【BS11】偉人・素顔の履歴書 『戦国の風雲児・織田信長編』【期間限定特別配信/2024年1月31日までYouTubeで無料配信】

[音楽] 今年5月に放送した特別番組偉人菅の履歴 所1人の人生に焦点を当てた歴史人仏殿が 大好評の声にお答えしレギュラー番組に なりまし た豊秀吉武田信玄坂本涼日本の歴史を彩る 個性豊かな偉人 たち果たして彼らは私たちの想像する通り の人物だったのでしょう か波乱に見した人生を振り返り意外な素顔 を再 発見今回は第1回で放送した戦国の風雲寺 織田信長の再編集版をお届けし [音楽] ます数々の合戦で勝利し続けた信長軍その 強さの秘密とは 次々と常識を覆した男はどんな未来を 思い描いていたのでしょうか確信的とも 残虐とも言われる信長の真の姿と は様々な料や専門家の見解をもに偉人の 素顔を現代に映し出す歴史人物 で顔の 履歴 偉人素顔の履歴書新行役は私中西由と歴史 家の各構造先生です今日はよろしくお願い しよろしくお願いします作家として数多く の著書がある歴史家の各構造さん番組の 進行役でありご意見版ですさあ記念すべき 第1回はこの人を取り上げたいと思います はい織田信長はい もう誰もが知るうん超有名な武将ですけ ですね相変わらず人気が高いようですね そうですねこの番組では様々な資料や専門 家の見解をもにこの偉人の履歴書を独自に 作っていくということなんですけれどもね 今履歴書出てますけどいろんな項目があり ますよねはいえおそらくですね一般に 思い込まれてるのと実はだいぶ違うと思い ますねうん性格強みこの辺ありはてがます さ驚かれる視聴者も多いんじゃないかと 思います信長の履歴書を作る上でまずは 信長の人生をダイジェストで振り返り ましょう室町幕府が弱体化し全国各地で 下国城が勃発した戦国時代天文3年 1534年に織田信長は尾の国現在の愛知 県西部で勢力を広げつつあった織田信の 生まれ ます19歳の時父信秀がりで止すると家を 続しますがその本な性格から小田には反発 するものも多くいまし たしかし信長は敵対する兄弟や対抗勢力を 打ち倒し尾統一を果たし ます1560年27歳の 今川がに進行この時今川の兵力は織田の5 倍とも10倍とも言われ信長にとって絶対

絶命の危機でし たところが信長は見事この力差を覆して 大将本の国を取り奇跡の 大勝このの戦い はのに まし尾を統一して今川を知りた信長は 1567年34歳でミノを 攻略この時ミノにおいた新たな本拠地に 岐阜と名付け同時に信長の大名と見える スローが天下フを掲げたの [音楽] です大の 長三川の徳川家康と同盟し将軍足義明を 用して上陸するなど信長ははの勢いで勢力 を拡大していき ますしかし急成長したことで周りの戦国 大名と対立さらに将軍やアとも撤退した ことで信長法衣を敷かれ窮地に追い込まれ ますそれでも将軍義明の追報朝倉討伐など で徐々に盛り返していくと42歳の時に 戦国最強とい武田軍との長の久ヶ原の戦い で勝利法を壊滅しまし た勢力をほぼ万力にした信長は46歳であ 城を築き明日ともに戦国日本の頂点に立っ たの ですその後も各方面に複数の軍団を同時に 展開し天下をほぼ中に納めたかに思われた 1582 年京都の本能寺に滞在していたところ家臣 明智光秀が無本を起こして信長を 襲撃わずかな手しか伴っていなかった信長 は自陣に追い込まれその生涯を終えまし た確信的な発想と独裁的な案で戦国ののに 革命を起こした風雲 織田信その知られざる素顔を探り ますさあということで信長の人生をざっと 駆け足で振り返ったんですけれどもこれ までの流れを歴書で見てみ ましょう本に倒れたのは現代なら働き盛り の49歳でしたあだ名はつけ物で性格は特 的1でに大手をかけたことが売りです本当 に振り返ると改めてハ万定だったんだなっ て思うんですけど先生いかがですかはい あのこのハ万丈なところが日本人の中で 信長人気につながってるんでしょうね信長 を語る上で欠かせないと思うのがお父さん の存在今風に言いましたらねえ東京大学を 主席で出るようなえ優秀な人物でえ今日の 頂でもですねあの信の名前を知ってるん ですね超エリートっていうことえで彼は 当時のあのいわゆる文化人の共有を全部身 につけてるんですね信長といういう人間が 出来上がる過程で1番大きいのはお父さん の影響だと思うんですけどもうんお父さん の信秀では不安の時代とそれからその危機

