親鸞和讃を読む「不了仏智のしるしには」 松原大致師

ナマンだマダマだマブス ママス ナマス ナマス マブス 万万マス 何 不良物事の印には如来の処置を疑惑して 前本信じ在福信じ前本を頼めば返事に 埋まる返事に止まるなりと ナダナダあようこそお参りくださいました ああまあの年末なんか年末スペシャル みたいになってるんですけども一応あの 年末にはあのうちのお寺でえねえさせて いただくということ えまあ今日は割とあったかいのでねえまお 聞きになる方もあるとお聞きやすいかなと は思いますはいえまお付き合いいただき たいと思いますけれどもちょっと今 グダグダで申し訳ないですもう1回言い ますけど不良物の印にはね如来の処置を 疑惑してね在福真事前本を頼めば返事に 止まるないとえというご和さでえござい ますはいえこのご和さあ どうですかね皆さんこのごアさんであのご 法は聞いたことあるなっていう方 いらっしゃいますいらっしゃらないと いらっしゃらないですねあうんなかなか これねあのお聞きにならないと思うんです よねちょっとその辺のねお話もね含めて 申し上げたいんですけどねああま とりあえずあのこれは会議さというご和さ でえございますえ肖像松和さてえご存じ ですかねええまあの三条和産っていうのが ございますねえ上土和産で高層和産で肖像 松和さっていうのが3条和さという風に 申しますでえま皆さんがねよくご存知なの はミダジブのこの方はていうようねああ いうよなご和算が上土和さっていうのに なるんですけども信乱証人がえ85歳を 超えてからえお作りになったご和さの1つ なんですねでえそうですね肖像松尾さんで 1番多分有名なのは音読さんですかねあの 音読さんて言っただけであ如来大の音読は ってちょっと不はねあのお西やお東色々 違うかもしれませんが実はあの順番で言う たらそのご話さの後に来るのがあのこの今 の申し上げたゴアさなんですねはいでえ 今日はこのことについてねえ申したいなっ てえ思うんですはいま聞かせていただき たいなと思いますでえーそうですねうんま 疑いということがあまテーマになります うん疑い罪ですねでまこれも言うてみれば え私たちが日常生活の中でえ疑うという ような言葉あるいは信じるという言葉を

使ってますけれども実はねあのその言葉の 意味とはちょっと違うというかあその辺も ねちょっと含めてえ少しずつねえ申し上げ ていきたいなって思うんですよいやなんで こういう風にね申し上げるかって言います とね私思うんですけどあの仏の話が なかなかこう分からないっていうねえ いろんなご意見を聞かしていただきますえ あのこれまこないだ思い出したんですけど も10年ほど前私ねあのある法人の席で法 さしていただいた途中でお話さぎられまし てごさんそんな難しい話されてもわらには 分からんて言われたことはあったんですよ うんであのまそれはねあのこっちのま技術 的な問題が多分あると思いますでそれは 真摯に受け止めなきゃいかんと思うんです ようんでも改めてその時話した内容とかを 考えてみるとそんなに難しいこと言ってる つもりもなかったんですねでやっぱりその 聞かしてもらうって中にままず意味が違 うっていうことが大きくあるっていうのは やっぱりあの気がつきましねいわゆる一般 に私たちが受け取っている言葉の意味と こうなんかこう仏さんのまま知恵のお言葉 っていうのが少しそのなんかずれ るっていうかねえそういうところのまあの 違いっていうのも感じましたしねま色々 あるんですけどねそれはね事情がねうんで もう1つ言うとやっぱ今日のこの疑いと いうことにそれはあの大きく関わる問題だ と思ってねちょっと思い出したんですよ ああと思ってねなんかそうですね あのでもう1回言いますとこのごさん やっぱ聞いたことないっていうのはねうん あの特にま私はこう上土新集本願寺派おと いうところに一応所属をしておりますので えて言われるんですよあの法和をねお話し する時にあの法和の席にはねあの初心者の 方とねあのなんかこうよくね普段からお 聞きになってらっしゃる方とねかま いろんなせな筋の専門家がいるとでそう いう方々にもちゃんと通じる話をしなさい とえと言われますで特にこの1番最初にね 今日初めてご法を聞かれる方々がおられる とそのことに十分配慮してえご法案をお 伝えしてくださいよという風にね特にあの 伝動員っていうところのに行かしてもらい ますとあのそういう風に指導を受けるん ですようんであのねそこがねま1つのなん ていうかな問題というかう別に あのそういう指導方法が問題というよりも あの初心者の方にはねあの極めて分かり やすい話でそしてなんていうかすっと入っ てくる肯定的な内容の方がいいとえ大体 一般的に思われているようですしで私も

あれで言われましたあるそれこそ精神家の 医者の方にねあの否定的な言葉っていうの はあの人間のには入りにくいからね肯定的 な言葉であの語った方がいいよって めちゃくちゃ言われましたうんあのそれ すごいよく分かってるつもりなんです こっちもあの少しはでもあの仏教の落の話 ってどうしたってこうああでもなければ こうでもないでこうでもないからああでも ないっていう風な形でやっぱりあの厳密に こう練り上げられていくっていうこはある んですよねうんなのでなかなかそうもいか で今日のご話さってのはねえ会議会議さ ってちょっと書いてましょうかねうんあの レジュメにもねあの書いてあります けど会議なんですねでまこれ戒しめ るっていうの意味がありますで義って疑い ですけどもま義だけ言うとねちょっとね あの偽っていうような意味もねあの言葉で は聞こえてしまうんでねま疑いてなるべく 言うようにしておきますであの実はあの 感動さっていうのがね上道和さの1番最初 にありますでええそれはねあのみの明子を 唱えつつ新人誠に売る人は年の心常にして ぶっとほる思いありっていうよねえご和算 でえ始まりますでその後にもう1つねあの 会議のご和算があるんですけれどもまそれ はあのレジュメに書いてありますんで この真を進めるという形ですね私たちにご 新人を進めてくださるでもう1つはこう義 という形ねその私たちのこう本来持って おる性質というかどうしても疑ってしまう というその疑い心を戒めるこれね戒めると いうそういう風なこの両面でえ感動さんて いうのはまず出来上がってるんですようん ということはねいいですかあのごさてね誰 のために書かれたのかこれは明らかにこう それこそ当時文字も読めない方々がみ ながら少しずつね仏法に触れていただくと いうかね味わっていくようにやっぱり工夫 されて診断所に作られた歌ですよねでその 中にねこう感動産んちうだも言うたらま これはあの文明本になってくるんですけど 文明本ちゃま今連日商人が開発されたね あのいわゆるご和さなんだけどでそれには ちゃちゃんとこう冒頭にこうこういう風に 掲げられてるんですよ関心と会議という ような形でこれはねだからもう言うたら車 の両輪というかあのどちらもかけてはなら ないしでま言うたら同じことのまま表裏と いうとどっちが表でどっちが裏なんだって 言うんであれですけど2つで1つなんです よこれは2つで1つどっちも欠かせないの これはでもどっちかというとねこっちなん ですよ明らかにほわってであのそんなにだ

から会議さとかねあのわざわざあの 取り上げるっていうことが少ないっていう のはそういうことになってですねだって 肯定的にじゃないですやっぱり私たちには 疑いがあるねだからこういう風ではま飽き ませんなというようなま内容に私たちは やっぱどうしても聞こえるんですようん そういう風に聞こえるようになって るっていうのがま疑いということの本質か もしれませんけれどもなのでこの関心党 会議っていうことがやっぱりねあのどっち もこうねえ本当はバランスよくバランスよ くっていうことじゃないんですけどね本当 はねやっぱりねここがねあのあの大切だと 思いますだからこっちばっかりあのお話を される私たちもこうどうしても聞いて聞き たくなるというかねなんかそういうような うんな寄り子みするというかねそういう ことがやっぱりあるんだろうなって思うん ですまそういうことでちょっと今日はえ 不良物事っていうことについて申し上げ ますでえっとレジュメですねえの最初の方 行きましょうかうんえっとま現代5訳これ はもう私が勝手にえあのしたんですけれど もねちょっともう読んでみますねえあ仏の 知恵にえ新人できない人の印兆候ですねと してえあ物のえ物以外の不思議地不可正地 え大場高知え無藤無理最上承知という七の 働きをうん知恵に手さげながらもすぐに 従うことなく疑いでどうしようもなくえ 人間の前膜の行為によってえ罪やあねえ服 が起こるとねえ物事でなくね自分が良いと 思う価値観を信じてえ修行してしまうので でその結果として真実の上土ではない返事 という仮の上土答弁化審度にとまって しまうのですとままこのようにま仮にえね え訳させていただきましたうんえそうなん ですねままずこれを言うならばまずま新人 っていうことをね少しま言わないといけ ないんですけどそれだけでもちょっと 終わってしまうので少し少しだけ かいつまんでね申し上げたいと思いますで やっぱ私たちが仏さん大むってねなんかね あのあった時ですよね何もない時って あんまり手合わさるっていうことはま普段 あんまないかなと思いますでいうかうん どうですかねご縁がやっぱりねえ人が なくなったということをねご縁として 初めてえ仏壇にあるいはねご本尊にこう手 を合わせるっていうようなねことが あるいはお寺に参ったのはそこからだって いう方がまうちのごモトさんでもま非常に 多いですうんなのでやっぱりねこうま もちろん家のお仏壇ねある方はあ普段から 手合わせていらっしゃった方もま中には

