゃあえっと自分たちあの何もね できないですしなんか然に稼がなきゃいけ ないじゃないですかそれで実は戦後まも なくはいあそこは全部横浜州で原になった ところでもあるんですがはいいち早く 芝居小屋が立てられてでもう連日のように あの毎日芝居が繰り広げられてたっていう ところでもあるんです本当だ驚くことは 住人のカオ債権よりも先に仮小屋ながらも 共同劇場が立てられたこそうこれは やっぱりすごくこの沖縄のあの芸能の特徴 ですよね生きていく上であの元気になる源 なのではいではあるんですけれどもわっと こう鼻開いたっていう時期でもあるんです ね今ねもう実は廃れてしまったんです けれども鶴みっていうのは沖縄芝居の中心 的な場所ででこの上原年尾さんっていう方 は芝居師でいろんな芝居の台本も全部頭に 入ってるしセリフも入ってるし王道区から 何から全部自分で作られるような方でで この方を頼って沖縄からの人そうですね来 たりですとかで一時期盛り上がって20年 代後半から3年代はいいう時期がありまし たで鶴の人たも実はこの芝居に参加して
えっと演じてます芝居のあのプロじゃない 人たちでも鶴見の普通のね人たちが芝居に 参加して上演してそういった中でおそらく 芸能っていうものがどちらかというと個人 で楽しんでたものがこの辺りぐらいから こうみんなでやってみんなで楽しんでで あのなんなら人に見せてっていうそういっ たところに変わっていったあの時期ですね あとすごい沖縄で言ったらすごい人たあの えっと大小太郎とかこうすごい座兄弟とか 沖縄の人知らない人がいないぐらいにそう いった有名な人たちもたくさん来てたん です実は一時期ですがバッとこう沖縄の 芸能が花開いたことによってたくさん実は 教室が増えたんですねちゃんと教室として の組織を作って団体を作ってえやっていこ うっていうだからここから継承の歴史が 始まるんです ね昭和のね20年代後半から30年代に かけていろんな先生たちがあの教室を持た れてでさらにあの芸能者が増えていくって いう時代になりますねツルミには実は女性 の武家たくさんいたんですね式狩猟さんと あのアレン本k士あのこのこの2人は とても容会の中ではもう重鎮の方なんです けれどもその2人があの鶴見とか川崎に いらっしゃったっていうことがあって不要 習われた女性がいっぱいいたんですねで その中でも上原子さんてあのさっきの上原 敏男さんの奥さんさですねはいこちらです そうですねあと小崎俊子さんもツルミの 芸能者が関東のいろんなところに派遣さ れるんじゃないですけどたくさんあの芸能 をやる方がいっぱいいらっしゃったって いうでは続いて第2章の説明をお願いし ますはいえ第2章はですね鶴見で 生まれ育った先生たちのお話ですねよく2 世って言われてるんですけれども沖縄の2 世の方ですねうんに生まれつるみ育ちなん でまず芸能を習得するために大変苦労され てるっていうところがあるんですね2世な んで言葉の問題がありますね内ですかそう ですねはいこの先生たちはあの沖縄の芸能 って全部内ぐで書かれてたりですとかが あるのでま言葉の面で色々苦労されたって いうことがお聞きしたんですけれどもあと 昭和の30年代40年代まだ実は沖縄が 日本に変換前なのではい あのあにくのにが必要なんですよ期だっ たらあの企画取れるんですけどこうやって 芸能の留学としてく場それはもうやっぱり 3ヶ月とか半年とか行きたいじゃないです かビザが降りないっていうことですごい 苦労されていろんな手段を使ってビザを 取ってであの沖縄に行って技を習得され
たっていうそういった苦労されてるのがま この長島先生もそうですし先生そうなん ですけも島先生は先生ですね琉球双極紅葉 会っていうあの実は関東支部を作った先生 なんですよそれまでそうことの世界って いうのはそういう組織がなくて関東には もう皆さんバラバラで会ってる状態だった のを初めてこういった団体として関東支部 っていうのを立ち上げたうんうんという 先生でもあるんですねあと川崎の系の研究 会でも長年あの会長されてましたしま色々 ねあの沖縄の芸能に貢献されてる先生で いらっしゃいますねでつ先生はあのうん 先生ですねあのこの先生もあの2回留学に 行ってるんですねあのやっぱりずっとそう ですねあの島袋光優先生っていうえ不要の 十の先生に習われてたんですけど島袋先生 がもう君来るの大変だからこっちのね関東 で習えた方がいいんじゃないっていうこと