先人学習講座「孤高の植物学者 三好学」 2023年10月14日

[音楽] 定国となりましたのでこれよりエ三岳塾 天人学習講座を開催します私は本日の司会 を務めさせていただく障害学習官の藤川と 申しますよろしくお願いいたします本日は 江山岳塾新人学習講座にご参加いただき ありがとうございますこの講座は江山岳の 町推進計画に基づきさの先人を知りそのを 学び歴史を生かした地域の街づくり推進を 図ることを目的として開催しています岐阜 県では来年の10月11月に青流の国岐阜 文化祭2024を統一名称として国民文化 祭全国障害者芸術文化祭が開催されます江 な市でも特色をいかした文化事業を計画し ており本日の先人学習講座も青国岐阜文化 祭2024関連事業として開催し ますそれではえ経度の新人佐藤一歳先生の 山岳の精神を理念として平成23年4月1 日に制定されました障害学習都市山岳の町 エ宣言をご昭和願いますお手元のこちらの 資料をですねご覧いただきながらえ皆様ご 一にお願いいたします 生涯学習都市山岳の町江 言地を彩る里山清水の流れ豊かな時を つまこの町にきて書を読み人に学び歴史と 文化自然に学び学び続ける喜びを広げ希望 はれるを作る私たちはこの町を子供から音 まで共に 合う山岳の街とすることを宣言し ますありがとうございまし た本日の先人学習講座のタイトルは校の 植物学者島ですそれでは講師をご紹介 いたします本日の講師は三宅勝さんですえ 三宅さんは東東の在住で長年に渡り東南 地区を中心として小中学校の教員をされ 平成26年3月31日江市江市立吉田小 学校が明地小学校に統合される際に校長職 を最後に退職されました退職後は市内学校 で初任者指導を1年中央図書館 にて強度学習指導員を2年得た後江市教育 委員会の学校教育化同じく教育総務科で 勤務され現在は障害学習家で勤務されて おります三宅さんはふさ学習読本三島の 必死やえ後方江なの小先生の故郷情報でも 三島博士職器を連載され島先生の料や足跡 などを調査研究されております本日の講座 ではNHK朝の連続テレビ小説爛漫の主人 公の牧野富太郎さんとの関連などもお話し いただけると思いますそれでは三宅さん よろしくお願いいたし ますはい皆さんおはようございます おはようございますえ今日は本当にあの ごしな講談に切れてましたありがとう ございますあのまめっきり寒くなりまして あの体調の方がまちょっと心配しますが皆

さんどうでしょうかねお元気でしょう かあの私の大事なパソコンもちょっと健康 不良で1週間ほど前にちょっとあの壊れて しまいましてそれであのそこにたくさんの 資料が入っておって本日のその公演の資料 もそこにあったんですけども全部パになっ てでそれからちょっと頑張って1週間で やっとなんとか復旧復旧じゃないデータを 入り込んだんですけど方に あの考えもしに入れてありますのでえ 100何枚になってそれ全部映すと おそらく1時間半ではあのおらと思います のでえ本当にあの生成する時間がなかった もんですからあの時を飛ばしていきますの であのご容赦くださいそれから あの席がですねこのちょっとでまして話す そっちに席席が出ますけどもあのコロナ コロナじゃありませんのでよろしくお願い しますそんな風であの始めていきたいと 思いますあの画面のですね見し学ぶ拍手え 考え方言方に学ぶとあの2が事になって ますけど本当はこれおおなんですねえ美 学ぶ白紙を学ぶというのが本当なんです けど美島についてよく知ってる人は世の中 にもたくさんおると思いますえまあの上 だけしか私知りませんけどもそれを見 ながらま宮島名博士の言い方に我々は何を なんだらいいかというところでそこを中心 にお話しますのでお願いしますあの左に あるその察の画像はですねえ風作学習6本 で小中学生が美学を学ぶ時に使う教材とし て書きましたえ書いた書いた書いたら話も できるだろうことでこ今前思ってるんです けども本来私あの数学の教員で歴史では 全然興味ありませんそれからあのま職全然 興味ない意識はありませんけどあの本を 書いたというそういうことだけこの話して ますのであの話がちょっと浅いかもしれ ませんけどよろしくお願いし ますそれではあの座ってえお願いし ます爛漫という あのドラマがこの9月に終わりましたえ皆 さんあのご存知かと思います野と三え大変 有名になってえ植物家 の繋がりでえもちっとは話題になってき ましたけどもこの最の富太郎のお話を ちょっとしてみます実は先週の日曜日に県 の博物館で 富太のがりました東京の牧野富太郎庭園の 学院の田中純子さんという方が見えてえ1 時間半ほどあのお話されたんですけども その話をちょっと出しながらあちょっと 紹介をしてきますえ牧野 富太郎という方は四国のま土佐ですね昔の え今四国のあの高知県になりますけども

そこの佐川というところでえ生まれてえま 実家はあ大変金持ちの酒屋の息子でしたで そのまその資金を使ってえ随分とこのま 遊び歩くというか報道生活をするわけです え学校も行かずに自分の好きな植物を集め てはま眺めておるというあの生活をしてき てえそのま生活が一生続くわけですえ 大きくなっても植物から離れずにそれに ごとしてくと結婚してからのもそうだとで しまでその速に関わっていくとまるで経済 観念がなくてえ実家の酒屋のあのお金を 使いから書いてねほんでま破産をしてえ 借金をしてえ研究を作れるわけですでま 普通の人間だったら途中で諦めて違う仕事 についてお金をこう稼いで家族のために 頑張るんですけどもあの修正最後までその 植物に変わり続けたあの成功していなけれ ばただの高頭息子の道楽息子でえ世間から 馬鹿にされて終わった人間だと思います けどあのまご存知のように大変な植物学の 公残したということで植物学の父と言われ てえまあの有名になったわけですでその おかげであの今回NHKでドラマのラマン というそういうドラマが出来上がったわけ ですえまなんて言うですかね本当にあの 植物学に一生を捧げたという人間でござい ますけども あの周りの人間が大変迷惑をしたという そういうこともありますえこのスライドの 写真は右側はあ二十歳前後なかなかのその ま前目というかあいい男でしたこれま 二十歳ですねこの自分がままだ四国になっ たわけですで左はあのま あかなりの高齢の時の写真ですこういう あの感じでえまどの時代も食物について うん興味を持って活動したということ ですで牧野智太郎先生の一生通じて強い 思いがですねえ2つありまし た1つはあ植物学に対する思いええ牧野 先生はこの歌を読むことが好きであったと いうか得意であったドイツそれから単価あ 俳うんでいろんなことをですねえ歌に残し てえおるわけですで植物に対する強い思い てことで草をし根を枕花と恋して50年も すごい無駄ですねこれ50年のこれは90 年行きましたのでえ草をしと根に木の根を 枕花といして90年つ一生をその植物に 捧げたという人ですそれから次の歌が朝な ゆなに草を共に共にすれば寂した寂しい言 もないというこれもすごい歌です草が近く にあれば何もそのあの寂しくないま変わっ た人ちは変わった人ですけどこれほど食に 強い思いがあったこれがあの1つの思い ですそれそれからもう1つ強い思いがあり ましてこれはですね奥さん妻に対する強い