おられるでしょうけどもねでもねやっぱ おられますからねあのいろんな方々がね うん例えばね仏壇って別に人がなくなって なくねあのあってもいいま今お仏壇をその ものを買われる方少ないけどね今はもう それこそお仏壇をどうしようかって話 ばっかり聞こえてきますけれどもうんまで もともかくねあのこの家はまだ荒本が出て ないでお仏壇はいりませんよねというよう なね話を私も聞いたことがありますでも中 にはあのま今深夜とかね本家っていう言葉 もちょっとこれここねあの三重県って すごい今普通に一般的な田舎のところなん でそういうことがあるんですがあの本家が ねあの新しいお物壇を買う時にね深夜に その本家のオ物壇を譲ってあげてで深夜 さんが新しいお仏壇をお迎えするという ようなことが実際ずっとやってきたんです よこの辺だってうんだからあの昔の方々 だっってちゃんとあのご存知の方はね ちゃんとそういう風にねえ聞いて いらっしゃったんですねはいまそういう こともありますけれどもでもともかくもう なんか手を合わせるっつとねま人が亡くな るっていうことがやっぱ大きいご縁でも ありますうんなんであそうだだからねあ 思い出したあの法事はなんか上土新集に おける法事の意味とかねあのあるいはなん でどういう風に放銃を務めるんですかて いうようなご質問がなんかあの質問の方に フォームの方にあったそうなんでちょっと ついでにというかねあの申し上げたいん ですけどやっぱあの女童新集のね法事法事 っていわゆるま年会包容ということでま あの言いますとうんまあねどういう風に 勤めるって言ってもまあま1周期3回期と かあるいは日19日とかま色々あります けれどもうんまずあのよく聞かれることは 何会期まで勤めないかんのですかて言と別 にそういう決まりはないですようんであの なんかいけないんじゃなくてねあの勤め たいから勤めさせていただくっていうこと が一番大事なことやとま思いますけれども うんでなんて言いますかねあの法事のそ 位置づけっていうのもねあの方をなんか 私たちが慰めるっていう方向性じゃないて いうことがすごく大切なことやと思います ねうんつまりこう仏さんになられてねあれ お上土にねえ強情されたあ泣き方はがね まあまあでまそういう風に本当ストンと 落ちてればいいですけれどもましかしね なんかたたられるといかんとかねなんか ああいうはいろんなねえまご心配があって ねねえそうならないようにお勤めすると いうわけではまないですよねだからあのお

上土にから私たちにねこう働きかけて くださっておるそのお働きをま聞かして いただくうんまそういう風なま位置付けに なるかと思いますだからま文法苦という ような言葉もございますけれどもねうん ただま純粋にね泣き方を思い浮かべてね 今頃あの方どうしとんのやろっていう風に 手合わせるっていうところからま始まるん やと思いますよな何事ともねうん大体あの 宗教の怒りっていうのはまそういうところ からやっぱり起こってきたんじゃない かってま言われてもいますしまそうなん じゃないかと思いますよねやっぱり人が 亡くなるうんでうん亡くなった方はどこへ 行ったんだろうねそもそもよく考えたら 私たちはどっから生まれてきたんやろうっ てやっぱりそういうところからうん スタートしてると思いますからうんただ それがうんあの人間の素朴な感情でやそう なんですけどうんうんそれで本当にねそれ だけでいいのかっていうことをこの信男所 にっていう方は多分私たちに伝えて くださっておるんではないかなって思うん ですねうんでここにねちょっと申し上げ たいんですけどもまあの支っていうことに ついてはねそこにまあのまパッと書いとき ましたんであのそれをご覧になっといて いただいてうんあの在福信じ前本を頼めば 返事に止まるなとここがねちょっと今日の 鍵になっていきますはいあでも不良ぶち っていうことは言わないといけませんけど 不良ぶちっていうのはあのそうですねこれ 悟るっていう意味なんです ね うん物を悟らずということになりますはい 物を悟らずっていうことですねだからあの 仏さんの知恵をうんなんとか私たちは やっぱり特にほは聞くとねあの私ずっと そうやって聞いてきましたし今でもま やっぱりそうやって聞いてるんですけど あの分かりたいんですよね どこまでも理解して自分がこう解釈したい んですよで自分のものにしてでどうやって いうことにやっぱり手柄にやっぱりしよう とどっかでしてると思うんですねでまそれ はやらないんですけれどもでもねこの不良 ぶちっていうことはうんこれ重い言葉です ねあの私たちにね物を悟るということが あの不可能だということをねあの表して くださっておるってまずここが大事ですね うんただねこのそう如来の処置を疑惑して うんそう疑惑ですねただこの疑惑っって いう言葉があの私たちはうんそうですね 一般的に疑惑って言うとねこうじゃないか ああじゃないかねこんなことはあるある

はずないんじゃないかとかねえなんかこう いう風にねこう疑いっていうことをま考え てますけどちょっと違うほんの少し違うん ですねはいそれを少し申し上げていきます でえそうもう1つ在福真事っていうこと ですねえま真在福心ってままとめさせて もらいましたけどもうんこれはま自分の考 や行いだけがよりどころと確信してでまあ さんのこう家法ですねえを求めようとする お心のことをまあ在福を信じる心っていう 風にま申しますでままあ一般的にはそう そうですよね私はそうやって思ってきまし たよあのだってねま私またまたまお寺でね 生まれさせていただいてずっとここで育っ てきましたけどもま手合わせ るっていうことはねなんかお願いしとるん やと思ってましたもんうんでもう1つ言う ならねあのそうあのううちのね連れ合いも ねあの上土新州のモントの家なんです けれどもであの法事とかねあのなんで勤め てるかてあんまりこうよく分からなかった みたいですけれどもうんなんかやっぱりね あのそもそも小心げっていうものに例えば ね読むでしょ法事とかにねえあるいは安田 教産んとか三武教とかそういうのにそんな 深い意味が私たちにね投げかけられとる 意味があるとは思ってなかったって言って ますねうんあこれ意味があるんやって思わ れたそうですうんでしかももう1つ言う ならばナマダブスでねうんあの6時のお 名語ねありますねナマダブスねお年物です けどもそれがねお経さんの中に解かれて おる言葉やていうことも知らなかったって おしますねうんうんそうですよだからうん なんか呪文のように聞こえていたしだから それでなんかお願い事をするのがま法事な んだっていう風にずっと思ってこられ たって言ってますねうんだからまやっぱり 一般的にはそういうことなんやと思います ようんなんでねえだから在福を信じるって だか自分たちはね報じって悪いことやとは 思いませんやそらね亡くなった方をしんで ねでおばさん読んでね最近は食事なくだっ たけどねあれあれなかなかもう復活しませ んねまいいんですけどねただあなかなかお 話する機会がちょっとだいぶ減りましたね だからねうんでまともかくもでま悪いこと やと思いませんからなんかいいことをして るっていうやっぱりね思いもありますしね 大体お金かけかけてますからねあれかかる もんねだあのお寺だって保持務めるんです よあのちゃんとねあの愛情校さんとかのね お寺の方ねごさん読んでえさしてもらい ますけどうんでもねなんかこう そのことそのものがなんかこうお願い事の

