捨てない生き方 がなぜいま 支持されるのか 前編 五木寛之    ・・記憶と記録

伊弘之インタビュー前編捨てない行き方が なぜ今指示されるのか伊弘幸さんがコロナ ウズの真ただ中の2022年1月に上司し た捨てない生き方マガジンハウス新書が 発売からわずか数ヶ月で10万部を超える ベストセラーになっている不要不及を知り 退けソーシャルディスタンスを保つことを 胸とする今の社会においてなぜ捨てない 生き方が指示されているのだろうか今年の 9月30日で90歳になるという伊さんに 対面しお話を伺った伊之目次現代は廃棄を しない新しい資本主義に向かおうとして いる落ちた場所に根を張るでらし難民とし ての強くたましい生き方大学には捨てられ たけれども自分から捨てたという面もある 仕事を捨てないそれも僕にとっての捨て ない生き方小説は天1本で自分の好きな ように表現できる手段だった流行作家と 言われた僕がなぜ2度の救出をしたのか 全てを捨てながらも庶民を捨てずに救おう とした思想現代は廃棄をしない 新しい資本主義に向かおうとしている最新 著書の捨てない生き方が多くの指示を得て いますどんなきっかけがあって書かれたの ですかいおそらくはコロナの影響でしょう がいわゆる男車離れ最低限のものしか持た ずにシンプルに生きていくという考え方が 世の中に広がっているように思います しかし本当にそれでいいんだろうか捨て ない生き方も悪くないのではないかそう 疑問に感じたのが大きなきっかけですその 疑問の背景には今年の秋で90歳になろう としているが考えているいくつかの出来事 があります2021年6月の読売新聞に ジョルジオアルマーニのインタビューが 掲載されていました彼は今回のコロナウズ についてあらゆるもののスピードを落とし 配置転換になる機会になると述べて今後 ファッション会は移り変わる流行に翻弄さ れるのではなくいつでも切ることができて 長持ちをするものを作る持続可能な道へ 進むべきだと語っていまし たつまり物を大量に生産して大量に消費し 大量に破棄していくシステムから出して 廃棄をしない新しい資本主義を構築して いかなければならないということそういう ことをファッション業界までが意識せざる を得ない時代に差しかかったということ ですねそれからもう1つ捨てない生き方の 背景にあるのはデラシネという僕が20 世紀後半の人間の象徴的な運命として考え ている生き方があります落ちた場所に根を 張るデラシネ難民としての強くたましい 生き方デラシネとはフランス語で恐竜者と かねし草と訳されている言葉だそうですね

いそういう否定的な意味で捉えられること もあるけれど僕はこの言葉を文字通りの 難民という意味で捉えています難民 すなわち強制的にあるいは仕方なしに自分 たちのねいた場所から引き離された人と いう意味です日本が敗戦した時父の不妊知 であるぴょんやんぴょんヤンにいた僕たち はその地を脱出し夜の暗闇をひたすら歩き 続けて38度線を超えましたそんな奇跡の ような脱出をして会場結村の先の米軍の 難民キャンプに逃げ延びましたその後福岡 に引き上げましたが先崎の学校では 幼馴染みに囲まれたグループが多くそうし た中にエトランジェ法人として入っていく 必要に迫られましたただし評論家の林達夫 さんがある本の中でこう書いていました 最初からその地に生まれ育った植物より他 の地から移植された植物の方が強いこれを 読んで僕は共感しました中国にはオ婚楽地 婚という言葉がありますいつまでも防の念 にられて嘆くのではなく落ちたところに根 を下ろしなさいという意味で世界のたくさ の国でチャイナタウンを気づいてきた彼ら のましさを感じる言葉でもあります幼少期 から少年期にかけての経験はそんな感じ方 考え方を僕にもたらしてくれたように思い ます取材旅行や公園で地方に行ったりする 時駅前ホテルの狭くてひどい部屋を当て がわれることがあります一瞬なんでこんな 部屋で一夜を過ごさねばならないんだと むっとするけどすぐにあの頃のことがノり に蘇るの です米軍難民キャンプに逃れた後も僕らは 厳しい時を過ごしました寝るにしても他人 のの体と重なり合って膝も伸ばせずに眠る 毎日だったのですそれから比べたらどんな 部屋だって天国みたいに見えてくる小さな テレビもあるし冷蔵庫なんかもある手を 伸ばせば何にでも届くしベッドは清潔なシ で覆われているトイレもシャワーもついて いるなんて快適なんだと瞬時にしてあの頃 の感覚に戻れるそれが何によりも ありがたいえがい財産だと思うのです大学 には捨てられたけれども自分から捨てたと いう面もあるしかしデラシネとして生きる にはむしろ男車離れをして身軽でいた方が 楽に生きられるのではないですかいつそう 言われてみれば確かにそうかもしれません 実際のところ僕は自宅に書斎と呼べるよう なスペースを設けたことがなくリビングの テーブルや喫茶店で原稿を買いたり旅先で は移動中の新幹線や飛行機の座席ホテルで も現行を書きます今風に言えばノマド ワーカーですねところが実情はと言うと家 の中はガラクタだらけなんです今回の本で