思い あの1つ目の区はですね家まり妻のめる やが我がもみだから家を回ってる妻妻の おかげで私の研究はできるとそういう意味 だと思いますがあのそれほど奥さんを太陽 にしていたでもう1つの役が世の中の荒ん かや末子座さん これもすごい歌でえまあの末子ま奥さんの 名前を末と言いますけども末と言いつつ昔 はこつきて末子と呼んだみたいですけど あの末子さん にまこのこのこの世の中は末子だけねそう いう思いが現れたとです末子というのは あの笹の名前ですえ奥さんが死んだ時にま ちょうど時を同じくしてえ新種の笹を発見 してその笹に成子笹というあの名前をつけ たということでえ誠子さん あの先週の田中純子学芸員の話によると佐 というのはあの普段は隠れたところに咲い てえ全くそのま存在が分からんとだけども 一旦風が吹くとささっと音がして存在を 明らかにするととように牧富太郎ま調子の 時は本当に影に隠れて支えて一旦借金が 重なって境になると奥さんが出てきて解決 をするとそういう風にま本当にさぎにとる ということでえ奥さんが死んだ時にまあの その思感謝の思いを込めてえ末子という そういう名前をつけてえま新種を登録した とそれほどその奥さんにその思いがあった とうんまあの2つの強い思い植物に対する 思いそから奥さんに対する思いえ2つあっ たよう ですえそれからあこの写真がですね え美学との関係をあの表すあの言葉ですえ 牧野富太郎と美真あの美島はですねあの 東京大学の呼び物うんを卒業してから今回 入ってくわけですその時にえ理学部の植物 学を先行してそちに行くわけですけども あのその時に時を同じくしてちょっと早く 牧野富太郎があ高知から状況して東京大学 へま走するわけですルートが別なんですよ 美島博士は試験を受けてえ分を通って卒業 してえ正式にその研究性入ったところが牧 の富太郎はどういうわけわからんですけど あの小学校中隊なんですよあもしないのに いきなり東京大学へ行って研究室で美島と 出会うあの研究室の出会いが最初の出会い ですで牧野はですねえ美義のことを関東 上級の美義君を美義先生と呼んであげてい たあげていたもうここでプライド分かり ますねあのそういう立場なので美真先生は 上であるそれ確かだなのでえ先生と呼んで あげたということを書いてます友人の間柄 であったとあったにすぎないと言ってます で今日お配りしたこの資料の中に

あのそういう言葉がですねえちょっと あの紹介するつもりでと習いまし たあのの2ページの上の方の1番 です美君の思い出よりということで太郎の 美君と私は長い間の交わりであったそして 大学では私は常に火球の位置にいたので それで緩急上島の美君を美先生と呼んで あげていたがしかしど君は私の先生でも何 でもなくいわば友人の間柄であったにすぎ ないこういう証言をしております なのでまそですね親友とはいかないまでも ま友人であったというそういうその間なで たで [音楽] あのそうですねえでずっとこの死ぬまで 三島とは植物学を通して分子したり関わっ てきますで三島名という人はですね植物学 のこの理論とかあの研究はたくさん本を 書いてますけど自分のことだとか自分の 家族については全く書いてないんですよ プライベートはほとんど記録が残てないだ からどういう人間であったのかどういう そのま生活をしておったのかが想像でき ないんですところが牧野富太郎はそういう ところはたくさん残しますで牧野富太郎の 文献を読んでいくと美学ぶがちょこちょこ 登場しますでそのところから三島を想像 するしか ないだからまここで言うと美君はぶ先生は あの牧野智太郎よりもちょっとその正式に はあの上位であったちことが伺いますで三 先生と呼んでいたんだけども美牧野富太郎 安とか分かりませんけどもま牧野君とか そういう感じですね上下関係がああると すればあの年齢は一緒 ですはい次へ行きますはいこれです こ右側の写真あのすまし込んで映ってます が牧野富太郎が本を出版してえま売るわけ です売る時に買った人にはこの写真を 差し上げるとブロマイド だから自分を表に出すことについては牧野 富太郎さんはあの非常に熱心だっ たえ普通自分の本売る時にですね自分の プロバイドをつけてるなんちうことはそう 考えませんけど そういうことでこの写真が残っておるそう ですで左のあの手紙の表書と裏書きはあの 牧野富太郎が三に出した手紙ですえ表は三 学ぶ様あ本合区西方町から裏が牧野富太郎 の住所小石川 府牧野富太郎とだからこういう手紙をです ねちょこちょことあのやり取りしながら あの一生死ぬまでえ付き合いをしていった とということになり ますこれはちょっと難しいので飛ばします

さっきの手紙は中身 ですでまとめると牧野富太郎とは好きな こと興味のあることはとことん取り組む そのために周りが迷惑しようと全く気に かけないまるで経済観念がない人は食の父 と呼ぶがもししなかったら家の財産を振り した道楽息子後頭息子であるという極論を しましたけどもま結果的にるとそういう人 であったとあのと思いますが1週間前の 講演を切った時に1つねあの田中純子学院 があの牧野富太郎が博の時にしべに行たす という15過剰からなるうそのま決意決意 文章を二十歳の頃をトが書いてますそう ですそれを読むとえ二十歳の時点でこれ から植物格を研究する上においてえこう いう心構えでやっていきたいちいうのを重 ご長にまとめて書いておるところを紹介し ていただきましたそれを見るとかなりの決 を持って植物学に取り込んでということが 分かるのであのま1外にドラ息であると いうことはちょっと言いきれないなという ことを思いまし た でえ次へ行き [拍手] ますはい次はみ学ぶです え右のその本の表紙はあの桜拍手というみ 学を紹介した漫画本ですえそっから取り ましたで美学ぶ拍手の人柄について ちょっと あのあ確認をしてきますえ1番孤独を愛し た2番え緊潔白な人である3番名文化で ある4番酒好きという風にまとめました けどもまず1番です けど本日の資業集をちょっと見てください えとです ね2番の2ページの上の2番によこれは 牧野太郎の水文にこんなことを書いてます 一体に若い時から他人と交際を好まず学生 時代から孤独を愛されたようであるから いわゆる偽というものはほとんどないと こういう分が身について書いてありますの で え他人と交際を好まだからま孤独を愛する ちうの言い方は言い方だけどもま1人で言 たかったじゃないですねあの引きこもりで はないだけどもそういうまあの他人と喋る ことコミュニケーションを取ることが苦手 であるという一面があったとそれから え次にですね え美義君とは仲が良かった美義はどちらか というともちもちした書籍の悪い男だ もちもちしと表現がどういう意味をすか わからんですけどまあまり良くない意味だ と思いますがあ人好きの悪い男だったとだ