ようにやっぱり思ってしまいますうんでも そうではあなっていうことをねここで おっしゃってくださっておるんですねうん はいさあそこなんですけれどもねさあどこ から行こうかなそうその世間でいうところ の疑いっていうこととこう仏教で解いて おるところの疑いっていうことがねどう いう風にちょっと違うのかっていうことに ついても申し上げる前に信じ るっていうことについても申し上げない かんなこれはこっちも言わないかんので 自分で言うたからこれねあの信じるって 言いますと多分このあさんはね私たちいい ことしてんねやからね悪いようにはして くれやんやろとねうんな年会法も務めとる しね私はなんかお念物とも唱えとるしねお 墓もちゃんと掃除しとるしねだからなんか ね何々ダブで唱えとったらねまあ悪いよう にはしてくれんだろうとね多分ねいつか わからんけれどもね私が死んでいく時には ねお上土とかいうとやらいうところにね私 を救ってってくれるんじゃないかとねなん となくそう思うとうんでそれがなんとなく そう思うがだんだんだんだんあそうやなと そうに違いないきっとそうだとね間違い ないぐらいになってきたらこうご新人を得 たとやっぱ思ってるじゃないですかで私 そう思ってましたよ本当にだってね信じ るって新人って書いてるんだもんだって私 が信じるんでしょだったらそれが固まった 時に初めてよしね上土に行くことが間違い ない意味なんだって自分が思えるように なったらねそしたら新人を得たとねそう いうことなんやろなと思ってずっと聞いて みましたよ和もうんいやそりはそうです ずっとね うんこところがですわところがあのこのあ 山長仏さんはそうやって信じられるように なるもんかって言ったらまあさんだけじゃ ないんですけどおそらくはあらゆるものっ て人間が起こすね積み上げていく心で 100%信じられるようになるかったそれ 無理ですねうんどっかにいやそれ違うん じゃないかっていうかねうんやっぱあり ますねでそれをなんかうう気がついてる人 っていうのがいてでもだいぶもう塗り固め てしまったので今更引くことができないっ ていう風になるっていうことがやっぱある んですよねこれが怖いところで例えばだ から私は間違いなくねご新人を得たとねだ からうんもうお上土に私が王女することは 間違いないんだとねそこまでだいぶあの そういう風に何べも何べもそう自分に自分 に言い聞かせて言い聞かせて言い聞かせて こうを信じられるようになったとうんそう

いう風になっていくとうんやっぱりねあの 不安なんですねどっかで心の中でそうじゃ ないかもしれないっていうのがでもそれを ひた隠しにぎゅっと押し込めますんで余計 にねそこちょっと続かれますとあのま大体 劣化のごとくあの起こったりものすごい いい勢いで反論します自分と違う意見に ぶつかりますとねうんだからすごく大変な ことになるんですよねうんあのこれこれ こじらせるって言うと悪いですけどまでも あえて言うならそうですよねうんでもね これねあのやっぱりね自分の都合を信じて ますからどこまで言ってもねうんだ例えば ですね私もそう単二章の第2条でしたかね お話した時にねあの地獄ぞ一条住みかぞ かしっていう言葉がありましてねうんだ からあの間違いなくねあの地獄落ちのみん だとねうん例え年少にすかされまらた物し て地獄に落ちたりともさらに後悔全からら ずそろなんて言葉まで出てくるねうんでま もう地獄が一条なんだってってしなに おっしゃってるわけですよもうもうもう 本当にあの徹底的におっしゃってるであの で もこう帰ってきたあの感想がでもそんな 私たちも上土に救ってくださるんですよ ねっていう風に来たんですよねうんそう ですねやっぱそそこそこなんだと思だから まそれはうん あの確かにお経さんをそうやって呼んで いくとうんまそれは王城一条っていうこと は出てくるねうん間違いなくすくってこと は出てくるでもそんな私たちをでも地獄に は落としてくれないんでしょとねお上土に 救ってくれるんでしょっていう風に言うん ですけどうんそういう風なことをあそこで 言ってるんではないと思いますはいない ないんですね なんですどこまでも地獄に落ちるんですわ 違うそれ地獄のそこまで付き合って くださる仏さんやって言ってくださってる わけであってあのそこがねどうしてもね 地獄は嫌なんですよねだから行きたくない しで救ってくれる仏さんやからやっぱ信じ たいってそれ人間心で言やそうですよそれ はそりそうですよそんなうんそこをねどう しても信じたくなるしそうですそこでしか 信じられないっていうのがねやっぱ自力心 っていうか 在福を信じる心っていうことになってくる と思いますよねうんだから出て宗教って いうなんか役に立てるもんやと思ってる じゃないですかいやいやそうはそうですよ だって何か世の中にあるものって自分の役 に立つものかどうかで大体判断するでしょ

で今そのあの見切りがすごく早くなってる ので宗教なんかいらないっていうすぐにね スパっと切られるんていうのはあるんです けどうんまこれはでも坊さのねあの怠慢 っていうのが原因であると思いますですよ うんだけどやっぱりねそれはねあの自分が 聞いてねなんか理解して自分の心がねなん かこうに何か積み上げていってでそのこう 上の方に行ったらこう何かこうこう安心 できるようなものがこう生まれてくるん じゃないかっていうこう淡い期待とかね 自分のこう予定調和っていうようなところ で新人とかあさんとか上土っていうものに しか触れられないんですよねうんだから あの仏教の話が難しいっていうことやと 思うんですよあの基本的には根本的にはね うんだってそういう風な延長戦上でしか 聞けませんもんねうんそうなのであのそう いうのをことごとく打ち破ってくださるお 働きがあのちえの光でちえの光でそういう ことが実は真っていうことで向こうから 与えられてくるものなんでしょうねの側 からだから私たちが何かいいことをして 積み上げていってね積木のように積み上げ ていったらなんかゴールにたどり着くて いうイメージで聞いてますけれどもむしろ そうやって積み上げたものが一切バーンと こう払われるようなね向こうからもうもう それこそもう茶台がひっくり返されるよう なね天地がひっくり返されるようなことが 起こってきて初めてねなんかこうそれこそ あの地べたにあのなんていうかな あんまりそんなことやったことないです けどねあのぶん殴られてあのほっぺたが 地面につくようなことやと思うんですよ うんほんで一体これはどうなってるんだと いうようなところにうんなんか初めてね なんかこう こうなんて言いますかねうんなんかまそう いう風に破られてくるてお働きなんやと 思うんですだからあのいつからなんですか ねなんか仏さんの話ってのなんか あったかいとかありありがたいっていう風 なことになってるような気がするんですよ なんとなくねま別にま全部が全部そうじゃ ないと思うんですけどでも仏教って厳しい 推しだと思うんですよ私あのお釈迦さんっ てあるいは信男さんってねあの色々呼ん でくとねとてもじゃないけど私友達には なれないと思います ねこれこんなこと言うやつこれちょ ちょっととてもじゃないけど近によったら 多分嫌いになるやろなっていう100% 自信がありますしあの私たちが今歴史のね ねこうこうやってずっとそれこそ800年

とか2500年とかいうね時を隔てて ずっとそういうねあの歴てを経てあの お釈迦さんとか信男書に見てるから偉い方 やなって思いますけど隣に信男さんとか隣 にお釈迦さんいたらねなんじゃこのじじ ぐらいになると思いますよ私はそれは自信 ありますねあのなんなんこいつっていう風 にしか多分思わないと思ううんだやっぱ そういうことなんやと思いますねうんでだ からねあちもこれねあの疑惑さってねあの 23種え検知社本ですの22種もあるん ですよでしかも内容ってねあのそんなに 変わらないですうん中身はねそんなにわか ない本当に言うたら言う悪いけどね しつこいしつこいってごめんなさいしにな ちゃべも同じこと言うんだよあある意味で はこれ返事満とかねああ義常待遇っていう ような言葉がありますうん議場待遇うんま そあ退治ってありますよねおあのお母さん のお腹の中におるようなま心地いいんだ そうですねうんま覚えてないけどですね はいそういうような状況であるとかけ返事 ケマですね返事ってのまこれもねまあそう やなこれねこういうあんまり図かくと いかんのですけどね図かくといかんねや けどうん まま土ね土があってその上土上土があって てこんこんな図では書けないんですよこれ 書いちゃいかんですけど上土があってその 上土のその外側にあるんじゃなくてねこう 上土の中にねあのあの返事まケって書い ちゃった前はまあまあええわま返事で一緒 な一緒なんですけどね返事ということがま あるというままイメージイメージっちゅう かまでもこういう風にしか私たちの計いで は捉えられないんでしょうがないと思い ますね放虫のけなんていう言いしますねま だから土っては報土と言うんです けど報土っていうのはおあのあさんのま 願いがえ成就してその報いとして与えられ たあ国土仏国土のこと報道って言います けどだ放虫の系なんていう言い方します けどそのつまりだからねあの方便っていう ことなん です方便っていうとでもこれもだからその の社会で嘘も方便って思ってるから方便 って言っとあ嘘のことって思うけど違うん ですこれウパーヤっていう言葉でござい ましてあの真実に向かわせる働きって意味 なんですようんだから言うてみればあの 工事やるとねあの橋なんかの掛け替え工事 なんかすると隣に仮橋ちゅうの作作る でしょで本橋の方の修復をするじゃない ですかで本橋の修復してる間は仮橋じゃ ないと向こうの側にの騎士にとりつけない