はシューキーパーやペルシャのぱ昔はこう 書いてカルタと読みましたなど使う当ても ないのに捨てられずにいるガラクタを写真 付きで紹介していますがその中の一部を ここでもご覧いただきましょうこれは最近 作ったミージックCDボックスなんですが 教師のプロフィール写真で着ている ジャケットとセーターは漂着ているのと 同じものなんです42年前のものですね それから腕時計は1965年生のオメガの コンステレーションですが直木賞の時の 商品ですグフには伊弘幸君という掘り込み がしてあります 何度か修理に出しながらもう55年以上も 愛用しているのですこういうことを言うと いさんは物持ちがいいですねとよく言われ ますが長持ちさせようと意識しているわけ ではありませんただ捨てないでいるそれ だけのことですそもそも難民というものは 自ら捨てるのではなく国に捨てられた立場 の人間ですだから捨てるどころか拾うもの はないかと当たりをキョロキョロと見回し てそばに溜め込む修があるのかもしれませ ん出しだからこそ捨てない日常が肌に 馴染むのですねい九州から上京して大学に 入った当初は泊まる部屋もありませんので 神社の床下に寝ていました今でいう ホームレスですねおまけにその大学も授業 料が払えなくなって卒業できませんでした ただしこれは大学に捨てられたというより 自分から捨てたという面もあります大学の 事務局に休学を申し込みに行ったらこれ までの身の金を払わなければ休学も中退も できませんと言われて席願いの書類を出し て大学にいた事実を自ら抹消したのです から以来僕は人から学歴を聞かれたり プロフィールを書いたりする時早稲田大学 末席と書いてきましたその数十年後とある パーティーで早稲田大学の早朝をしている 方に出会って今からでも身のを納めて くれれば中体扱いにしますからと言われて それを払い中体証明書なるものをいだき ました大学の中途大学というのは一種の 公的資格なんですね僕はそこでようやく 早稲田大学中隊を名乗る資格を得ることが できたわけですが末席出いたままの方が 良かったのかなとも思いました仕事を捨て ないそれも僕にとっての捨てない生き方 大学を末席現在は中退した後いさんは ラジオの番組を作る仕事を始めたんですよ ねいそうですある小さな広告代理店に就職 したんですがちょうどラジオ関東GEN RFラジオ日本が解したばかりの頃で 番組作りの仕事を担当するようになりまし たその後PBSやNHKなどの放送局で