からあの転んで人付き合をするタイプでは なかったというそういう人間だと思います こんなことから大体美拍手 の人柄があの浮かんでくると思いますそれ から次 えっと近着潔白あのこれはあの弟子の はっと孝太郎さんが言っとることですけど えっと2ページの下の方の7 番消耗品の水筒でも保管などでもいちいち 伝票帳簿などでも目を通されて決して略に はなさらなかった万事が先生の緊潔白な 地質から割り出されたやり方であって他年 に使えたのがその間唯一の1回も先生の 冗談を拝聴したことがなかった従って行く 分なれ近づきがい傾向があったと言える だろうという文章ですこれ弟子のりさんが 書いたんだけどもこのこの中のね冗談を 拝聴したことが1回もなかったというそう いう人物です島というのはだからガチガチ の硬い人間であのま あ近づきがい人間であったという風に想像 でき ますそれから次へ行き ますえ名文化あ川村誠一いう方がこれ3 ページの上の方ですけど8番えしかるに他 に美先生に関してえ我々理学者仲まで あまり気づかずにいてかって他の文学者の 間に美先生が文書において日出ておられる ことが評判になっているのであると文章が 平いで漢字の使い方が正確でいたずらに 文章を飾らずに科学を解くのに最上の模範 とするもであるということであるうん あの難しい文章を書くことが上手ではなく て平で漢字の使い方が正確でいたずらに 文章を飾らこれがまうまい文章であると こういう文章は三島の場合得意とした ところであるというところです ねそれから次ですあの作好きであるとあの これはあ指定の村太郎さんが あはっと太郎さんが言ったことですけども ちょっと資料集がないですかねえとにかく そのビールで酒をよく読んだと飲んだと いうことがあの記録にあり ますそうしてみるとこれを総合してみると 大体三島なの人間とちの浮かで浮かんで くるようなこあと思いますけど真面目で 片腹でえ時には先を飲んでま1人でこう 持ってというそういうまなんというか オタクですねオタクのような感じの人が 美島であったということですいい言葉を 使えばこの看板にあるようにここですここ のまタを寄せつけないような人でどんどん やってくようなそういう植物学者であると そんなようなイメージが浮かんでくると 思い

ますはいえこれから本来ですえ画面を見て くださいさっき話したあの牧野富太郎の足 はジョアですですで2は話した美島名の その人柄は第0話とけましたこれから第1 話にえだったら一体三島学手は何をしたの かどういう功績を残したのかというのをお 話をしますえ第2話にその三島の人生です ね生まれてからどんなあの人生を振ったの かお話しますそして第3話に公案のまとめ としてえ美島なの謎 学びですね明し学ぶから何を学んだらいい かというところをお話ししてまこの講座を 終わりたいということでございますもう すでに25分経ってますのでちょっと急が ななんですけど あの昨日ですね え福井県 の福井市にちょっと研修に行ってまりまし てその中でえトークセッションというあの のコーナがで1時間半の内容でしたけども 1時間半話を聞くのは大変苦痛やなと思い ましたで今日も1時間半の時間ですので皆 さん大変苦痛になるかもしれませんが できるだけ苦痛にならないような話し方を したいなと思っておりますけどもあのなん とか最後までお付き合いお願いします えで は美学ぶの功績についてちょっとお話をし ます ちょっと資料種を見てくださいさっきの 資料1番表 です三白市はえ昭和14年5月12日に なくなりましたえその2日後に東京中新聞 中東京新聞かなにあの松野富太郎さんが あの美学白について追悼文を書いてあり ましたその1ページ全文がそうですでそこ の文章に美島博士の全てがつまっておると 思いますでえこれを読めば大体美島博士の やったことやとかですね性格が大体分かる んですけども全部読むと時間がないので あじみ線を引いておきましたのでそこを 読んでいきます1番え従来アメリカ風だっ た東大の植物学教室にドイツ風の学風を もたらしたのは美君がドイツ留学から帰っ てからのことで日本における植物整理学の 回であると1番は植物生理学という学問の パイオニアであるということが石の1つ から2番です下のに行きます桜と花勝負の 研究に没頭するようになったのは定年で 東大を辞められる頃に頃からでえ明拍手と いえば桜を直に連想するくらいだった桜の 研究の第1任者これがあの2つ目の功績 です3番三君の大きな功績の1つは文部省 に権利して日本に天然記念物の制度を作っ たことであるえ天然記念物の保護法ですね

えこれを作ったのがま作るきかを作ったの が三島博士ですから4つ目え君は非常に頭 の良いで その岩村にあった頃は有名な学者佐藤1歳 の学党を継ぐ学者になろうとしたことが あるそうで官学のそがあったから文章が 非常にうまくおそらく日本の植物学者とし て最も多くの著書を残されていると思う あの文章の前え文学者ですね え同年にですね夏目漱石とか森大害がおる んです夏目漱石はま英文学者で無料外はま 医学者ですねえ大変な文学者ですけども もし植物学に進まずに文学へ行っておった ならおそらくあの彼らと方を並べるぐらい のあの文書力があったという風に言われて おりますでなんでその文学を捨て植物に 行ったのかていうのも後からお話しします けど1つの謎ですで今言ったように大きく 4つの鉱石があるえ吉ねえということです でそれぞれをこれからちょっと詳しく見て いきますのでえま画面を見ながらちょっと 見てくださいえも見ますと1番は桜の白紙 2番は近代植物学3番があ自然保護の選者 4番がま優秀な作家でありあ学校の先生も してましたのでえま常な教育者とま大きく まとめると4つぐらいになるだろうと思い ますでまず最初に1番の桜の 拍え画面の桜はですねえ政治公園の作です え岩村 の江特別支援学校の横にお墓がありまして 第4大名墓地と言いますけどそこにま毎年 あの花をせる桜があって本当に綺麗です 多分江戸彼岸桜だと思いますけどもでここ から5分も歩むところに学ぶ博士があま5 歳から10歳ほどまで暮らした家があり ますおそらく小さい時この辺りを遊び歩く うちにこういう桜を見ながら桜についての 思いをま持っていきたと思い ますから次これがですねあの桜に関する 100人の区ですイの奈良のみの桜超ここ の絵に酔い塗るからこれは伊勢の体育と いうあの人が読んだ歌でございますが あのこの読んだ時期は平安時代です平安 時代の九州で読んだですけどある時ですね 平安時代の前の都奈良の宮ですね奈良の 宮子からあ桜の苗が2本送られてきてそれ を九州で受け取るということがありまして え最初は紫部が取るという予定でしたけど なかあの予定ができちゃってで伊勢の体育 に変わったんですその時にま天皇か誰かが 1区読んで受け取るというあのマットで 読んだ区がこの部ですイニシの7の宮の桜 今日このにいからここの絵ちゅのは九州の 車に門があってえまここのす門があるそう ですのでここの絵というとま九州をさすと

いう意味がありますでえ問題はその桜です こういう国も桜が歌われるとで三島ナ先生 はあのいろんな植物学の本にですね桜を 紹介する時にえこの区を紹介してこんなに 昔から日本には桜がある と大事な日本にとっては大事なあの花やと いうことをあのこの区を使いながらあのま 紹介していったということがありますで 一方で大変な文学者であった先生ではあの こういう風に歌われる歌われて様になる ような桜という花は本当に日本に合ってい て愛すべきその植物やということでえこの 花に文学的なロマンもま感じておったので はないかなとそういう風な思い出があった ということがあるかと思い ますで次です けどでそういう桜をですね世に広め広め たりそれからあのま保存していくために いろんな活動をしましたえ1つはあ大花ず といってえ図鑑ですね図鑑をデ賛で書いて え作ったりそれから東京大学でえ桜につい て講演をしたりそれから桜の会という会を 作ってえ保存活動にえま務めたり機関書を 作ってえ情報発信をしたりといろんな桜の に関する活動をしてきました でこういう活動をま周りの人からま見て ですねえ先生のことをま桜の拍手という あの称号をつけて読んでいたそう ですこれが1つ目 の功績です2つ目 です近代植物格の解と書きましたけどあの 日本の昔からですねえ植物学はあったん ですあの奈良の時代に中国から本蔵学と いう学問が入ってきましたこの本蔵額と いうのはあのま人を取り巻く植物の中で人 のためになる植物と人に害をす植物と分け ないからとなんでかちゅうと食ってから ですからあのこの植物はま食料になると これを食うと死んじゃうというだ分ける ことから始まったあの植物学の本学ます7 時代から続いて江戸まで行きますけどま 江戸時代にはま九州の福岡での貝原とか ですねえ三重県出身の最後あの大学に見た 飯のさえこの辺りがまそれをやってきて その後を継いだのがあの明治初期からま 体操 和に つがるであるということでえ牧野富太郎は この飯沼を大変尊しておりましてえいつか 生きとるうちにこの飯沼抑の電気を書け たいということで頑張ってったんですけど 書かずにま死んでしまいましたけどあ牧野 富太郎のま前任者は犬よさでその場合は 貝原一見であるということをを言われまし たでこの植物分類学ちうのはずっと延々と