ですよねでもその仮橋っていうのは あくまで本橋ががねあのちゃんと工事が 終わったらもう取り外さされるもんですが でもじゃあそんないらんのかったらそれ やっぱりいるんですよねだからその仮の 手段として与えられているその通路って いうようなまイメージでいいと思います うんだからねあの方便って大事なんです 大事なんですなんかね方便って言うと なんか真実よりも落ちるもんやからま最終 的にはなそれこそねあのなんか2段 ロケットのねなんか下のな燃料タンク みたいに思ってらっしゃるんであのそれ もう用が済んだら捨ててしまえばいいん やっていう感じでねまあとはさよなら みたいななそういうイメージではないん ですよそういうことではないですうんだ からと言って方便の方が大事って言ってる んじゃないよあの方便でいいんだっていう のが1番問題ですこれはダメですこれ方便 でもいいんだ甘えててもいいんだとかね あーあれ実態的なお上土っていうことでね あありがたいなあったかいなだけで済まし てもいいんだって話じゃないんですよこれ は ここがここが問題なんですよあのねこれね この5話さんの頼めば返事になんて書いて ます返事に止まるなりって書いて これ返事に止まるなりあのね返事とかけと か言ったね止まるとか生まるって書いて あるんです大体その後にはうんここが問題 なんですあの返事だけやったら別にそんな ま言うたらま方面ですからいいんですけど あのね止まっちゃうんですよそこでで るっていうのもあのそうねあの誕生日今 言わようになりましたけどね昔はそんな 誕生日って言わなかったんですよねうん今 はそれこそいろんなことでね誕生日を祝 うってまそれこそあのもうすぐ私も誕生日 なんですけどまいいんですがあのそういう 風にねなってますけど人間として生まれて いくっていうことはあんまりいいことでは あないですねうんいいことではないという かねむしろ迷いのせいがあもう1度めと いうそういうような意味ですつまり輪廻 って言いますねこれどういうことかって 言うとここ消し ますえ商事っていうような言い方があり ますけどうん商事の区会法取りなしとかね ま色々なご和さでもありますね正時いず べき道を求められた信書には言いますこれ なんかこうやって言うとなんか生しにって いうことだけやと思うやないですかでもね あの元々これリンネていう意味なんでサン サーラっていう言葉をした時に正とも訳し

たんですねだから輪廻と正司というのはね あの元々の語言が一緒だから迷いの命を 繰り返しておるという意味だから正子なん ですねうんそうあでもねもう1つ言うとね 商事って言った時に私たちはこっちには 関心があってでこっちはま今更言われんで も分かってると思ってるんですよこれは 問題ですよあの死ぬことはまだ経験して ないとでも私はもうに生きとるこっちは とりあえずええけどこのこのこれをなんと か解決したいって思うんです よこれねあのちゃいますよあのやっぱり 正直いずべき道死をいずべき道と言うて ないです正直いずべき道つまり本当か言っ たら信頼証人の正子いずべき道ち言葉から やったら私たちはそもそも死ぬということ が分からないっていうことは生きるという ことも分からないんだて言っ てる本当に人間として生まれたていうこと のがどういうことなのかっていうことすら 実は分かってない苦しんでいるんだそこに ね苦しんでるあるいは傷んでるそこが 悲しまれていくっていうことが実はこの 五和さの根幹にあるんですこのね悲しみっ ていうのがすごく大切ですねあの武徳悲実 回ごさんていうのをね前回前回ってだいぶ 前なんで覚えてらっしゃるないかもしん ないけどあのやりましたうんでもあれも やっぱあの悲なんですよねそういう風な 私たちのねあり方がねいいですかあのね ダメだって言ってるんじゃないんですよ あの自力心がダメって一言も言ってない ですからねうんダメとは言ってないけど そういうものであるということが痛まれる ね悲しまれるねそこにこう信頼所人はご 和算をなさっておるわけであってねうんだ からそういう意味でねこの会議っっていう ことがそうするといよいよ明らかになって くるんです わうん やっぱりね あのだからそうですね特にあの私はあの 本願寺派も大谷派もこうなんちうかあの どちらも法和をあの聞いてきますけどあの ねうん別どっちがいい悪いを今言うつもり はないですけれども明らかに傾向として あるのはうん特に今あのしっていうことに 関してあの話をするのは圧倒的に多いのは 本願寺派やと思うんですどっちかっていう とねうんで亡くなったら上土に王場させて いただきますよって話に大体構成はなっ てるんですただあのそもそも私たちはどど どういう風に生まれてなんでこういう風に 生まれてきたのかちその今の私たちのこう ねこう生きておるね自分自身それこそ事故

とはなんぞやってね清ざ満師っていうよう な方が言ったようにその自分自身を 掘り下げていくっていう方向性が強いのは やっぱ大谷派やと思うんですねどっちかと 言えばよ別にさあのそんなにピシっと二分 されるようなもんじゃないけどねどちらか と言えばの話ですうんあくまでねなんで 特にだから会議っていうことにする言う たらまどっちかては太谷派のねあのご法案 の方がどっちかてまこういう風なことをま 聞かれやすいかなって思いますねうんと いう風なちょっとだけの違いはあると思い ますでもまそもそもそんなにそんなに 大きくは違わないんではいでえもう少し だけ申し上げてえ休憩に入り言います けれどもえ疑いていうことがどう違うの かっていうことねな真っていうことは ちょっと一応ね申し上げたんであもう1つ だけ言っときますだから真っていうのは なんかね人間対象的に信ずるのではなくて ね向こうから如来さんが私のところにやっ てきてね私の口について何万ダブと出て くださるというま2つで1つというねえ 表現をまさまうんさしてもらいますけれど もねうん一言論という風にま簡単に言える もんではないんですけれどもねま一元って 言うとねちょっとまたそれはそれであ じゃあもう新人1つだけでいいんですねっ てなるんですよそうそういうことでも ちょっとないのでまちょっと今今日はその 話をあんまり深めるともう多分時間が なくなるのでやめときます本当はちょっと したいんですけどまちょっとま一旦ここは 置いときますわうんでまそういうねえま あちらがやってきて私のとこにとまっとっ てくださるというまそういうね私のねえ それこそ心に満ちてくださるってそれで いいと思います何万ダブをねえ唱えて くださってそれがえ私の耳に聞こえてくる っていうことがご新人ね文語名語新人歓議 っていう風にまあねえまあ第18官上問 っていうとこにはま一応出てくるんです けれどもねまそれいいですででね疑いって いうことがねどういう風になってるかって いうことちょっとレジュメのね えそうですねえ え新門類のねえ競業小門類新門類の注釈版 245ページあるいは太谷派の235 ページのとこですねえ三振すでに着外 交わることなしゆえにえ真実の一心なりと 言われてつまり三振っていうのはま死神 信行欲省というようなねえまちょっと 難しいですがえ無料授業のまあの3つのね お心です三振っていうのねでまこれがま あまご新人のこと信行というのが特に中心

にななってご新人ですよっていうことを 言われるんですけどうんまそれ一旦置い ときますがでそれは具体的にはどういう ことかたらね疑いの蓋がないんだって言ん ですよこれ疑いの蓋がないって面白い言い 方やと思いますねうん疑いの蓋やってうん 蓋っての外っていう字なんですねうんで義 がっていう風にま呼ばれるわけですでこの 義segという言葉はねアビダルマク シャロンていうその下に書いてますけども ねにおけるこれね実は煩悩の1つの異名な んですよ煩悩の名前の1つなんです義って いう言葉自体がねはいでうん日常後の義と は違って仏教における義とはねここでいい ですか仏法に会いながらもね猶予して心が 定まらない状態のことを言うん ですちょっとわかんないですねうんつまり ね えーちょっと待ってくれってことです ちょっと待ったなんですでちょっとその下 北海市代書文っていうの書きときましただ けどねこれはねあのあんまり聞いたこと ない天台大子知義ですねあ中国のこの方の おかきになったこれでもねあの難しいこと じゃなくてその天台集のもわ入門書なん ですよこれだから診断種には絶対読んで ますはいで対象大造教とかにあるんで ちょっとそっから引いときましたがえこう いう風に書いてます知義はこうおっしゃる んですね外とはねえ副外ねを持って義と なすうんよく行者の症状の全身を復 quiteして開発することを得ゆに 名付けでとなすとうんつまりえね蓋が覆っ てしまってねえその酔い心をね蓋しまして しであの新人とかそういうものがねはい 知恵を開発ね起こさないうんえだからまあ 蓋という風に名付けるんだって言ってるん ですねうんでまちょっと略して理外とは地 ですねまこれは要するに無名無名の無知 ですねの心を持ってえ利を求め猶予して 決すここで猶予って出てきますねうん猶予 ってはまモラトリアムていうね言い方も ありますねあの猶予期間ってね要大学生活 なんかモラトリアムま就職するまでは ちょっと何でもやっとれつってねま4年も 5年も過ごしたりするとねいうことであり ますけれどもねまあはいででえもしえ女等 の方ですね女っていうのはも要するに上前 まサマディとかねあいわゆるあの心を集中 してまあのまあま座禅みたいな感じですね イメージとしてはねま今で言うたくなま メディテーションま瞑想みたいな感じです ねはいをねとの方を修道するにえ無名安穏 にして審議を分かたずねうんつまりこれは あそういう風な修行したってえ無明ですし