放送作家の道を歩むことになります作家と して小説を書くようになってもラジオの 仕事はやめませんでしたTBSの伊弘行の 夜は自作自演の夜の番組でしたが25年 続けました途中からNHKラジオ深夜便が 始まって今も夜のトクを続けています作家 生活は55年ですがラジオは65年になり ます作家になる前にはクラウンレコードの 専属作者をやっていた時代もありますが 作手は今も続けていますここ数年間でも ミッツマングローブさんの東京タワー平山 きさんの愛の太陽その他何局か歌を書いて ます日韓現代というちょっと過激な夕刊 新聞には流され行く日々という雑文を同士 の相関以来46年間毎日書き続けています 連載発展会の世界最長コラムとしてギネス 認定されたのは20年近く前のことで今も 続けています要するに仕事を捨てないそれ が僕にとっての捨てない生き方の一面だと 言えるでしょう小説は天1本で自分の好き なように表現できる手段だった放送作家 業界士編集者イベントの企画者作詞家など 様々な仕事を経ていさんは34歳の時に 処女作サラバモスクワグレタで第6回小説 現代新人賞を受賞し作家デビューを果たし ます小説を書くということはいさんにとっ てどんな意味があったのでしょういそれ 以前から僕は仕事が好きでやめずに続けて きましたがどの仕事も共同作業の一画を 担うもので時にはスポンサーの意行だっ たり予算やその時の状況に左右されるもの でしたこれは世の中の仕事の大半に言える ことでしょうでも小説は違います自分が 好きなように最初から最後の1行まで自分 1人でコントロールしてものを表現する ことができるとはいえ望みは低くて一生の うち1冊か2冊慈悲出版でもいいからよに 出せたらおじだと思っていましたですから 新人省を受賞して作家デビューできたのは 僕にとって偶然のような出来事です40歳 の時ちょっと一休みするつもりで2年ほど 救出しましたがこの時小説現代の初代編長 の美翔さんからこう言われました伊さんは 流行作家なんだから2年も救出したら戻っ たとしても椅子はないよとその時はもう 1度新人省に応募し直しますと言って害を 通したことを思い出します流行作家と言わ れた僕がなぜ2度の救出をしたのか48歳 の時には有国大学で仏教師を学ぶために 2度目の救出をしていますねこの救出はい さんにとって大きな意味を持つものだった のではないですかいそうですね僕は大学を 横に出たためちゃんとした学問をしたこと がありませんでしたのでいつか大学に通っ て1つのテーマを徹底的に研究したいと

思っていまし た単に学歴が欲しいということではなくて この時は是非とも研究したいと思うテーマ があったのですそのきっかけを得たのが 作家デビューを前後して30代半ば4から 5年ほど石川県の金沢で暮らしていた時の ことです金沢はよく金100万国の城下町 と言われますが元々の金沢を作ったのは 前田家ではありませんこの地は金沢み堂と いう大きな寺を抱える地内長でした そもそもは上土新州の中高の外と言われる 蓮女が越前吉崎に混流した吉崎5号に 始まっていらい100年にわって100勝 の持ちたる国領主のいない国と言われる 体制を実現してきたのですその精神的支柱 となったのが法念や診断たちの上土思想 ですこれをしっかりと学びたいという思い で大学に通うことにしたのです本年や信男 の思想のどんなところに興味を引かれたの でしょうい平安時代の中頃から鎌倉時代に かけて今よ今という今でいう火曜局のよう な流行歌があって白川条の命で変された 良人秘良人秘書として現代に残されてい ます例えば当時の歌にはこんなものがあり ます墓この世をすむと見山稼ぐと接しほど にずの仏に疎まれてご昭和がをいかにせ 見山稼ぐとは海で両をし川に網を引き山に 獣を大庶民の営のことそう庶民が生きて いくには接をしなければならないのですだ があって一生懸命に生きようとすればする ほど接しを禁じているヨの仏や神様に嫌わ れて死後五省は地獄に生まれるしかないと いう哀切な嘆きが込められていますその 一方でこんな歌もあります身の近いぞの 模式悪語逆の人なれど一度魚名を唱ふれば 来合因説来合陰獣歌が恥ず地獄行き間違い なしの悪業にて収めたものでもあ如来の 魚名を唱えれば南あ仏の念仏を唱えれば 臨時の時にあ如来がやってきて極楽上土に を迎してくれる内合因説という意味ですね 前のは絶望の歌後のは換気の歌と言っても いいでしょう中国大陸から朝鮮半島を経て 奈良時代の日本に伝わった仏教は本来当時 の大和帝がちご国家を建設するためによに 広まりまし たつまり仏法を持って国を沈め守るための 教えだったのです従って僧侶のように修行 を積むことなく平安貴族のように立派な ガラを寺に進して特を積むことのできない 庶民は救われない存在として捨ておかれて いましたそんな庶民にけたのが年や診断 たちでした全てを捨てながらも庶民を捨て ずに救おうとした思想年及び診断の登場は 日本仏教師の中で革命的な出来事だったの でしょうねいその通りですそのために年と