こう来たわけですけどもこれを明治になっ てより幅広くより深く極めたのが牧野 智太郎です牧野智太郎は食分類学 ですそれに対して植物生理学と植物生体学 のがあってえそれまではこの2つの学が なかったわけですけどここに美島が登場 するんです三島は大学院来てからドイツへ 留学しますでドイツへ言ってえペフ教授ち いう教授から植物整理学と植物生大学のけ ますでそれを日本に持ち込んで日本での 学問にしたのが島名ですですから近代植物 学の海音や回そであると呼ばれていますで 一体全体その植物生理学ちいうのはどう いう学問であるかという とああごめんなさい植物分類学ねここ ちょっとばして植物整理学にますあの ナースのあの写真を載せましたけどあの 植物整理学というのはそのその植物その ものの特性を研究する学部です分類学全然 違ます他の植物はどうでもいいんですで その植物について徹底的に調べていくのが 生理学細胞の形はどうなっとるとか花粉が どれぐらい持っとるとかあ飯や星は何本 あるとかそれについてのあの追求それが食 責だでこれを極めていくとそのあの果実を つつける癖特性が分かってくるんですその 特性を利用するとあ たくさん身を取るような育て方できる持っ ていくと土やなくてそこに写真にあるよう にあのポッとうん必要な栄養分だけを入れ てやるとどんどんどんどんそのあの作物が できるとそういう風に発展してあの生産力 が段に上がるわけですそのためにもう植物 の特性をどんどんどんどん究さなこれが 植物り がでもう1つ植物生体これはですね植物と 黒丸の環境との関係を徹底的に研究する学 あの写真に あの本質が映ってますあの中にトマトが ありますトマトが植えてあります本来日本 では何もせとトマトは育て育たないわです ねところはトマトはあの米の安地方が原産 地でえ大変あかいとこで育ちますので日本 でも寒いとこでもああいう風にその音質を 作ってあかくしてりゃできるんですよ あかい環境を作ってやると作物ができると あかい環境つまりあのあれですね環境との 関わりですねそういう植物と環境との 関わりを研究してえ植物がよくできる環境 を人工的に作ってやる と生産性が上がるというところに視点を 当てた学問が植物生態がだから環境が 壊れれば植物が変えるわけ ですそこのところも興味を持って勉強し ましたで環境が壊れれば植物が枯れると

いうところを大くしてえ枯れないように するにあの方するにはどうしたらいいかと いうその辺りの流れが後のその天然記念物 保存に従ってく島の これがあの近代 植物あそれで今の話ですけどあの環境保護 が植物の保護をするということでえ自然 保護を本当にあの政府に働きかけて自然 保護法とかですね天然記念物保護法を県議 してえ議会に上手してもってあの天然記念 物保護法を作ったで天然記念物の指定をし てそれを法的に守ってくというそういう 運動のま潜者であるとあれはあのさっきの ですねえ諸物生体学から来ておりますこう いう活動が3つ目 ですでこれちょっと飛ばし てこれで分かりますイナシのどっか です三里のですね三里のあのノイとさきの 間ぐらいにえ亀沢というあの信号のとです けどそこにえ花のの自性地があってあの 白いあの物化剤の区が立ってますけどうん これは美学がここで天然記念物に否定を するべきだと権利した花の事政治です今で は県の植物県のあの指定になってますこ やって保護されてますあの立派な花のが花 のがあの名をあの揃ってますのでえ三島の おけで今でも保護されてるとうんだから こういう風に構成にかなりの影響を与えた ということもあの言い ますはい話は変りまして4番目情熱的な 教育者と書きましたこれは 美博士があ福持ってえ市販学校を卒業して からあの不妊した水市立時小学校の校長に なりましたけどその時にえ毎日毎日え教育 したことを書き残してえ綴ったあの事業 日誌という日誌です本当に今に書いてあり ますんで大したもですでそれを読んでいく と夜中にはあの地元の住民に業務かけを あの教えて昼はもち学校ですけど土日には 自分の勉強のために犬川まで行ったという そういうが残ってますのでええ植物学だけ でなくてえま学校の先生としても本当に 検診的に活躍したあそういう束積があり ますはいえこれはあの自分で作った俳です ね俳やと監視をあのま集めた察しですけど もいろんなところで残してますこれは ちょっと飛ばし ますはいえ以上があの三真各の鉱石です 大きく4つありまし たえそれと次は第3話天気で移る美真拍手 の障害書きましたけどあの色々の節節で こう区切て紹介するといいんですけども三 学先生があの人生においてえガラっと 変わる場面がいくつかありますその場面に 区切ってこれから人生をあの紹介してき

ますので えお願いし ますどんな人生を送ったかです けどまず少年時代ちゅうかま事態ですねえ 三島博士は分岐2年1月4日におれになり ましたえま生まれた場所は江戸です江戸 屋敷え美野の岩村班の江戸屋敷って生まれ ましたでお父さんが美智さんと言ってえ 岩村阪で阪のばよに130国とりえの侍で あとかなりのま中級物資かなうんで お母さんが豊さん中島県から突にましたえ 三島白はんですで長男は繊細のこの安太郎 というのがおりましたけど早く死にました ので実質は長男ですね長子ですえで豊さん の第1師 えま次男ですが長子者という立場ですだ からまあの上野泰太郎さんが信じたもだ からま家督第第1の候補でしたので大変 大事にされたと思い ますで次ところがですねあの時期が時期で えちょうどま5歳ぐらいに明治師になり ましてでお友さんはもう全部国元に帰ると いうことであの返されましておばよにで あったその吉のお父さんの智さんもついて え帰ってきたわけです え帰ってきてえま岩村の地官という勉学所 があったんですけどもま5歳から6歳で 入れてもらえたのでそこであの勉強をして えおりまし たで岩村の新屋敷というところに家を もらってえそこでえ暮らしたわけですけど ちょっと見にくいですかね写真のところの 上の方の右側に空地がありますけど空地に 家があったそうですこの道をずっと上がっ てくと1番ぺに岩村三素があって岩村三素 の横に出てきますでその横行くとあの半て いくとだから歩いて5分をすれば反で行っ ちゃえるという位置にえま家をもったわけ ですで右側はあの地震館で勉強した英語の 教科書です5歳から6歳ではいま英語の 勉強しておったということです けどところがああの10歳ですかねえ明治 6年あのお父さんが死んじゃいます死ん じゃってえ病気で肺炎かなんかかなよく 分かりませんけど死んじゃってえま お母さんだけになっちゃうんですけどその 時にえ兄弟下に弟が2人それから自分と それからおかさんとその1回4人ですけど おなかなか あ生きていく経済力もないので口べらしね 要するに要するに口べら市として1番上の あの美学があの方向に出されるわけですえ この漫画 の絵はですねさっきの漫画本の中から取り ましたけどあの家族に見送られておじさん