ねあのそれであ審議ということがね本当に 明らかになることはないんだて猶予を 生ずること生ずるによってま真に決断なき はみな義と言うなりうんこれ結構しっかり 言ってる でしょ猶予生ずるによって真心に決断なき はみな義というなりです つまり仏法を聞いてまそういう風に言う てるかもしれんけどってなってるうちって いうのはそれ全部義だって言うんですね うんで世間の通義といついつにあらずて 書いてあります要に世間で言うところの 疑いとは違うよって言ってんですようん まさしく論ずれば将の義なりすなわちこれ 検体において断ずるとこないえま検体って いうのはちょっとね分かりにくいのでその 下に参考で書いておきますこれちょうど あの門類にえま十ビバシャロの引用がある のでえま書体初段の方を断るがゆえに大い にえ真あ真大いに管理すこれはまあのま 新太歓っていうようなところのま注釈なん ですけどま要するに検体っていうのはまあ あれですわねあのいわゆる証券というかね 正しくものを見られるまえまこれも12 演技っていうものがねもう仏さんの地位に よってピシっと明らかにね明確に見定める ことができるっていう状態のこと検体って 言うんですよまそれまポプには無理なん ですけどねうんでまだからでもそれが 明らかになるから真心が大いに歓喜すとは 書いてあるんですだから新人歓迎って言っ たってねそれはねあのま言うたら仏さんの 心が私のところに起こってくるようなこと なんだっていう風にまはっきり言は おっしゃってるんねうんまそういうような 内容なんですでもう1つ言うならここで 言うとこでやっぱり言うよちうことすごい 大事ね言うよ言うよねえ言う言うよあ 下手くそやなもう言うようんはい要するに ちょっと待ったですあのね私ね思い出すん ですけどあのえ正岡志っていう方 いらっしゃったね昔ねあの方があのま本当 に私より今の私もね48になるんですけど ももっと若い時なくなってであの方はあの 病床でねえずっと水質を変えてねええ牧 10一滴とかねえ病床6尺とかそういうの を書いてでそれを元にした戯曲っていうの があまちょっとうですけど多分ジェームス ミキかなんか書いたんだと思うんですけど ねあの正岡志を主人公とした戯曲があある みたいですねでその話をちらっと聞いた ことあるんですようんな正岡志がねあの あれですよ戯曲ですからねあくまであのお 話ですよあのその元にしたねも正岡式の 生涯を元に元ネタとしたまあいわゆる劇

ですけれども 真岡式がこうねあの途端の苦しみなだから いわゆる何ですかあの結核のようなあれ ですかねえなんか席をするだけでも激痛が 走るようなそういう状況だったま清山満し っていう方もそんなようなねえ方だってて 聞いてますけどま当時はすごい大変な病気 だったんですよね今は治りますけどでもう こんなんじゃねもう生きとるのが苦し すぎるとだからもうもう死にたいってなる わけですよねうんでそこに死神がやってき てねうんでまそことま取引するっていう ようなま話なんですでどうしたとねね死神 が来てくれたとねあそうかいやそしたら ちょっと死神さんてお願いだからねもう わしはこうもう席あんってするだけでも 痛いとねもう全身にねもう激痛が走ってね もうとてもじゃないけど生きてられないだ からね頼むからわしを殺してくれとま死神 に向かってお願いするんですよね うんそうか分かったじゃあ今すぐお前の 願いを叶えてやろうて言うんですよでも皆 さんどうですか今すぐ殺してやるって言わ てどう思いますあの戯曲ですよあくまでね あちょっとちょっと待ってくれっていう ですちょっと待ってくだあの死にたいとは 言ったけど今すぐは待ってくれって言うん ですようんうんでもこれねも本当に同じ ような戦はね聞いたことありますねえお 迎えはいつでもいいが今はいいやってね いやでも本当そうですよねうんもうでも もうもうええわって色々人生投げ投げね まあまあ若い頃もそんななんか投げやりに なったことも全くないわけじゃないです けどじゃあ今すぐって言われたら絶対嫌 やっていうまそうそういうのがやっぱ言う よってのはねそそうそういうところなん じゃないかなってえま思いますねうんな どうでしょうかあ言うよね言そうねこ上上 にちょんちょんとってのかなだから やっぱりね私たちはねあのま本当に私は 自分でそう思うんですがねうん仏さんの話 を聞いてでもねあのあそうかってね法は 特に聞いてね思ったことほとんどないです よ本当に私自分でどうなってんだろなと 思うんですけどねあのまでも100歩ずっ てまそんでもええかなってちょっと思わん でもないんだけどまあでもちょっとやっぱ どうかしてるだと思いますだいぶ後からは ああって思うんですけどだいぶタイミング ずれるんですようんそういうのがあれね あの法の審査とかしたら大変ですよねあ このこの法はバスよとかめっちゃえ法やっ たんやんけとか後で思うことがあったりと かしてうんまあなんかね本当だから本当に

ねあのなか猶予どころじゃないですよ猶予 とかそもそも響くまでだいぶ時間がある あんでそもそもだからぶて呼んでもねま そうやって言うてるけれどもってなるん ですよさんちょっとそれ言いすぎでとかね あの今でもそう思って読んでるんですけど ぱねそういうところでねあの言うよって ことはうんそうですねあの非常に大事な 言葉やと思いますねはいでえま一応ある 程度お話したのでえここでえ10分ほど 休憩さしていただきましょうかね私の手元 の時計で19分なんでまあ29分ぐらい までかなはいはい休憩をさせていただき ますナマダブスナマダブスナマダブスナマ ダブスナマダブスナマダブス ナマ マナス ナマスさそれでは続きのお話をさせて いただきますがま あまその前に今日はあれなんですよねえ 日曜学校がここでやってましてねあの 面白いなと思うんですけど子供はあの まいろんな子が来てであの学校ではすごく いい子なんですよねでところがあのなんて 言えばねそれ以外のところでは何か多分 あのなんですかな緊張の糸がま切れるのか まここではいいやっていうのがあるんでよ ねここでは結構暴れるっていう子がいまし て結構ねあのままどっちボルでもなん 当たった当たってないやのねなやらかん やらてなんか負けると怒るしま色々揉める ですけどねでもねこれ思うんですけどね まあ自分も子供の頃そうやったんかなとは 思うんですけどあのやっぱりいい子にして るってあのいう学校ではいい子にしてると ででもま私ここでお寺でそういう風にする こはねあんまり言わないんですよ注意はし ないてかなんでかたらだって一応一応と いうかねあさんでしょ網田さんに手合わせ てるんでしょあみさんてあみたでしょ測ら ない仏さん別にここでわざわざえこにする 必要ないと思うんですねこっちが大変なん ですけどこちょっとえこにしるやと思って ちょっとは思うけどまあでもまここで発散 してるぐらいやったらええかっていうので ねまちょっと思うことはあねうんでもこれ 何が言たいかって言うとほら分別がつくっ て言うじゃないですか子供が大人になって いくことをうんでここでこれをしたらあ かんねねあれねあれはしたらいかんという 風なことを湧きまえていくことが分別だっ てわけですねでもその分別がつくっていう ことがあのまだから常識としてはいいこと なんですよね圧倒的に善なんですようんだ からのの世間の常識っていうものを守って

いくねあるいはもうそれそれだけで生きて いくっていうことが実はそれこそ在福を 信じていくっていうこととやっぱり一 つながりなんだとやっぱ思いますうんでで もそれで生きてますからねだからあのよく 言うんですよねこの間の法でも聞いたけど もねあのどっちにけれどもつつけるかって いう話をねよく言いますわだねまこんな あんま人間対立的に言うのもどうかと思う んですけどま仏法と世間ねね言った時にね まお寺ではそういうけれども世間ではそれ は通用せんなていう話がよく聞かれますね うんでもねそういうことではなくてね やっぱりねあの本当にですよこれはでも うんだそういう風に言わなければならない んじゃないと思います私はあのねシャップ ゆずていうならねなんかねその法を聞いて そういう風に生きだけ生きなければならな いっていうねねばならないっていうような 言葉は私はいらないと思いますうんほ聞い た方がき生き生きられなければならないっ ていう風な言い方される方もおられるけど 私はそれは違うと思うねうんで生きたいっ ていう思いがこう湧いてくるということが ある意味ではその仏法に会うということの 中身であってねうんそうしたいんだって だって音さんの法主べしとかねあベシって 別にあの命令じゃないんですよそういう風 にしたいという意思があの新たに脇が 起こってくる開発されてくるっていまそう いう中身のまご和算ですからねでその直後 にこの不良物の印にはっていうご和さが 来るわけですようんなのでやっぱりねそれ もね並みの意味もあると思うんですけど やっぱりねそのうんどこまでもねその自分 の常識ね自分が積み上げていくものて大切 にしたいんですけれどもうんそれが破られ てきてああそうやていうところにねうん あのここのねえごアさんのねえ肝がやっぱ あるんやろうなってええ思いますだから けれどもつつけるねどっちにつつけるの かって別にねあの世間ではそういうけれど も仏法ではそうなんだっていう風にねそれ あのそう言わなければならないんじゃない ですよそういう風にあやなっていうことが やっぱりねこうどこかでそれこそね痛まれ るっていうかねこの悲しまれ るっていうことなんだと思うねやっぱり 中心としてはうんそこなんですようんでも そうはいうね仏法はそうそうなんだと世間 ではそう言うけれども仏法はこうだとねね でそうですねだからね まあ常識っていうことで言えばねま例えば こんな話聞いたことありますわあのある そうですねコロナの前の話だったんです