でそれで島袋先生にあのその時に習われて たあの志田ふさ子先生のところに行くこと になったということでで志田先生実はあの つい最近あれですね人間国本になられたん ですよね田先生のもう本当にもう1番弟子 的な感じでずっと関東で部をその後習われ たっていうことで はいまだまだ実は不用の先生ってたくさん いるんですけれども未の先生でえ今鶴見で はこの野原千鶴先生ですね野原千鶴先生は え式狩猟さんのえっと流れを組んでるえ部 の先生なんですけどもサを作るきっかけを 作ってくれたはいのはいねあの映画もね ありましたよねはいあましたなんでかね つみはいご自身も若い時に舞台女優とかを されてたので見せることとかあの演じる こととかっていうのが大好きっていうこと なんですけど東日本大震災の時ありました ねあの時にもういち早く現地に行って琉球 の不要とかで被災地を応援するための活動 をされたりですとかとてもねなんか あったかい方なんですよねエサの本当偉い 先生なのにもうご自身が自分でそう先生が ご自身であれです整理してるんですよね あの道路整理をしたりとかそういった先生 がいらっしゃるからこうあの横の繋がりも ねちゃんとこう剣の中にできるってい ところでね素晴らしい先生だなと思い ます1番ねこの中ではあのお若い先生なん ですけれどもこちらのYouTubeでも ちょっとね出られたと思うんですけども はい私リグを習いました皆さん覚えてます か上裕子先生は何を苦労されたかていうと お母様が鶴見で長年あのやってらっしゃっ たんですねあの教室そうですねでも ちょっと若くして亡くなられたんで継が
なきゃいけないっていう時にちょうど えっと京都にいらっしゃったのかな告げな いって最初はなってたらしいんですけれど もでもなんとかこのつみの地でお母さんが 残したっていうものを継ごうということで 京都から通われたりですとかあつみそう ですねやっぱりそうやって苦労されてても この血つるみでなんとかこうゲムを残した いっていう思いがやはり強い先生だなと 思いましてはいで生まれ育ったあの人たち が芸能を継いでいくっていうただやっぱり 沖縄で本場の芸能を見たいって思っても なかなかその時代の関係でに行くのが 難しかったりっていう苦労をたくさんされ てきたっていう皆さん本当にあのま1人 ずつインタビューをねしていったんです けれどももツルミの愛がすごいんですよ 自分の1人のあのなんですかね力でここ までできたわけじゃないこれは全部鶴の人 たちがいらっしゃったからこそ自分はこの 地で芸能できてるという風におっしゃって てみんな手伝い合ってるんですよねとても ね何かあったらね助け合ってはいそれで みんなで一緒にこう鶴で盛り上げてき たっていう人たちなので芸能に対する愛も すごいですよね情熱そう はいそしてさらにはいえこの時代からです ねココの芸能から鶴の芸能っていうことで 私はつけたんですけれどもまそれまでは 割とどちらかというとえと沖縄出者の人 たちが固まって自分たちの中でまあの 楽しんでた芸能だったんですけど昭和30 年代後半ぐらいからになってくるんです けども外に向けてつみの人たちが自分たち の芸能は素晴らしいものだということで外 に向け外っていうのはあの鶴の普通の人 たちです一般の沖縄にルーツがない人たに ねはいだからその地域の人たちとか外に 向けたあの自分たちの芸能をあの見せてい くっていう時代に入っていきますそんな うんで鶴のえっと健人会の中で芸能部って いうのができましてそれまではま古典だっ たら古典の芸能とか不要だったら不要とか コだったらコの教室がバラバラだったのが コできる人えっと不用できる人そうそう いろんなジャンルの人たちが集まって芸能 部を作ってるので芝居ができたりとか いろんなこう芸能事ができるようになって きたっていうことですねそれが発展しまし てその芸能部が元になって流線界っていう のが これはできたのが沖縄があの本土復帰昭和 47年1972年ですねそのありにできた んですねで復帰した翌年にもう1回目の 発表会が始まってます鶴見で立ち上げてる