の小林さんに引き連れられてま福井に行く わけです福というのはおかさんのあのおじ さんのが住住職をしてるお寺ののある ところですそこへまあの修行に出されて えま1人減らしてなんとか経済を助けると いうことでえそういう風で福井行くとこれ が2つ目の天ですで吉はなまゃないもんで 行くしかなかったもんで行ったんですけど あなかなか厳しい生活が待っておりまし たで福井行くのにまこに地図が書いてある けどずっと西へ行って琵琶にぶつかって 琵琶で船に乗って上へ行って鶴からあの 日本を上がって酒あの福県の三国ですね あそこ行って龍川のあの加工ですそこに そこの近くにお寺がありますのでそこでま あの次の生活を始めるという風 です次行きますえこれがあの連れて行かれ た福井のお寺です最高と言いますおさの 名前は中島星生と言いました多分まお寺の 小僧ですので朝は早起きて掃除をしてえ 廊下の水拭きをして飯を作ってロールして もうそういうああの下畑でねそうしながら もま小学校へ会話してもらった とで当時のその福井県の小学校があります けど大変立派な小学校ですですこの模型が あるんですよ3階建てのすごい近代的なあ ま様式のこのあれですねあの小学校です この当時の小学校はあの国は明新直行です ので国は小学校を作りして地方に命令する けどお金は地地元なんですお金と労力は 地元で自分た作りして命令命令だけする けど金はさんちゃちゃうだから自分の人と がなんとか頑張っですね小学校作るんだ けどもこんだけ立派なあの小学校できると いうことは地元に財力があった証拠ですで 考えてみれば あの三国港酒港っていうのはあのななんて かななんとか貿易のあの日本海をこう ずっとあの行く船の取りにして貿易栄えた あの港町でしたのでかなり財力があったで そういうところでま勉強できたので帰って その美島にとってはあの幸せだったかも しれませんねでそこへ通いながらお寺の 仕事をしながらあ過ごしてあ元々頭のいい 子でしたのでもすぐ格を出してですねえま 勉強に集中したというところだと思い ますでここでま14歳になる頃に1つの また第3の天気が来るわけです けどまあの学ぶにとって全く都合のいい 制度あったんですあの小学校卒業する時に あの当時の小学校事業伝習所というところ ができましてそこへ入学すると将来福意県 の教員になるという条件でえ学費と生活費 を全て支給してやるとで就職してから毎月 一定額を返せばいい有料から

あだけども卒業したら石川県のあの議に なってくるとそういう約束をして入るわけ ですそうするとあの尚さんからも何も面倒 見てもらわずに自分で自立ができるわけ ですあの寄宿車へ吐いてあのご飯ももらえ て生活費ももらえてでおまきにお小遣いも ちょっともらえるというあの願ってもない 話ででそこへま飛びついて え行って入学すると いうわけででえま一勉強してあの 白は本当にアバですのでここでもおそらく トップでしたねが卒業して教員になって いくわけ ですでその時にその在学中にですね1つ 大きな経験をしますあの福井県の近くに 白山というあの山が有名なあのそえ登山に 中本に来ましてえそこでですねいろんな 植物を見てくるんですでを度にですね体の 中からもうワクワクするようなこの感動を えゾクゾクするような後から言ってます けどま自分にはもう元々の植物に対する そういうものすごい愛着があるんだなち ことをここでま体感するわけです白山登山 ですあの市販学校に大学中に白山に登った 時にあのま体験したこの原体験が後の植物 学を選択する1つの動になってなったと いうことも言っており ますはい次へ行き ますでいよいよですねあの あの市販学校を卒業して福井県の教員に なって借金を返してく段階になったなり ましたところがこの三島はですねこの 真面目なであったにもかわらず卒業して 教員になるのが嫌でですね一時ちょっと あの行方不明になってどっか逃げとった わけ逃げとってえでまま帰ってくるわけ ですけどもいやいやあの教員になったわけ ですがあの福県の教員はならずに義勇県へ なんとか言とまってえ義勇県の現在の水波 時小学校というところがありますけどそこ へま不妊をします不妊した直後に校長先生 ですで今の校長先生と比べると全然違い ますあのあのその当時の学校に常勤正式の 教員はこの三島先生だけであとはあの地元 の代用教員ですかねが23に見えてでえ それ以外は最上級性最上級性が家生の ところを益というそんな状況なので当然 世紀の1人しかおらん教員が校長になる わけですそんなとこで校長職をしながらあ 教員をやっていきます まここをちょっと飛ばしますでこれ写真 ですあの今の現在の特徴学校ですで右下に ちょっと見にくいような河が乗ってます けどこれ鬼川です鬼川のところにその交渉 があのありますけどよく見るとあの船の

怒り怒りをおろすと言いますか怒りの デザインと一緒ですでこの怒りのデザイン はこの三島先生がこ作ったんだけども 美国港でえま何年かおった時の おその経験から船に関わる怒りを持ってた だなということは想像てきますけどそんな 風でその三国とことの繋がりを作ったかな という風に思っており ます 激ちょっとあの右側にその時の17歳から 8歳ですよあんな髭入ると思い ますちょっとけかなんかしあのちょっと 不思議けどあの写真がですね現在の時小 学校の校長室の1番先頭にかかってんです あの初代校ちょっととしてね美学ぶですで 左の写真が当時えの校舎でちょっと古い ですけど木造講社の3等あるえ右左にえ こっちから縦があって番向こうに横にある その3つの放射があった学校 ですこれちょっとも下宿しとった飛ばし ますこれこれをちょっと言っとかんと ちょっと後に繋がりませんのであの村瀬対 というちょっとあのおかしな人おかしあの うんらですがこれは あの第3陽という大変あの有名なあま京都 に住んで見えだけども受学者 あ授ですねえ官学の先生が売れてそれに 使えたあの人でえ神学や実況に詳しい先生 ですえ村瀬大立この方が犬山の犬山阪神に 雇われて犬山の民学をしてれたそこへです ねあの三島博士はあのあの校長職教員を やりながらあそこへ毎週土曜日に通ってえ 感覚を勉強したというそういう生活をして おったわけです あの当時をちょっと調べてみると1日ウク ではですね1日朝から晩まで学校で授業し て夜は村でかけてえ住民に町民に読み教え てでずっと金曜日までやってきて土曜日は 昼からですねあのこの犬山に村瀬大さの あの頼って出かけていくわけですで犬山で 一泊をして えその翌日に習ってえ昼から帰ってくる わけですで次の月曜日からまた通常の学校 の授業をするとところがその水波の時小 学校ありからあ犬山までは31kmあで これを道を辿ってみるとあの山あり谷あり のすごい道ですえ一部中仙道を通ったりえ 色々しますけどもすごいところあいんでの 31kmま8時間10時間かかったと思い ますそれそんな思いをしてまでま歩いて 勉強しに行ったとそのなんかの強い思いが あったですねえそういうそのことを教員 時代に続けており ます これもし