けどあの結婚式がね えま大きなホテルであるとところがあの その日なんか台風が接近していてでえ4組 ほど結婚式の予定があったんですけどもね 2組キャンセルになったですねうんでその うちの1組のま結婚式に参加されるまある 方からお話を聞いたんですけどもねうんで もそもそもねそのホテルめちゃくちゃ 大きくてめちゃそのいわゆる秋のねあのま 月ですかねあの非常にね気候もま本来で あればいいねえシーズンですよねでそれな のに4組しかそもそも結婚式がなかっ たってなんか不思議やなと思ったんですね であの式場の方に聞いたんですいやそりは そうですよって言うんですよだって今日 仏滅ですもんておっしゃったっていうん ですよああってうんでなんでその方そうま その人は上土新春のご問さんだったからね あででで結婚する方もどうしてもま いわゆるあのお寺の方々の結婚式だった みたいでね上土新主のうんであそういう ことをま気にされずにま結婚なさったて いうんですねうんでもねやっぱりねそう いう風にあの世間の常識っていうのはうん やっぱこの日は日柄が悪いとかねうん やっぱりこの法学はとかねうんででもね そういう心が私たちはねロド新州の教えを 聞いてるからね私にはありませんよってま それは結構て素晴らしいかもしれない けれどもねでもねこれね用のね東西とわず あるんですよこういうことってあの私ね スーパーセンスっていう本だったかな昔 読んだま10年ぐらい前に読んだ本がある んですけどあの殺人鬼のねカーディガンを 切れますかっていうねサブタイトルがつい てるんですよあのカーディガンこの子にね ちょっと汚れたカーディガンなんですね あのこれ切れますかあ大丈夫ですって言う んですよみんなねところがねあでもこれね 曰くつきがありましてってえ何ですかて これあの何人も人を殺した人が着てた カーディガンなんですけど切れますかって 言ったでこれはね切れないですよなかなか 皆さんやってみますやってみますって そんなカーディガン私持ってないのででき ませんけれどもねでもやっぱそうなんです よやっぱり嫌やってなるんですようんそう いう話聞くとやっぱりそれはうってうって なるでしょうってなるっていうことはやぱ そそう同じ心が働いてるっちことですよ それはどこまでそれはねなね女々真士は 人気不敗なんだとかねまいしいこと言うて いただいたそれ結構なんですけどでだ からってねじゃそういう心が私にないの かったまたそれは別です

よ私の中にそういうものはありませんって いうのをそれは私が信じてるんですよそれ はうんそれがなかなか大変なんですよだ から私の中に何かこういうものができ たっていうことを逃るっていうことが実は この疑いなんですよ 疑い私はそんなものはなんや私には疑い心 ってのはもうなくなったんだってなったら それはお上土の人ですこの世にいたいかん それもさっさっともう上土に帰っててくれ なかんですけどねなかなかそういう人に 限ってねまシバにずっととまり続けるまあ ねまそんなこといらんこと言うたあかん です けどね本当にまた声が大きいんだそういう 方はね本当にこれが正しいに決まってる じゃないかとあんなやつはね分かってない んだ新人がまだ欠場してない連中なんだと か言ってものすごい大きい声で罵倒するん だよねうんこれでも ねあのこれをばこれをでこういう方々を またこっちもねどっかでバカにするんだよ ねこれ馬鹿にするってこと私も別のものを 握ってるってこれ証拠ですこれはうんそれ が悲生まれるってのは信証人の立ち位置に なるはずなんだけどなんだよあんなこと 言いやがってってなるんですよほんでこれ でこう始まってあっちは間違ってる俺が 正しいて俺が正しいで何を言ってるかね あっちが間違ってるんだってなるんですよ まそういう似たようなことがちょっとどっ かで起こってるんですけどまそれは言い ませんなんですよねうんだからどっちだっ て同じものを握って同じもの根っこは同じ なんですよ根っこは根っこは同じなんだ けど私はそんなもの当に卒業しましたって いう手でやるんですよでこうなるねうんだ からあの全く落とし所がないんですそう なると あだからねそまボンブっていう立場を忘れ てるんですよね忘れてるというかもうあの 私も信じえちゃった人になっちゃってあの だからねもうもう1回最初の話戻ります けどだからそもそも上土真春の初心者向き の話とかねあのいわゆる応用とかなんうか ねもっとなんかねレベルの高い人向けの話 ってないんそんなのはいやもちろん私は 色々その例えば将棋とかやってますからね 初心者にねほん13手詰め解いてください そんなねま無謀なことはしませんさまず1 手詰めからやりましょうかってね3手詰め が解けるようになったら5手詰めやり ましょうかみたいな話ですわねでそれは あると思いますそういうので言葉の意味と かはそういう風な段階を減ればいいと思い

ますね意味言葉の意味はよでも本質は全く 変わらないだ関心度会議ってのだからあの 2つで1つなんうんだ関心の話しかしなく て会議の話しないっていうのさそれはね そもそもやっぱりちょっとね あの非常に少なくとも診断証人がお時に なった時ぶりとは違うということが言い たいですうん少なくともね別にそういう 方法でなければならないとは言いません けどもねうんでもね少なくとも診断証人の 私はあの信男証人が出会われた安田さんお 上土ねお念仏っていうことに聞いていき たいと思って私はずっと聞かしていただい ておりますのでうんでそういうことから するならば会議さに触れないってわけには やっぱりそれいかないですうん武徳悲実回 をままもそうですけれどもねあただ一応 申し上げておきますけど会議産に関しては 一応不明があってねあのお務めもします うんだからあの一応和さの見されてる方は まあの出会ってはいるはずなんですねまで もあのこれこれがいいなと思って読むって ことはあんまりないですよだっていましめ られるんだで戒しめられて1番嫌でしょ 注意されるようなもんだからこれ開きませ んよって言われたらこれは素晴らしいです ねって言われた方がいいねねだからどうし てもねそういう風なところがあるのであの 会議さということはまあなかなか触れられ ないっていうまそういう風にな構造になっ ていますよねでもう1つ方便っていうこと をやっぱりちょっと申し上げていかねば ならんなってえ思うんですけどもあのだ から止まるっていうことをね先ほど ちょっと最初にもねあの最後の方に 申し上げました前半ねでこの返事に止まる あるいはねえ議場待遇に生まれるとかねえ そういうような生まるって書いてあります けどその表現ですね あのつまり ま上土新種で言うたらねま真実を胸とする おですが真ですね真ですけれどもその方便 っていうのはけっていう風に申しんですね うんで先ほど申し上げたようにけっていう のは方便ですからね真実に向かわせるそう いう働きがまあるわけ真実へと向かわせる 働きがあるうんだから大事なんですうん 方便っていうのはすごく大切なことなん ですようんうんうんだ特にあんま言って あかんか本願じゃあんまりちょっとだから 方便系振動門類ってのあんまり積極的に 読まれないんですようんでもあのいらない もって書いてあるわけじゃない大体信頼所 にいらないもの書くわけはないねうんあで もう1つ言うときますとあのそうですね