んですねだからほとんどが全部鶴の芸能者 ですねはい10年間にわって活動してたん ですけれどもそんな中で5回あの発表会を やってますほとんどつみでやって東京で1 回やってアルゼンチンで1回やったんです けど何をやってたか言うといわゆるあの 普通の芸能の発表会じゃないんですね研究 成果なんですよでえっと研究会っていう 一応名目がありましてこの琉球芸能文化 研究会ですねていうのがありまして琉球 芸能は世界に誇る素晴らしい芸能だって いうことでじゃあえっとどういったもの かっていうのをいろんなことを形を使って 実験してそれを実践で見せていくっていう ことをやってたんですね内町の科学部の方 たと一緒にあの学部か内町学部あのはあの とかあいった人たと一緒に沖縄の古い歌三 の歌を一緒に合わせてコラボしてみたり ですとかひ山のすごい坊さんと一緒にはい えっと照明ですねバオで歌う歌うって言た です唱えるあの系じゃないです けど歌としてすごい素晴らしいんです けれども照明と昔の沖縄の古い一番古いと 言われてる178っていう古い方の歌を 一緒にやってみたりですとか実験的なこと ですねていうことをやっていたっていうの がこの流界の特徴です ね流線会の会長されてたのが平光夫先生 っていう炭水流をずっとあの鶴で継承はい 炭水流というのはあの沖縄の古典の楽曲 音楽の中でま1番古い方を残してると言わ れてまして今7局九州が残ってるだけなん ですねはいでそういったものをあの山内 製品でこの方も研究者なんですけど直接 こう受け継いでそして鶴見の地でずっと 継承してたっていうことなんですねきには あの水りのあの保存会と伝統保存会と2つ の会派があるんですけれどもまその人うち も炭水流伝統保存会を作ったのがまタイ みお先生計強先生と一緒に作ったんです けれども沖縄の芸能の中でも重要な役割を されたっていう方が鶴見にいらっしゃっ たっていうこと ですせっかくだったら自分たちのつるみの 芸能を海外に伝えようっていうことでで さっきのこの平先生は自分でアルゼンチン に行ってはい53年にまず1回行きます勝 は55年になって正式に勝平されてあちら から呼ばれてえ行ってます現地の方たちは メルマも美しいんで皆さんあの習ったそう なんですけれども踊りから神からたくさん 伝えられてで最後は発表会までされて沖縄 の芸能ををアルゼンチンの方に伝えたって ことなんですけどそれはまいわば鶴初の 芸能をあちらに持っていって
るっていうことなのでアルゼンチンとか その南米の方にあの教えに行ったのはそれ はその沖縄にルーツがある方たちに対して ですかあ現地の沖縄の移民の方ですよね はい沖縄から来た人たちだけじゃなくて もうその現地で生まれてきたそのね沖縄に 子がある方たことですよね 沖縄の民用を鶴見で継承するシステムを 作ったんですねおそらく皆さんあのこう いう世界ってコンクールをやるとかって 聞いたことございません沖縄本ではいあの 資格試験のそうですねはいはいはいでそう いったコンクールを本来だったら沖縄でさ れてると思うんですよねうちの師匠はその 関東でこのコンクールを開いて関東で継承 できるシステムっていうことを考えたん ですね一般の人たちが沖縄まででま費も かけて時間もかけてっていうのはなかなか 大変じゃないですか沖縄の民用なんて そもそも庶民のものでみんなが楽しむもの なのでどんな人でもあのこちでちゃんと 習ってで資格が取れるなんで鶴見の地で 沖縄の芸能をあのこう受け継げシステムっ ていうのを作ったのがあのうちの安先生 です ねその沖縄の金神会って実はすごい重要な 役割なんですよ芸能に関してはいえたりて んですね人会がやってる教はいあの鶴の人 会の中で芸能体験させることによって興味 を持ってくれた人たちがじゃそれぞれの 教室行ってみようかなっていうきっかけに なるっていう取り組みですね最初のあの きっかけとしてはすごくいいですよね最初 から続けられるかどうかわからないけど 民用教室買よっていうよりは体験でける場 があるとすごくいいなと思います無料で やってらっしゃったりそう小学とかに行っ て沖縄の文化とかを歴史を教えてるんです ねこういう交流があるから新しい世代あの 若い世代にもあの沖縄が受け入れられてき てそして芸能も広がっていくっていう ところでエサーの太鼓を地元の小学校に 偽造したりですとかこの子たちは別に普通 の地その鶴に育ったもう本当にあの地元 こていうそうですねでそういった子たちと のつなぎ役にもなってくれて芸能の世界に も入ってきてくれるっていうので はいれて はあはいそうですねもうこれ新しい時代で でエイサーをちょっと取り上げたのは理由 がありまして今までの流れは鶴で生まれ育 だったりですとか沖縄の由来がある人たち がやってる芸能なんですけどこのエーサー だけはちょっと成り立ちが違いまして元々 がこの苦70周年記念の行事がきっかけで