診断は捨てることを出発点としました何を 捨てたのかと言えば地位とか教養知識の ようなものです2人は当時仏教の最高学府 である山で学ぶエリート層でしたがやがて 国から感想に任命される栄光の道を捨てて 冷山を折り1回のし層に身を落として庶民 の住むところへ移住しましたそして比山に 行かなければ得られないような教養知識を 捨てて何も知らない赤子のように念仏を 唱えると呼びかけたのです南仏この名語を 1つだけでいいこれで全ての人は救われる とその反面年信男の上土思想は摂取者摂取 者の仏教とも言われますつまり捨てない 家族ですね山を降りた年が巷に開いた道場 で庶民たちの質問に答えた1445か縄文 道という書があります例えばニラやネギ ニンニクや肉を食べた口で人物を唱えても 極楽へ行けるのでしょうかという質問に 本年は念仏は何事にも差し障りありません と問えていますそれから月の触り月 Discoverがある時今日を読むのは いかがでしょうかという問いにはそれが 極楽王城の障害になるとは思えませんと 答えています古代インドで生まれた仏教に は当時の女性差別思想の影響が混じってい て女性は1度死んで男性に生まれ変わら ないと王場できないと説明されることが ありました忘年はこれを否定して念仏に よって全ての女性も救われると解いたの ですそしてもちろん高年診断たちの多くの ものを捨ててさらに多くの庶民を捨てずに 救おうとする思想は現代のよう生きてきた 僕にも大きな影響を与えました興味深いお 話ありがとうございます後編の インタビューではいさんが趣味として 楽しんでいるという幼女についておいとの 付き合い方などについて伺っていきたいと 思います 後編記事はこちら伊弘之インタビュー後編 病気は直すのではなくて納めるもの伊弘之 の最新ベストセラー捨てない生き方好評 発売中伊博幸長捨てない生き方物が捨て られないそれもまたいいではないか著者 自身の捨てない生活から仏教の捨てる思想 捨てない思想をこの国が捨ててきたもの までを語り物を捨てることがブームとなっ ている現代社会に一国を投じます人生の高 反省は物に宿った記憶と共に生きる黄金の 時代なのです育者たちとどう暮らしていく かシンプルライフに潜む空虚さもは記憶を 呼び覚ます装置であるガラクタは孤独な 私たちのとも生息と置いていく人付き合い は浅くそして長く年と診断が捨てようとし たもの過去を振り返ってこそ文明は成熟 する

五木寛之 捨てない生き方 がなぜいま 支持されるのか 前編
五木寛之インタビュー【前編】
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「捨てない生き方」がなぜいま、支持されるのか?
 
五木寛之さんがコロナ渦のまっただ中の2022年1月に上梓した『捨てない生き方』(マガジンハウス新書)が発売からわずか数カ月で10万部を超えるベストセラーになっている 
「不要不急」を退け、「ソーシャル・ディスタンス」を保つことを旨とするいまの社会において、なぜ「捨てない生き方」が支持されているのだろうか? 
今年の9月30日で90歳になるという五木さんに対面し、お話をうかがった 

五木寛之
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目次―
 
現代は「廃棄」をしない 新しい資本主義に向かおうとしている

落ちた場所に根を張る 「デラシネ(難民)」としての 強くたくましい生き方
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大学には「捨てられた」けれども、 自分から「捨てた」という面もある
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仕事を捨てない──  それもぼくにとっての「捨てない生き方」 
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小説は、ペン一本で自分の 好きなように表現できる手段だった
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「流行作家」といわれたぼくが なぜ2度の休筆をしたのか?
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すべてを「捨て」ながらも、 庶民を「捨てず」に救おうとした思想
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現代は「廃棄」をしない
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新しい資本主義に向かおうとしている
― 
最新著書の『捨てない生き方』が多くの支持を得ています どんなきっかけがあって書かれたのですか?
 
五木
おそらくはコロナの影響でしょうが、いわゆる「断捨離」、最低限のモノしか持たずにシンプルに生きていくという考え方が世の中に広がっているように思います 

しかし、本当にそれでいいんだろうか? 「捨てない生き方」も悪くないのではないか?そう疑問に感じたのが、大きなきっかけです 

その疑問の背景には、今年の秋で90歳になろうとしているぼくが考えている、いくつかの出来事があります 

2021年6月の読売新聞に、ジョルジオ・アルマーニ氏のインタビューが掲載されていました 彼は今回のコロナ渦について、「あらゆるもののスピードを落とし、配置転換になる機会になる」と述べて、今後、ファッション界は移り変わる流行に翻弄されるのではなく、いつでも着ることができて長持ちをするものをつくる持続可能な道へ進むべきだと語っていました 