これ会議さってのも肖像松さんとか85歳 過ぎたね後の話でしょであの85歳過ぎた ねあの信にのご書物ご著書とかねそういう ものはねすごく大切なものが多いんですよ 小像松田さん今言ったそうですね1年他年 問いとかねえあるいは身如来明合徳とかね ま色々あるんですけどま裁布難書もそう ですねでそういうようなものってね やっぱりねあの今までなんて言うかなあの 診断証人もまもちろん大切にししてきたん だけどやっぱりこれを言うとかねばねそれ 自分自身にですようん言うとかねばならん てあこれは言うとかなかなあの信頼所にっ てねこれね人にしめてるんじゃないって いうことまずこれは言うとかなかんな絶対 にあの自分自身に今しめてんですこれ は うんこう言うとなんかね信な証人を スーパーマンみたいに崇め立てする方に とっていやいやいや信な町人なって疑い なんての離れて真実新人の人なんやから そんなこと自分に言うわけないでしょって いう人がいるんですけどそんなことはない ですよ どこまでも自分っていうものの疑いの深 さっということが知られてくるんですよ それなんでかて真実に出会えば出会えば 出会えば出会っていくいけばこそそれが 深く知らされてくるという構造になって ますよ武悲実感なの完全にそうですようん でだからね関心っていう話を聞いてなんか 光溢れる嬢とかね温かいあさんねみたいな うんなんちょっとそういう言い方すると なんか非常に毒が含まれてて申し訳ないん ですけどまでもそういう風にしか私には 聞こえないんでもうあえてそうやって言い ますけどでそういうのって光だけ浴びる けど影は映りたくないみたいな話なんでね うん光だけはもらいますと影は結構ですっ ていうね光を受けたら影がくっきり映るん ですようんあよく言うんですけどあのそれ こそこれあれですねま私まそう思い出し ちゃった年賀状まだ書いて ないまいいんですけどね書かなくっても別 に別に新年がおめでたいちったっていうね お物がありねあのおめでたき遊んでいいん ですけどあの富士山ってあるでしょで富士 さんがあのコメに映った状態の逆富士って あるじゃないですか逆富士が映った時って あのま下手くそすぎるんよね映がそれそれ はま置いといてくださいこうこうですよ ねこれこれが逆富士ですよね うんですよね 逆さ私の姿が逆さに映るってのが鏡の働き でしょあの興教はこれを例に教のごと鏡の

ごとって全土大子はおっしゃってます けれどもこれがなここ打ったらおかしいや ないですかこれあのそのままを聞くんです よってつってこうやって移りましたって こうですよねって言ってうんそれはこの ままて でもいや新人を得た私は新人得ましたど やってここが多いんです ようん多いですよって言ったってまこれを やゆするわけにいかないですよね私だって そうなんですけどうんここはこうなんや なって分かったらね嬉しいんですよえ なんか人に言いたくなるしね言わなくて いいの にやっぱさこういう風なことがねやっぱ 逆さの私が映る影がくっきりと映るって いうことなんでしょ うんでいうことであればねなんかいよいよ 疑い用のない疑いが明かされてくるってい 中身なんじゃないですか会議さんってうん どこまで行ったって疑い100%ですよ うんで言うよ100%ってことですねこれ 疑いてだからうんここが大事ですやっぱ 言うよっていうことがうんつまりちょっと 待ってくれなんですようんどこまで聞い たってねこれ即と王場なんですねうんだ から即即なんですわつまりあっていう同時 に成立するのがま仏教の世界で全てがこれ はうん同時なんですよな何でもかんでもっ て言ったらけどねこれでもねあのまこれ なあんまり言うのもなんなんですけどでも これそね時間と空間っていうものがも本当 一瞬に収まるって1年真の1年って多分ま そういうことを信男書にはおっしゃってる はずですけれどもつまりなんかねね法を 聞いてねなんかこうお念物している生活が あってでそしたら未来には多分王場できる だろうっていうこういうなんか過去現在 未来みたいななんか自分の中でうん数直線 を描いてで今私はこの段階でで今まこの この辺まで来たかなとでだから多分未来は こうだろうっていう風に思ってるじゃない ですかで私は少なくともそうやってブッを 聞いてきましたずっとうんそうことでは ない即工場っていうことになったらこれは 今こそれこそ今手が鳴ったのはなぜかて いうような考案があるじゃないですか石手 温情ってのこれこ片手だけではならないで これ同時に成立することによって仏さんと こ私がね今ああそうであったって何万ダブ すっていうところに響くっていうところに おいて初めてねその一瞬ですよね本当に もう時間で言うたらほごくわずか自刻の極 っていうような言葉もありますけれども そういうようなところに初めてね破られて

くるうんうんそういう風にね診断所にはま 私たちに教えてくださってますわうん 少なくともねそういうことであるならばね いつかね多分というようなそれこそ在福を 信じていくっていうようなあり方ちょっと 待ってくれっていことがだから成立しない わけでどこちょっと待ってくれよてパンっ てならないでしょうんでも向こうからそう いう風に用意してくださっとんねやけど 100%この私のそ疑いのだから蓋が覆わ れてるってことですねうん疑いの蓋って いうのやっぱ面白い表現やと思います着外 無双ね交わることなしっていうようなねえ 言葉でえま表現されているんですねうん でもう1度申し上げますけどもけという ことちょっと言いましたけど毛にだから 返事に止まるって書いてますですね返事に 止まるとどうなるかっていうことですけど も私たちはねまこれねまここら辺はね ちょっとなんともねあれですけどねま ああああってあでか 義返事に止まるっていうこと がおそらくねあのい割の姿になっていく うんこれがやっぱりねあの問題なんやと思 ますねあのもちろん義ってのは下道って いうような言葉でまあの信書に表現される んですよま下道って言ったってねこれも 言葉のあの取り違いをしていただくと困る んですけれども仏教以外をのものをね通り を信じているっていう意味ですようん あくまでねうんですからあのいわゆるあの なんて言うかなあのし言葉の下道っていう のとは違います違いますけどまそこから あのその下道っていう言葉が生まれたん ですけどねうんま猫は一緒なんですけどで もねこのなんて言うかなあ真実に向かわ せる方便としてねこうま仏様が用意して くださっておるねえいろんな手立てですね そういうことだから上土新州の報じって いうのもまそういう意味ではうん泣き方を 思いながらっていような形で手合わせ るっていうのは1つの方便っていうことは 言えるとま思いますようんでもそれがあの 真実に向かっていくていうことであるなら ばねそういう具体的な例で言うなら ばあの泣き方は今どこで何をしているん だろうなっていうところからね泣き方が仏 さんになっとってくださって今度はこう私 を暗示とってくださるって言って方向が ひっくり返ってくる向こうからそうこそけ なるものが真実から呼び起こされ るっていうこっちの方向 がああそうであったかっていう風に開かれ てくるっていうことがま上土新州の法事と まあえて言うならばあ言えるかなって思い

ますうんま最近はそれこそ法事そのものが ねあの少なくなってきましたんでねもう それこそ方便そのものの意義が問われるん ですけれどもねうんいやそうなんですよで もねもう1つ言うならばこのけっていう ところからねねそうかまでもやっぱ法戦と なたられといかんで やっととかんとなご命日よりも前にせと 先祖が何言うてくるかわからんてやっぱり そういう風な形になってくるとやっぱさギ っていうことにななりますわねそれはね うんでまそれは私が判定するんじゃない ですようんでそれが行けないって言ってる んじゃないんですわこの行けないじゃなく てここがだからケや義っていうことが 悲しまれてるっていうことが実はこういう 会議さっていうところのま中身やと思い ますねうんどこまでもねそういうねけなる 私義なる私っていうことがうんあそうで あったなって診断書にご自身がですよ自分 自身のお心をご覧になってこれをおかきに なってるっていうことなんですようんそう ですねだからねあのそういうことから言っ たらまあのなんですかねうんまお念仏申す ひぐらしって言いますけどもねあのま な対戦っていう言葉がやっぱりねあの思い ますね あの知りといていくっていうことあの不対 点って言うんですよ症状10のくいちゅう かねそのいわゆる 新人ねを得れば所管疑似って言ってねあの お念仏のねご新人を得たらねこう41段階 目までこう登るっていうま52段階ある ありますけれどもねうんそういう風にま 解かれておりますでその 諸人のことをま不対点って申しますうんだ から本来はそうそうですだお念物の新人を 得るっていうことはねうんあねでも人物と 新人を得るってもねなんかこう新人を いだくとか新人を売るっていうとねなんか やっぱ私の中に何かを握りしめるっていう ようなあのイメージでやっぱどこまでも 聞きますしうんやっぱそうとしか聞けな いってことがあるんですけどまでもそう いうことではなくて ね対っていうのはねやっぱりね対戦をしし ておるようなやっぱりものだっていうこと がなんかいよいよ知らされてくるってかな うん私はもう不点なんだっていう確信が できるっていうことではやっぱないと思い ますよ うんだからねこのねもう1つよあ今回あ そうだな ああ引用はしなかったけど競業商務のね 後ろの方にねすごく大切な言葉があってね