うんうん 先生とわって作ったんですけどまそこまで はよくあることでま皆さんそれで終わりだ と思ってたんですけどなるほど70周年の 記念でじゃやりましょうてなってそれで もうね終わりだと思ってたのがやってた人 たちがそのまま続けたいっていうことで じゃあそれならばていうことで人会の方も バックアップしたりですとか先生も 引き続きあのバうんしてずっとこの地で 育ってきたんですね私が素晴らしいなと 思う特徴的なことをちょっと話させて いただきたいんですけど道寿ですねそれを ずっと彼らはあのこの地でやってるんです ね関東でやってる沖縄のこのエサーって いうのは大体イベントでやったりですとか ま道中ねって名前がついててもどっちか いうとお祭り的な感じでやってるんです けど彼らは本当にこの地元の人たちのため にやってるんですよコロナ禍の時にあのサ あのされた時も一切宣伝でやってないん ですねま要はこの中でたくさんこう来 ちゃうとあの地元の人たちがあの来れなく なっちゃうからっていので時間は地元の人 のためにていうていうそういう思いがあっ てこの地域のためのエーサー団体だと思っ てるので大体こういうあの関東にある エサーっていうのは親があのあるんですよ ね沖縄に警が大体あるんですで軽風がある ことが実はあの素晴らしいとされてるん ですけれどもエサに関してはそれがあると 逆にこの地域ではだなんです地域の方たて いうのは結構沖縄の北部の出身者とか離島 の出身者が多いんですねだからどこかの エサを持ってきちゃったらあ私たちのエサ じゃないっていう感じで逆にいろんな地域 の人が住んでるからこそそどっかの1個の 持ってきちゃうと違うて彼らは考えてこの 目の映さをやりたいっていうことで自分 たちで全部遠目も考えてそうやってやり方 とはどちらかというと沖縄にあるあの青年 団のやり方に近いんですけど本当に地元の ためにやるで合間にいろんなところに出演 してるけど唯一自分たちの主催っていうの がこの道鶴で生まれた鶴芸能そうそうそう なんですよもとても面白い現象なのが エサーの団体なんですけれどもそれミクが ま歌ってるそのまさにその多様性をやって て南米ルーツの人もいるし中国とかそう いうルーツの方もいらっしゃるしいろんな 沖縄のルーツの方もちろんいらうん いろんな年代の人たがだからある意味社会 教育的な団体としてもああなるほど最初は 助けられて鶴の芸能者に助けられてやって た彼らが今となってはもう鶴の顔としてナ
芸能の顔としてま彼らが宣伝の役を担って るっていう感じでだからもう相場効果で みんながこうつるみていうところであの 発展していってるっていう例ではとても いい成功例うんだなと思いますです ねえこうして改めてお話を伺ってみると 本当にたくさんの方が情熱を持って鶴見に 沖縄芸能の歴史を作ってきてくれたんだな と思いましたまた沖縄芸能として発展して きましたけれどもこれからはつるみの芸能 として独特な文化が作られていくんじゃ ないかなと思いましたどうですかふささん これからどんな研究を続けていきたいとか ありますかはいそうですね実はこれ紹介し たのって本当にあの表面的なものでそれを さらにそれぞれ深くはいもっとふりして ぶりしていきたいのとあとまだね全然あの 研究で調査できてないあの教室もたくさん あるんですねで先生方もたくさん いらっしゃるんでその方たちにも引き続き インタビューをして研究を進めていきたい なと思うんですけどもしよろしければあの 鶴見の芸能を知ってらっしゃる方がいたら お気軽にあの故郷までご連絡いただければ すぐ取材に行きます自分たちにとっては 当たり前なことでもこれ残したらすごいん じゃないかっていうことがあったらぜひ ふささんにそうですねあとシをですね貴重 な写真ですとか動画とかそういったものが あればちょっと見せていただければとても あの役に立つのでぜひぜひよろしくお願い しますはいまだまだつるみにはたくさん 紹介したい芸能もありますのでそちらも YouTubeでぜひ取り上げていきたい と思いますでは行きますよつるみでチーム ドンドン [音楽] あ
今回は、、、
神奈川大学の常民文化ミュージアムで開催されている、
横浜鶴見の「今昔物語」のパネル展へ!!
パネルを製作された古里友香さんに、沢山お話を伺いました。
鶴見には、まだ知られていない沖縄芸能の歴史が!!
是非お楽しみください!!!