つまり、モノを大量に生産して、大量に消費し、大量に破棄していくシステムから脱して、「廃棄」をしない、新しい資本主義を構築していかなければならないということ そういうことを、ファッション業界までが意識せざるを得ない時代に差しかかったということですね 

それからもうひとつ、「捨てない生き方」の背景にあるのは、「デラシネ」という、ぼくが20世紀後半の人間の象徴的な運命として考えている生き方があります 

落ちた場所に根を張る― 
「デラシネ(難民)」としての― 
強くたくましい生き方― 

「デラシネ」とは、フランス語で「漂流者」とか、「根なし草」と訳されている言葉だそうですね?

五木、
そういう否定的な意味でとらえられることもあるけれど、ぼくはこの言葉を文字通りの「難民」という意味でとらえています 

「難民」、すなわち、強制的に、あるいは仕方なしに、自分たちの根づいた場所から引き離された人という意味です 

日本が敗戦したとき、父の赴任地である平壌(ピョンヤン)にいたぼくたちはその地を脱出し、夜の暗闇をひたすら歩き続けて三十八度線を越えました そんな奇跡のような脱出をして、開城(ケソン)の先の米軍の難民キャンプに逃げのびました 

その後、福岡に引き揚げましたが、行く先々の学校では、幼なじみに囲まれたグループが多く、そうした中に「エトランジェ=異邦人」として入っていく必要に迫られました 

ただし、評論家の林達夫さんがある本の中で、こう書いていました 
「最初からその地に生まれ育った植物より、他の地から移植された植物のほうがつよい」 
これを読んで、ぼくは共感しました 

中国には、「落地生根(らくちせいこん)」という言葉があります いつまでも望郷の念にかられて嘆くのではなく、落ちたところに根をおろしなさいという意味で、世界のたくさんの国でチャイナタウンを築いてきた彼らのたくましさを感じる言葉でもあります 

幼少期から少年期にかけての経験は、そんな感じ方、考え方をぼくにもたらしてくれたように思います 

取材旅行や講演で地方に行ったりするとき、駅前ホテルの狭くてひどい部屋をあてがわれることがあります 一瞬、なんでこんな部屋で一夜を過ごさねばならないんだとムッとするけど、すぐに「あのころ」のことが脳裏によみがえるのです 

米軍難民キャンプに逃れたあとも、ぼくらは厳しい時を過ごしました 寝るにしても他人の体と重なり合って、膝も伸ばせずに眠る毎日だったのです 
それから比べたら、どんな部屋だって天国みたいに見えてくる 小さなテレビもあるし、冷蔵庫なんかもある 手を伸ばせば何にでも届くし、ベッドは清潔なシーツで覆われている トイレもシャワーもついている なんて快適なんだと、瞬時にして「あのころ」の感覚に戻れる それが何によりもありがたい 得がたい財産だと思うのです 

大学には「捨てられた」けれども、
自分から「捨てた」という面もある、
しかし、「デラシネ」として生きるには、むしろ「断捨離」をして身軽でいたほうがラクに生きられるのではないですか? 

五木、
そういわれてみれば、確かにそうかもしれません 
実際のところ、ぼくは自宅に書斎と呼べるようなスペースを設けたことがなく、リビングのテーブルや喫茶店で原稿を書いたり、旅先では移動中の新幹線や飛行機の座席、ホテルでも原稿を書きます 今風にいえば、ノマドワーカーですね 

ところが実状はというと、家の中はガラクタだらけなんです 今回の本では、シューキーパーやペルシャの骨牌(昔はこう書いて「カルタ」と読みました)など、使う当てもないのに捨てられずにいるガラクタを写真つきで紹介していますが、その中の一部をここでもご覧いただきましょう 

これは、最近作ったミュージックCDボックスなんですが、表紙のプロフィール写真で着ているジャケットとセーターは、今日着ているのと同じものなんです 42年前のものですね 
それから、腕時計は1965年製のオメガのコンステレーションですが、直木賞のときの賞品です 裏蓋には「五木寛之君」という彫り込みがしてあります 何度か修理に出しながら、もう55年以上も愛用しているのです 

こういうことをいうと、「五木さんは物持ちがいいですね」とよくいわれますが、長持ちさせようと意識しているわけではありません ただ、「捨てない」でいる それだけのことです 