を因とし義法を円としてっていう風な言葉 が出てくるんですよつまりね新人ってのが ねかま新人って書いてありますけど真と いうものがいいんですねこのね疑いって いうのはねあのばっさり切られてるんじゃ ないんですよ義ということが円になるん だって言ん です義法義法っていうのはもの秘法消防の 法です ねま義法の方っていうのはこういう ねえののしほほここういう人ね義法義法縁 として新々を委とし義法縁としててうんと 出てき ますだからね疑いっていうことがなんかね やっぱりま疑いを除き悟りを得しる心理 ないとかねま信男省にのお言葉にもま除の 言葉に出てくるしうん疑いってのはやっぱ 覗くもんなんだとうんやっぱそう思います ようんだって覗くって書いてあるねでも覗 くってねあの綺麗さっぱりねあのビリッと 引き剥がすイメージでやっぱり私は最初 読んでましたけどもね あのそれこそ疑いっていうものは残らない だ残らないあのいわゆる消えない ああでこれは罪っていうことにもなります けれども罪も消し失わずしてっていう風に 信頼書にはおっしゃるんですねうん 罪罪ね そうなんですこの疑いは罪なんです罪 うん 罪なんか罪って言うと俺そんな悪いことし た覚えないわと思うんですけどねあのそう じゃないんですようーんだからここの辺の 言葉がやっぱりねそれは人気はないわなと あのだってそれはねみそうですよねって 思わないもねうんでもね私たちねこれね 思うんですけどあの生まれてきたことその ものに対してどういうイメージあります あのまあでもねそり私生ま生まさせて いただいてよかったってそのなんか幸せ いっぱいの方にはちょっとなかなか罪って 言いにくいんですけど言いにくいてかでも ねあの人間ってね心の深いところでね やっぱ苦しんでるんじゃありませんあの私 あの連れ合いが1人おるんですけども今も そこで聞いてますけれども あのなんかね寝てる時にね私全然夢見ない と思ってるんですけどこないだもなんか うされてたって言ってましねええと思って もうそんな悩み事もないしなんかやましい こともないんやけどなと思い ながらでもやっぱ苦しんでるんでしょうね 心の深いところではうん分からんけれども ね何で苦しんでんのかは分かんないですで もねやっぱり奥底ではねやっぱりま廊下も

激しいし ねこの間久しぶりになったとか松原さん 髪の毛白くなりましたねつってしみじみと 言われ てそうです老眼も進みましたこれちゃんと ね老眼もちょっとあの動画進んだんで眼鏡 も変わってますけども ねそいいんですけどでもねあの生まれてき たことに対してなんかね なんか投げ出されたっていうなんちゅうか そういう思いありませんなんか知らんけど 生まれてきたってねこんなところに生まれ てね生れさて生まれさせてもってよかっ たっていう人あんまりいないですなんで こんな家に生まれてきたんじゃってやっぱ そんな思う思で言うたこともあるでしょあ 多分多分あると思いますよ私は言うたこと ありますよ うんだって産んでくれて頼んだ思いないわ つってねあまそれ1番親が聞くと多分ずき とで私もそのうち言われるんかなとまそれ はしゃあないわな自分が言うたことやで 帰ってきても思うんですけどねうんでもね あのやっぱそういうなんか投げ出されたま 被害者意識って私はちょっと思うんです けどうんなんかそういうものってねずっと 引きずってんのかなって思いますようんだ 私は悪くないって思いなんですね私は悪く ないっていうのは私は正しいってことです で私が正しいっていうところをこらして やっぱ苦しむんじゃありませんかねなんか そう思いますよ私はなんか自分でねほっと そう思いますもう自分が正しいっていうの は本当抜けないんでねうんあのま1番その ことをよく知ってるのはうちのなんです けど多分そそのこと言ったら多分ねあの1 日か2日か3日ぐらいずっとその方喋って くれますああなたいつもね自分が正しいの ねってあの夫婦喧嘩の後に言われたことも ありますいやだそうなんだってさ自分が 正しいと思うから喧嘩するんでしょうん お前が悪いんやって今日もね実はあったん すよあ今日これね私ね髪の毛着るの自分で 着るんですよ最近コロナになってからこれ 全部自分でカットするのなかなか企業 でしょうんででも後ろのねこここう 刈り上げるのがちうかねこのなんちょっと 残るのを買ってくれって言ってねほったら ねここねバリカンでガってやられたんです こんなんねあの漫画でしか見たことない です本当にやるやつおるんやと思ってお前 何してくれるんじゃでも今日ね偉いことに なったんですよ実 はもうね私がさちゃんと言うてないからね ああかんですさこう彼って言ったから買っ

たそこじゃねえよっていうねまそんなもん ですでもやっぱそこでガーンてだいぶ だいぶ言うたですねやっぱねこれをねだ から言うたあかんっていうのは分かってる んですよあの意識の上ではでもそれがね どうしてもいざってな出るんですわあ わかっちゃいるけどやめられないんかも しれませんけどねあ植ひしじゃないけどい でもやっぱそういうところにねなんか疑 いっていうものの寝さがねあると思います だから罪なんですわ自分でっててもやめ られへんねもうんでやめられるようなもん だったらそやめたらいいんですけどねうん いやそれやめられるものはやめたらいい ですよお酒とかでもね別にやめようと思っ たらやめられるでしょうんでもままそれで もやめられない人もいるみたいですけどだ からねやっぱりねそこに止まるうんそこに 生まれるねうんこういうね構造で私たち はうんそこを痛んで悲しんでいくっていう ととにね実はこの義法縁としてっていう ところがぱ新乱所人がね 聞きかじっ思いますようんとかうんそうや なってだからねま怪我義になっていくって いうねまいうことがどうしてもあります けれどもねやっぱりあそうやなっていうね やっぱそうね所々でね何万ダム何万ダブっ て唱えながらね仏法をね聞かしていき ながらねえもらいながらねあ歩まして いただくね本当父とした歩みですけれども ねあー疑いこんなだから疑いが深いって いうことはねもう1つだけ最後にこれだけ 申し上げて終わりにしますかねちょっと 時間過ぎてますがお付き合いください えっとレジュメに位置を書いときましたま これはこれでまたどっかでやると思います けどね感動さんのねえっとちょっと後 ぐらいかなちゃうわえっとねあ新在福心 って書いたその後ぐらいですかね参考って 書い てる1番下ですかね1番下っていうかうん そうそうぶち疑う罪ふかしこの芯この真 思い知るならばくゆる心を胸としてぶちの 不思議を頼むべしうんあ頼むていうのは こちらからお願いするっていう意味じゃ なくてねうんあのあそうであったなって いうかねま任せるというかそううんま より所としていくっていうことなんです けれどもうん そうですねこの真思い知るならばって書い てありますねうんつまりこれぶち疑う罪と いうことが深いねでその真を思い知ってい くっていうことが実際にはすごく大切な ことなんですここがねあの人身自身って 言われるようなね本当に私のそれこそうん

深い深いね暗闇みっていうことをねそれ こそ自分では照らせませんけれども仏さん から照らされた知恵のお光によってはそう であったなって 聞かしていただく中にね本当にねこうぶち ということがいよいよ明かされてくるねと いうことをね診断書には明らかにここで おっしゃってますようんでそれをせっかく だからちゃんとねやっぱり伝えていかねば ならんし私自身が聞いていかねばならん なって信頼証人自身がこれ自分自身のお心 をねえ読まれたものでありますねえです からねやっぱりね信男証人のうんなんかね 部分的にねえこれだけ上積みでね都合の ええとこだけ聞いてくんやのってねぱ本当 に関心と会議ねえこれちゃんとこう2つで 1つですからねえそこをねえしっかりと やっぱり味わせていただく聞かせて いただくていうことはね大切なやないかな とねえま思うことでずっとね今日申し上げ てきたことですはいまあ以上であります なかなかこれはま正直今日ねあのあれも 本当は言いたかったとかこれも言いたかっ たとかあた全部はってちょっとあのだから ちょっとね あの所々この話どこで繋がってるんやろと 思われたかもしれませんがねえまお 付き合いをいただきましてえありがとう ございましたままた次私いつの機会か 分かりませんけれどもねえまたあねえこの ご縁にねシナ所にのご話さ通してねえ味わ せていただきたいと思います本日はよう こそお参りをくださいましたナマラブス ナマラブスナマ ナマなナナスナナスナマなナマナス ナマスナマ ダブスナマンダブスナマダブスナマダブス ナマダスナンダスナマダスナマダスナマ

親鸞和讃を読む
講師は三重県いなべ市の光明寺住職、松原大致師です。
「不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり」

本日の資料はこちら
https://docs.google.com/document/d/1qi-18PVGYD2VMhnAEFBjugQvcVa1EAkHtYINun6P97Y/edit?usp=sharing

この法話は実際にご参詣いただけます。
http://shinshuhouwa.info/search/index.php?PrefID=24&SectID=0&Venue=%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA&Lecturer=%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E5%A4%A7%E8%87%B4

ご質問がある場合は、下記のフォームからお願いします。できるだけ講座の中で回答いたします。法話の前でも、終わったあとでも構いません。
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