【撮影協力】
●神奈川大学常民文化ミュージアム HP
(神奈川大学常民文化研究所)
http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/exhibition/tenji.html
☆横浜鶴見の沖縄芸能「今昔物語」☆
→2024年1月31日(水)まで開催!!!
神奈川大学 横浜キャンパス(白楽)
常民文化ミュージアム(3号館1階)の企画展示室
開室時間:月~土曜日
(ただし土曜日は授業期間のみ)
10:00~17:00
閉室日:日曜日、祝日(授業日を除く)、
大学所定の休日、授業期間外の土曜日
●古里友香さんSNS
〈Facebook〉
https://www.facebook.com/sanshin.iriya
【YouTube参照動画URL】
沖縄の琉球舞踊体験でちむどんどん♪ちむどんGirlsが琉舞を発表‼練習の成果は⁉ #7 【公式】
【参照URL】
●琉球民謡登川流関東支部 HP
https://noborikawa-kanto.jimdofree.com
●鶴見沖縄県人会HP
●鶴見エイサー潮風HP
http://usukaji.hipeak-i.com
●沖縄企画ユンタクヤHP
https://www.yuntakuya.okinawa/2024/01/tsurumi-okinawageinou
ご視聴ありがとうございます!
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チャンネル登録者様も1000人を超えました🎉
より一層鶴見を盛り上げて参りますので、どうぞよろしくお願いいたします。
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沖縄出身のあだにやと
沖縄をあまり知らない岩上が鶴見の沖縄を求めて駆け回ります!
歴史を掘り下げたり、食レポ、時には体を張って体験にもチャレンジ!
鶴見から沖縄の情報をマジメにゆるりと、面白く、真剣に伝えるちむどんどんするようなエンタメチャンネル‼
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鶴見に所縁があり鶴見を舞台にした映画「だからよ~鶴見」に主演をし俳優としても活躍中‼
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ーー「ちむどんどん」横浜鶴見プロジェクト実行委員会ーー
沖縄が本土復帰 50 年を迎える 2022 年。連続テレビ小説 第 106 作「ちむどんどん」では、沖縄に生まれ育ったヒロインと兄妹たち家族が描かれます。沖縄四兄妹の 50 年の歩みを見つめる、笑って泣ける朗らかな、美しい家族とふるさとの物語である本作において、沖縄にルーツをもつ人々と共に成長するまち横浜市鶴見区が舞台の一つとなりました。
そこで、放送開始にさきがけ2021年 12 月1日、横浜・鶴見沖縄県人会、商店街、自治会、大学、NPO 法人、企業及び鶴見区役所が連携して、「ちむどんどん」横浜鶴見プロジェクト実行委員会を結成しました。
今後は鶴見区の地域活性化を目的として、官民学で連携しながら、皆さまが「ちむどんどん」するような事業を企画・実施していきます。
乞うご期待ください
ーーロゴマークに込めた理念 想いーー
「ちむどんどん」は沖縄の方言で
ちむ(肝=気持ち・心)が高鳴る様子を表す言葉です。
横浜鶴見に来ると、胸が高鳴る、わくわくする、ドキドキする、そのような想いを「ちむどんどんするまち 横浜鶴見」という言葉で表現しました。
多様な国籍の方が住み、様々な文化が共存する「多文化共生の最先端を走り続けるまち、鶴見」をカラフルな虹色を全体に使用することで、表現しました。
沖縄文化を表すものとして、上部に「ち(i) むど (o) んどん」の口の形をしたシーサー、下部にエイサーの太鼓を使用しています。
円の周りには南米文化を表すマラカスとサンバの飾り、JR鶴見線、大本山總持寺、鶴見つばさ橋、京浜臨海部を表す工場、鶴見区のマスコットキャラクター「ワッくん」を用いて表した銭湯を配置し、鶴見らしさをイラストによって表現しました。
【企画・制作/株式会社リバーストーン】
◆関連動画◆
・鶴見でちむどんどんプロジェクト始まりました!重大会議に突撃‼#0【公式】
・横浜鶴見沖縄県人会でちむどんどん‼貴重なお話聞いてきました!#1【公式】
・【横浜市鶴見区公式ブランディングムービー】TSURUMIチャンプルー ~ちむどんどんするまち横浜鶴見~
・「ちむどんどん」横浜鶴見プロジェクト公式アンバサダー就任記者会見でちむどんどん‼#2 後編【公式】
#鶴見 #沖縄 #ちむどんどん

1件のコメント
鶴見大好きさんだー!😊よく知ってます!😬