て こしでえそれをやりながら毎日さっきお話 たように毎日事業日誌をつけていったと いうことです本当にこみに何時間目はこう いう問題を出してえこういう事業をしたと いう記録が残って ますあの 1つだけ紹介します当時のその時間割りえ 右の表に書きましたけどずっと見るとま 資産とか歴史とか あ集字とかあ色々ありますけど1番多いの は理地理や歴史ですねえ社会の勉強が大変 多くあったということが分かりますああと は読みかけソワが基本ですねえこういう ことをやってえ事を過ごしたということ ですはいえ犬犬山に通いながら事業日誌を 書きながら なおかつさらにやったことは教科書を作り ましたこれがちょっとあ響きますたで ちょっとお思ってくださいえっと政治奨学 というそのまあの理科の教科書それから小 学校就寝渡中ま道徳ですねわるそういう 教科書それから 時時 軍時分子とという地理の教科 書この3つの教科書を お書いて え出版をしており ますあの教員をやりながら教教科者を作 るっちゅう大変なことです それで あの五藤神兵というちょっと戻りますけど あの生理小学の教科書の関東元には五藤 神兵というあの当り有名な医者ですね医者 の関東元を載せてあります あのかなり有名な人物でその方のなんて いうかなあの関東をもらった本というのは おそらく大変有名な本であったていうこと が想像されますで えこの本を出版して印刷会社で吸って もらって売ると印税というお金が儲かるね あのそこら辺がま第2目的で作ったと思う んだけども第1はもちろん事業に使うと いう目的で作ったんだけども第2は多分お 金をま稼ぐために本を書いたという風に 想像しますこれも後からちょっとお話し ますけどこういう本を作ることも教員をし ながら続けていったというふに記録が残っ て ますさあいよいよ あの今やめて大学に行き ます写真は東京大道呼び呼び物の玄関です え教員を思い切ってやめてでえ東京大学へ 入るために呼び物の試験を受けてあの 受かって入学するわけですけどもえ何百人

か受けた中でトップで合格したって書いて あります大したもんです ね合格して吐いてっ てでえま3年間勉強してで本会行くわけ ですけど本会行く時点で専門を決めなない ですか物理学へ行くのかあるいはま科学へ 行くのかあのあるいは植物学行くのか あるいは文学行くのか感ですけどけどもう 元々ずっとやってきたのは文学ですで文学 をややらなかんてことでやってきたんだ けども突然突然このこ時点で植物学へ変更 して植物学教師行っちゃうんですここが 1番の謎なんで美島先生はあの31kmも 歩いてですね一生懸命そのあのブラタで 勉強しながらあの文学を極めようとして 帰ったんだけどもそんだけの苦労をし ながらやっと目の前が開けた段階でえなん で文学を捨てて食学行くんだというところ が大変ま肌から見ればね不思議でがわない ここの解明があの島博士のま人生をこう 語る上で1番大なところになってこかなと いうことは思い ますでえ次へあ次へ行きますで影響けたの は 部口爛漫では田辺 教授見られた田ちょっとあの田辺教授が 最後はちょっと死んじゃいますけどあの モデルは八教授ですこの方からだいぶ影響 を受けて植物学へまあの方向を切ったと 本人は書いており ますで え植物学者と言ってもこうずっとこの記録 を見てみると植物学者イコール登山 化それから植物学者イコール 画家上手に絶賛できないと記録に残せない でえ標本を採集するには常に病い残って あるからだからあの下手な登会や画よりも かなり登もして見えるしそれから絵も書い て見えるそういうま研究者と言いながら 画家で あり登山家であるという風に思いますえ 日光さんヶとうといろんな山を歩きながら あの植物採取をしてまし たでなやかや言いながら大学院行ってえ 大学院をま あ行くと言ってえ竹さへ来た時に地元に 近いもんですからあの岩村へ寄りましたで 岩村へ寄った時点では大学を卒業してまし たのであの学士団ですね当時学士団という のはすごい偉い様であの地元のあの出身者 が学士になったということでもう大歓迎 ですでえ小学校の行動で是非講演をして くるしことで博物学の進めというで吉先生 はあの講演をしました 凱旋ですね地元へ凱旋したわけ

ですで大学院時代にさっき言ったドイツへ 留学をし ますでドイツのペパ教授から生理学と生体 学を習い ます あの大原孫三郎という方知ってみますかね あの岡山にですねあの大原美術館というの があってえ有名な海がそこに集められとっ てえまあるわけですけどもこの倉敷防災の まあの昔のですねえ社長でいろんなあの コレクターでやってま海外に限らず いろんな文化的価値があるもの集めてはま あの展をするという方でしたでこのファ 教授が亡くなられたとこペフ教授のこの 研究論文が売りに出されてえ来た時に大原 マサロさんが取ってでそこのま コレクションですねコレクションして取っ ておいたということでペッパ文語として今 も残ってますでこれ今あの大原館じゃなく て岡山大学の理学部にありますけどそんな 風でま大原さんとの関係もここにえあり ますこの真ん中の写真があの大原あのペフ 文庫 ですちょっと飛ばして ドイツへ留学しておった時にですね ちょうど同じ時期にあの岩村班出身の大島 県一というこれ軍人ですあのゆは あ陸軍中将で陸軍大臣もやった人物です けどもで向こうのドイツのライプですか そこでえ再開をしてま急行があったんだと いう記録もあり ますはいこれが あ次に帝国大学時代うんこれが研究室での 様子 ですからちょっと紹介しますと野口秀男 うん野口白紙はあの医学ですけど医学の その学史論文白紙論文は京都大学で取って ますところがあのま学医学ですね理学理学 の方の白地論文は東京大学ですで理学の方 の白地論文を審査したのが三島名ですで 三島名のま合格をもらって理学拍手になっ ておるとでえ研究論文のあの題はあの スピロヘタ大力に関するあの研究でえそれ でえ東京大学の白紙論 学理学白数の本だということでえ農口秀と も大変仲が良かったということがあります で右の矢野男さんというのはあの美真の 結婚した奥さんをとったんですえこの方は ま文学者でありえあの政治家であったかな そういう方 です矢野みさんという方と結婚されまし た ここもちょっと飛ばし ますこれがですね今度後方に紹介する記事 ですあの坂本の坂本の駅え谷東海新幹線が

あ駅ができるところのすぐ近くに花の自地 というところがありまして えそこが島があの天然記念物調査員のなっ た時の初めての指定した所です井坂のです あの駅から降りて5分ぐらいですので行っ てみると分かりますけどそういうところが 近くになり ますこれはさきお話しまし たでえアインシュタインが出てきます アインシュタインがあ日本へえ来た時に 案内役にこの長岡半太郎さんと物ですねと 学の三島があの案内役になったですけど あの写真は小石川植物園をご夫婦を案内 する写真ですけどその当時はあのドイツ語 ペラペラですのでえ島えまドイツ語で接待 をしたという記録が残って ますま最後ね最後こういう形で研究室で 研究してみまし たでえ77歳え79と79って書いてあり ます77ですえ亡くなられてえ新聞に乗っ た記事ですけどあの群馬県にへ辻の調査を しに行かれて肺炎にかかって急遽あの東京 の慶王病院に入院されたけどもま2日が3 日後に亡くなられたということでその2日 後にさっき紹介した松野富太郎の追悼文が 出てくるわけですそんな風でま一生を終え られるわけ です こんなまあ一生でしたけどこれはお若です ねでこれからが今日のちょっとお話です けどうん第4はまとめに入ってきますあの 三島学白に学ぶとことで1に考え方に学ぶ 2に生き方に学ぶと2つにわりましたで 吉士が研究に取り組む考え方学に対する その考え形はどんなもんがあったんだろう かちゅうことであのま残された言葉の中 から拾っていき ますまず1考え方にもくということで56 がありましてね えっと資料の今日おした資料 の3ページの11 [拍手] 番ここをちょっと読んでいますと研究を するということは実物をよく察してできる だけ研究実験研究をしていただきたいと いうことです実験して知得たことは深く 脳裏に浸透して忘れることはありません いたずらに書物を通読して江た自身に 比べればその正確なことは言うまでもあり ませんという風に書いており ますこのこととです ね このことからですねちょっと上の前の ちょっとえてみてくださいえっと実物を元 にすること舞台を根拠にすること実際に