そもそも「難民」という者は、自ら捨てるのではなく、国に捨てられた立場の人間です だから、「捨てる」どころか、「拾う」ものはないかと、あたりをキョロキョロと見回して、そばに溜め込む習性があるのかもしれません 

「デラシネ」だからこそ、「捨てない」日常が肌になじむのですね 

五木、
九州から上京して、大学に入った当初は、泊まる部屋もありませんので、神社の床下に寝ていました いまでいうホームレスですね 

おまけにその大学も、授業料が払えなくなって卒業できませんでした ただしこれは、大学に「捨てられた」というより、自分から「捨てた」という面もあります 
大学の事務局に休学を申し込みに行ったら、「これまでの未納金を払わなければ、休学も中退もできません」といわれて、「抹籍願い」の書類を提出して、大学にいた事実を自ら抹消したのですから 

以来、ぼくは人から学歴を聞かれたり、プロフィールを書いたりするとき、「早稲田大学抹籍」と書いてきました その数十年後、とあるパーティで早稲田大学の総長をしている方に出会って、「いまからでも未納金を納めてくれれば中退扱いにしますから」といわれてそれを払い、「中退証明書」なるものをいただきました 

大学の中途退学というのは、一種の公的資格なんですね ぼくはそこでようやく「早稲田大学中退」を名乗る資格を得ることができたわけですが、「抹籍」でいたままの方がよかったのかなとも思いました 

仕事を捨てない── 
それもぼくにとっての「捨てない生き方」 
大学を抹籍(現在は中退)したあと、五木さんはラジオの番組をつくる仕事を始めたんですよね?

五木、
そうです ある小さな広告代理店に就職したんですが、ちょうどラジオ関東(現・アールエフ・ラジオ日本)が開局したばかりのころで、番組づくりの仕事を担当するようになりました その後、TBSやNHKなどの放送局で放送作家の道を歩むことになります 

作家として小説を書くようになっても、ラジオの仕事は辞めませんでした TBSの『五木寛之の夜』は、自作自演の夜の番組でしたが、25年続けました 
途中からNHK『ラジオ深夜便』が始まって、いまも夜のトークを続けています 作家生活は55年ですが、ラジオは65年になります 

作家になる前にはクラウンレコードの専属作詞者をやっていた時代もありますが、作詞はいまも続けています ここ数年間でも、ミッツ・マングローブさんの『東京タワー』、平山みきさんの『愛の太陽』、そのほか何曲か歌を書いてます 

『日刊ゲンダイ』というちょっと過激な夕刊新聞には「流されゆく日々」という雑文を同紙の創刊以来46年間、毎日書き続けています 
「連載8000回の世界最長コラム」としてギネス認定されたのは20年近く前のことで、いまも続けています 

要するに、仕事を捨てない、それがぼくにとっての「捨てない生き方」の一面だといえるでしょう 

小説は、ペン一本で自分の、
好きなように表現できる手段だった 

放送作家、業界誌編集者、イベントの企画者、作詞家など、さまざまな仕事を経て、五木さんは34歳のときに処女作『さらばモスクワ愚連隊』で第6回小説現代新人賞を受賞し、作家デビューを果たします 

小説を書くということは五木さんにとって、どんな意味があったのでしょう? 

五木、
それ以前からぼくは仕事が好きで、辞めずに続けてきましたが、どの仕事も共同作業の一角を担うもので、ときにはスポンサーの意向だったり、予算やそのときの状況に左右されるものでした これは、世の中の仕事の大半にいえることでしょう 

でも、小説は違います 自分が好きなように最初から最後の一行まで自分ひとりでコントロールしてものを表現することができる 

とはいえ、望みは低くて、一生のうち1冊か2冊、自費出版でもいいから世に出せたら御の字だと思っていました 

ですから、新人賞を受賞して作家デビューできたのは、ぼくにとって偶然のような出来事です 

40歳のとき、ちょっとひと休みするつもりで2年ほど休筆しましたが、このとき、小説現代の初代編集長の三木章さんからこういわれました 
「五木さんは流行作家なんだから、2年も休筆したら、戻ったとしても椅子はないよ」と 

「そのときはもう一度、新人賞に応募しなおします」といって我意を通したことを思い出します 

「流行作家」といわれたぼくが、
なぜ2度の休筆をしたのか? 

記憶と記録

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