の時代の区別がついた人だと思うんですね 不安というのは心の問題ですからまなんと なく不安だと言えば解消することもあるん ですけども危というのは目の前に現れるん ですよねだ超えなきゃいけないじゃ自分の 息子はおそらく危の時代に遭遇するだろう とその時に戦闘を切るか誰かの尻尾につい て行くか自分の息子の性格を考えるとどう も尻尾についていけそうにないとならばと いうことでやりたいことだけをやらしてる というのが信秀の教育の1番分かりやすい とこありますへえ小さい時からうつけ者 だっていう風に言われてきたはい形を書い て言うならば一般的な共用を積まなかった からですねああやりたいことをやりたい ようにややらせるそういう教育方針を お父さんの信秀が取ったわけですねうん うんそうするとどうしても型破りな人間が 出来上がるえ旗から見たらですねなんだ この人はとこう驚くまうつけ者若者に見え てもですね仕方がなかったと思いますね そのうつけ者若者だって言われたその具体 的なエピソードドって何かあるんですか はいあの例えばですね池の中にその魔物が 住んでるっていう話を信が聞くんですはい でそんなものがこのようにあるはずがない うん信長という人は合理主義の塊みたいな 人ですからねどうしたかどうしたかという と村人たちを読んでその池の水を全部 組み上げさせたわけですねああ池の水を 全部えでただもう途中で邪魔くさあの イライラしてきてですね自ら飛び込んで あの刀を下げてですね飛び込んで探したっ ちゅうんです泳ぎまくって探したけれども そんなものはいなかったとあこれはい なかっただろうていうのは信長なんですね なるほど自分の目でどうしても確かめた いっていう性格権威とかそういうものを 認めないっていうのは逆な言い方をします と全部自分で実証したいわけですねうん ああここが信長の1番他の戦国部将と違う ところですね信長が生まれた終わりも当時 は小さい国だったんですよね彼自身は 分かりやすく言いますと終わりを半分に 切ってその半分のうちの13ぐらいの勢力 から出てきた人なんですね本当に小さな 小さなところからそうなですでただあのお じいさんが持ってたのが津島というえ 伊勢萬房易の拠点だったんですねしたがっ て信長のあの他の武将と違うところは商人 のような頭があるわけですねうん1+1は 2にならないと2乗3乗4条になるもは 同じ価値を持たないで場所によって値段が 変わるという発想が仮にはもう幼少の頃 からあるわけですねお金もこの後ポイント

になってきそうですねはい来ると思います ねああなるほどさあそんな織田信長です けれどもこぞという戦いに勝利する強さが あったんですねその強さの秘密は一体どこ にあったのでしょう か独創的な発想で次から次へと新たな戦法 を生み出し数々の戦で勝利を納めたという 織田 のそんな戦の天才というイメージは真実な のでしょう か戦国時代の資料を研究する東京大学資料 産所準教授の金子さんに聞きまし たかなり優れたアイディアでの戦い方が 言われてますけもま私はどちらかというと 現実的現実と言います か 堅実この評価は従来の天才的なイメージと は異なり ますそこで信長が生み出したと言われる 戦法を実際の武器を使って検証すると信長 の意外な顔が見えてきまし たの使うことができたのでしょう か 実際戦場近くへ行くまではこの辺りで 引っこ抜いてばらせるようにしてるわけ です分解すれば半分の長さになり荷車まで 運ぶことができ ますしかしこの長さでど戦うのでしょう か前で輪を越えて動いて戻してよこれは 通常の槍の扱い 方ついて低く技は農民が多い足軽には 難しいと言い ますこの長さを生かすために検証によって たどり着いた結論 が はいつくというよりもむしろ槍はもう長い ものになっていけば戦国時代叩くものでし たからあれでバンバン叩かれると前にはけ ないでその間に遊撃隊が横から攻めれば いいといろんなことにチャレンジして いろんなことを思いつく人だと思うんです ねそしてそれを実際に実行してみて使える ものを残し使えないものを消していくと いうアイデアマンでかつ合理的だった人と ま私はそんな風に捉えて ます信長軍の強さの象徴として知られるの が鉄砲隊 です鉄砲で有名なのが1575年信長42 歳の時に行われた長の久ヶ原の戦い です武田勝より引きいる牙軍団を小田信長 徳川家康の連合軍が大量の鉄砲で迎え打ち 打ち破りまし [音楽] たこの時信長が用いたのが戦国の戦術革命 とも言われる3千兆三段うちしかしこの