体験することそれが学びであるとそういう 信念というかまポリシーがですねもう一貫 して貫かれておるんですね島先生のこの あの実績を見る とそうするとです ねそうしてえ岩村の資料官の美学ぶ拍 コーナーに昔のその学が乗ってますあの書 があ二23頃に書いたあの文章ですけども これをちょっと読んでみるとこれあの資料 の1番裏ですちょっと多くきましたけど あの読みにくいですが額をなすはよろしく 実をす かの独学宇いに証の間に高す笑うべきなと いう文章を大きな あの紙に書いてえ残しておるわけですけど これ意味はですね本当の学問というのは 実際に役立つものでないといかないとあの 俗学理屈っぽいやはあの人の文章の文章を 取り上げてえまあヘリックスを言うんだ けどもそういうやつは笑うべきなるという ことでえ実際に役立つ学問こそ本当の学問 であるとあの具体を大事にしなさいという ことを強く言ってよわけですま簡単に言え ば空論より実学というそういう風に言える と思いますがこういう姿勢を収支えつかれ たこれが拍手の信言というか学務に対する 考え方であろうかと思い ます で次へ行き ますで次は生き方に学ぶこれがですね なかなか難しかったわけですがちょっと 画面見てください え三吉学の天気を開けながらさっき人生を 語ったわけですけどうん全部で7つえ1つ 目はあの岩村へ明治によって来着と2つ目 は福井のおじさんとこへ行ったとず楽しん なもでえ3つ目は教員の要請上に入った こと4つ目は卒業して岐阜県の教員になっ たことで5つ目に教員を辞めて東京大学 よりいったことあ6つ目にえ専門を決めの 時に文学ではなくて理学に行ったことでえ ま最後にまドイツで留学したことあたりが 美島の人生を変えた大きな天気であると いうふに思ってちょっと羅列しましけども あの画面の5番6番を見てくださいあえて 赤字で書きましたなんでかちゅうと56 以外はあのま美真博士があのどうしも努力 してもどうしようもない天気です名震と いうのはましょうないもんでまそれに 任せるしょないと劣った合で服行くのも どうしようもなかったところが5番6番っ というのは本人の意が強く書てですと先生 をやめて東京大学へ行くというのは自分が 決断せんといけないわけです6番の文学を やめて植物学へくのも自分の決断です5番

6番のその決断の裏には何があったかを こう考えてそれが吉なのそのま生き方に つがるんだろうということでちょっとここ を考えてみたいと思い ます うんと今言ったこですねなぜ教員を辞めて 大学行ったのかクエンになぜ文学せて植物 学に住んだのかこの2つの名に迫ることが 三島博士の行き方を理解することにつがる のではないかということですで1つ目 え東京大学行ったことね教員をやめてで そこに至るまでにいろんな壁があるんです よあの母と弟の不要はどうするかあの岩村 にはですねおかさんと2人のがおるわけ ですほんで長男が教員になって定期的な あのお金がもらえるなったのでそれで面倒 を見てくわけですけどもも東な行っちゃ目 見れへんかなっちゃうんですねでさらに 福井県への借金はどう返済するのかこれも あのあれですだから大学の学費はどうする のかと心配事が大変あって壁は高いんです けどもあえて自分の判断で行くわけです なんでからということなんです けどちゃんと理由があるんですねうん牧野 富太郎の証の中に えっと君はの有名な乱者佐藤先生の問を 継ぐということでえつぐということで少年 時代には大分石を勉強せされようであった と同君の書いた文章に拙いものはすけじゃ ないその佐藤一歳先生の学頭を学頭をつぐ これこれですあの江戸江戸の江戸屋敷で 生まれてですねあのその近くに 湯島制度かな今で言うとし制度ですけど昔 はあそこに翔平だから学問所あって幕軍の 学問所があったわけですその校長に佐藤 一歳という人物がなっておってその佐藤1 歳とご存知のように岩村ハ出身の大先輩な んですね立派な方ですその方が身近におら れてそのバ直轄の学問者の校長やられると でえ非常に頭のいい岩村班出身の宮島は班 からもくお父さんからも あの佐藤1歳の後をつけということを 小さいうちから言われてきてそのつもりで おったということでえこんなこんなてね 教員で落ちちゃいたんとだからあなんとか 大学へ行って勉強して佐藤一先生の学童を ついて立派な人物になって岩村班の名誉を 分けなかっというそういういわゆるま自分 の夢というよりも使命ですね宿命を感じて おったと考えた方がは妥当ではないかと いう風に思いますでこれが1つのま強い 同気であったという風に想像しますこれは 私のあの独断ですよ皆さんどうるかわから んけど状況から考えとそうではないかと いうことですで出なければ31kmも歩い

てあのおうんこれ後話多くした努力を パーンして植物学へ行くはずがないんです よでこれがですねその5歳頃にえちょっと ちょっとイメージなですけどあの江戸屋敷 からちょっと歩いていくと学文上があり ますでちょこちょことお父さんに連れられ てこの学校の将来は学長になるんだぞち いう風にあの話されてですねその日になっ てあのあの声の心出しを立てたという ところがあるんかなと思い ますでここでポイントになるはあのマタの 証言です三義君が特にこの教科書を書いた のは自分がドイツで留学中主として五道の 経済を助くるのがその目的だったこの言葉 ですね大変な頻度なんですよ三島があの 言っとるあの中にはね生涯よに渡ってこの 自分の身長よりもこのあの高い本書いてと 書いてありますけどあの教員時代に3冊の 教科書を書きましたあれは1つはですね 五藤神兵があの文書を書くぐらいの有名な 本でしたでなんで書いたかというとその時 のその教科書に使うためであったあったあ のはもちろんだけどもその東京へ行って 勉強する金を稼ぐために本を書いたわけ ですあから考えるこの文章うん経済を 助くるために本書いてありますけど当時 あの本を売って印税を儲けてま金が入ると いうことでえ2年間ちょっとの小学校の 教員時代にえ教科書を3冊書いていわゆる 貯金をしたんですよあの東京大学行って 文学を勉強するためにえ学位をするのと 福井の借金を返すのと岩村の家族を夜の ためのお金を本で稼いだと考えると全ても があってくるあの最初は私ね本当に純粋に あの小学校の子供のために教科者が足ら ないから本を書いたと思っとったんです けど島学の人生を追ってくとやっぱりそこ にねそういう目的があるんじゃないそう 考えないとささらわけ ですま一言言うと金儲けのために本を書い た2つ目の目的はそういう ことでえ1つ目のあの解明ですけど佐藤 一切先生の学頭をつきたかったこれがま 同期でしょう相当な強い気持ちがあったん だろとこれはあの夢でも何でもないです 使命です使命と持っておったんじゃないか なと最大の心配事であった企業は教員時代 の教科者の執筆業で賄われたであろうと いうことが想像でき ますで次にあのまそれまとめるとですねね 本当にあのま吉島先生はあのま心情の方 やったけど石橋を叩いて渡らないほどの 身長派の美義は夢夢というよりも使命を 追いかけるために石橋以上の備をして波だ 石橋以上というのは本の出出席ですねうん

こういうことが言んじゃないかということ です ねでえま次謎になんで文学を先行したのか ということについてちょっとあの触れてみ たいと思いますえ苦労して東京帝国大学の 代りに入りそれを無事終了しさあやっと 文学と勉強ができるとこできたと夢がか ないジトが開けたこのまま文学あるいは 哲学の道を進めば佐藤一歳先生のような 学者になれるあれほど望んできた道なのに なぜ文学を捨て植物学の道を選んだのかと いうのが大きな疑問として残り ますでそのヒント明治 維新明治維新で価値が大きく変わった え資料のね資料 の3ページの真ん中Bとたし10 番色んな方によってちょっとこの言葉が あの引っかかったので紹介しますえBと たしがま生きとるうちに自分に対して長寿 を書いたんですけどその中に異人や英雄は その時代とセットにして考えなければなら ないと100年前や100年後にその同じ 人物が異人や英雄になり得たかその時は 案外普通の凡人である だから何が言いたいかというとこの時代 明治という時代が大きなあの原因では なかったかということが言えるわけ ですあ謎にあ謎2のヒトえ佐藤1歳の格闘 を継ぐというのは夢ではなくて使命であっ た考えた方がいいだからから自分でま 追いかける夢ではなくて黒回りからそうさ せられた使命宿命と考えた方が あ理解できるということですで世の中が 変わり価値観が大きく変わった明治の世で は学ぶの使命はすでに崩壊していた岩村班 も消滅授業や感覚ももはや過去の学問で あったとそういう現実を見た時に吉は おそらく あの今までの努力それからこれからの行先 を失ってしまったんではないかという風に 思い ますで 次そこでそこそんな状況の時に牧の富太郎 と出会うんですよあのあってですねこの 時代牧の富太郎を見てこんな生き方も許さ れるのだあ天津爛漫であの好きなことやっ て小学校の中大学やっとるとでもとこんな やもおるだということでもう価値観が全部 なしになっちゃう ねで え迷ちゃ ますほんでちょっとまとめに入ってます けど謎2の解明には材料は足してますけど ま今言ったように使命が崩壊した今堅実 だし学ぶであるが堅実であるがゆえに自分

が番頼れる植物学を選んだまたそれが夢で もあった時代の波に乗れと乗れたという こと時代の風をうまく受け入れたという ことではなかろうかということなんです けどあの何回も言いますけど教員を辞めた のはあ使命を果たすため文化こ捨て職がが やんだのは夢を追いかけるたということで はないかなとはと思い ますうんうんなんとか一言でまめないかな という色々考えたんだけど近代日本の創世 という激同の時代に運命に流されず時代と 共に自分を行ったま高校の人であったかな とそんな風にえまあ経度の先人 を書き付けられるかなということは思い ます [拍手] はい美ファミリーです あの関心することはですねま8人か9人 子供をりましたけど全員が成人をしてえ 立派な家族を作ってます牧野富太郎博士は 13人子供を作って6人しか成人してませ ん7人が子供死んでしまいますそれと思う と全員ががこう成人してねえ立派な人に なってるまあの家庭環境も違っただろうだ けどもかなりえそういう面ではあ家庭関係 を大事にした方かなという風に思い ます あの明治という時代時代のま力いうものは 吉村先生のえに大きく影響したなかなと いうあの時代 をというのは大事な要素かなと思い ますちょっと話が取れますけど先日その パソコンでですねえたまにその映画を見る んですけど あのうさぎお石というあの映画があります え知ってみる方もあると思いますがあ うさぎお石のあの主人公はあの山際克と いう料理学者ですで同じ爆発に生まれて 同じように来たんですけども彼もですね え自分の夢をかけて他のところをかなり 犠牲にした人ですけども おその方はですね新州上田班の山本からあ 江戸の山際の町医者のとこへあの洋子に 入ったんですで洋子に入って結婚してから あ行って勉強したわけですけどあの街医者 の用はなんとか早く医者になって家を継い てほしいという希望があったんだけども あのその党の本人は大学に残ってなんとか 病理学の勉強をして えしたいという希望があってまついには 自分のあの意見を通してやるんですけども その時にそのうんなんうかなあのその町者 洋の町者はあの 昔は反の殿様のお医者さんで5店員さん ですねドライの流をっったんですけど今で

は町でえプライが高いもんだから患者も そこやへんと落ちぶれる一方であるという ことでしたけどその山際勝三郎のその人生 の映画を見ながら私はその山際勝郎の主人 公ではなくてその洋に大変興味を持ちまし てねがその画面に出るたに必ず言う言葉が あるんですよよがよならよがよなら世がよ なら俺だって一端の人間で偉い様になるん だつまり江戸時代ならお店員様であの裕が あの生活がてきたんだけど見とよよになっ たもんだからあのちょっと落ちれとと世が 世 ならっていうのはこれ時代ですこういう 時代だから私はダメになったということを 意識に行ってま知ていくわけですけどその というのは人の人生あるいはその方に対し て大変影響が強いそういうものものである ということをあの強く思って この三学ぶのこの障害をよは世であったた にま成功したということが言えるんじゃ ないかというふに思います価値が全く転換 する時全く変わる時にあの人の人生はあの 大きく変わると心えまそうですねそれから もう1つあの大きな転換期が戦後ですね 戦後やた時に価値が全く変わったその時も 大きな変化があってその時代に大きくま羽 たしもおるかしれまんだからあの時代と いうのをどう生きるかで人の人生というの はあのかなり影響されてくるとと思うと令 和の時代どういう時代かとと考えるとま ちょっと一では言えませんけどこの時代を どうきたらま世に出れるかあるいは自分の 幸せが追求できるかというところも考えて いくとま あ1つのま結論までにしても有意な人生が 遅れるかなということを思うところです けど難しいですねという私も大した人生を 売ってませんもん で皆さんもあの所の生活があると思います けどこういうレオの時代にどういう言い方 をするとまより豊かな人生になるかという ちょっと考えてみられるといいかもしれ ませ んという風でえ1時間半長かったです かはいありがとうございまし たはいさんありがとうございましたここで えっとご質問がございましたらおしたいと 思い ます物ある方いらっしゃいますでしょう [音楽] かはい内よですのでえっとはい宮さんどう もありがとうございましたここではいもう 一度本日の講師三明勝さんに大きな拍手を お願いし ます以上を持ちまして江山岳塾天人学習

講座を終了としますお忘れ物などないよう えお気をつけてお帰りください本日は ありがとうございまし [音楽] た

【令和5年度】先人学習講座~「清流の国ぎふ」文化祭2024関連事業~

恵那の自然が植物博士三好学の志と学びの礎となり、植物の研究や自然環境の保護に尽力し、現在の「文化財保護法」の前身である「史蹟名勝天然記念物保存法」の成立にも貢献しました。

今年前期のNHK朝の連続テレビ小説『らんまん』の主人公で植物学者の牧野富太郎とは東京帝国大学で植物学を一緒に研究した仲です。天真爛漫な牧野富太郎とは対照的に、ひたすら研究に没頭した三好学とのつながりも紹介しながら、三好学の生き様を学びます。

演題:孤高の植物学者 三好 学
講師:三宅 勝義 氏(市教育委員会生涯学習課)
日時:令和5年10月14日(土曜日)午前10時~
会場:市共同福祉会館

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