戦術革命に今疑いが持たれてい ます3段内っていうのはま江戸時代に書か れた物語軍旗物語に想した船長ずつ3体に 分けてその変わるがわり打たせたという 疑問はされてます ね戦国の戦術革命とも言われる3千兆三 段それを検証するために訪れたのが凱旋の 部隊となったヶ 原かつてこの連川を挟んで信長家康の軍勢 と武田軍が激突したと言われてい ます地元のに隊が実際のを使って3の有効 性を検証してみまし [音楽] た日中の点には玉から日のセットまで何 工程もの手間がかかり ますこれを隊列を組んで行う と3段打ちの証実験スタート です れ た発車したら後ろに回って卵その間次の レスが前に出て体調の号令に合わせて 発射時間を測ってみる [音楽] とこの実験では3列が一巡するのに1分 15秒25秒に1回のペースで打つことが できまし たしかし次の発車までに25秒もあれば 秒速1mでゆっくり歩いてきたとしても敵 は25mも近づいてしまい ます3段打ちっていうよりも前の人が打つ の待つんじゃなくて打つ準備ができたが前 出てて打つっていう風に考えた方がもう ちょっと効率よくできるんではないかな と準備ができた人から打てば射撃の感覚は 短くでき ます一斉に打たなくても高温と共に打た れる鉄砲は大きな威力を発揮し弓矢と 組み合わせれば十分高はあったはずだと 言い ます長の下原の戦いで信長は鉄砲の効果を よく知って戦を指揮していまし [音楽] た戦場での動きを見てみると信長は徐々に 前線へ本陣を移動さ せ決戦当日には最前線に出張って采配を 振っていたの です射程距離が短いほど威力が高まる鉄砲 隊に向けて信長がした指示 は打ててようなことをやはり信長として ここまで来た時にそういったことを最前の 人たちに伝えるってこともしてるんだろう なと思い ます自分で実際に戦の状況を観察し具体的 な指示を出すこれこそが信長の戦い方の 特徴だと言い

ます過信任せにしないでえ自分の目で見て 判断をするとそうしたところはやっぱり 信長の特徴というか 信長に実際に使えた太田牛一が残した記録 身長 好機ここには信長が様々な戦で自ら戦場を 巡り自分の目で確かめ指揮していた様子が 描かれてい ます派手な勝利の裏側にはきちんとした 実地分と状況判断がまあったから 真面目で誠実でていう感じですかね はい信長って言うと天才っていう斬新な ひらめきみたいなイメージがあったんです けど結構コツコツと真面目に頑張るタイプ だったんですねはいあの伝えられてる イメージというのは公生に出来上がった ものがほとんどで真実の信長という人は 堅実でしかもなんて言いますかね愚直な までに徹底して自分で研究するとそういう タイプの人だったと思いますね鉄砲とか あの他よりも長い槍とかそういう新しい 兵器をどんどん導入していこうっていう それはどうして思ったんですかねあの尾と いう国は経済的には恵まれてるんですねま お金はあるわけですね経済欲は豊かなんだ けれども経済力が豊かなところというのは 今も昔も一緒で兵は弱いんですね恵まれ てる分ハングリーさにかけるというかとが あるいうことですいしかしその信長は尾を 守らなければいけないじゃあどうやって 守るかを考えた時に1番のハデは何かと 考えると兵が弱いということですねで1番 長所は何かというとお金を持って るってことですねその発想で出てきたのが え長い槍でありそして鉄砲になるわけです ね鉄砲って結構高そうだなと思高いですよ どれぐらいするあのねま数え方にもよるん ですけれども今なら1000万超えて 1500万33000万ぐらいしたそれを まコストダウンするためにえ改良していく わけですけどねはほうほで当初鉄砲が出て きた時というのは打つまでに時間がかかる わけですねだから武田軍なんかは最初から 鉄砲を岩地に置いてないんですね1発目は あの縦で防ぐとはで2発目が来る時には もう相手を切りこしてるとだからその 近寄ればいけるんだという話話だったわけ ですねところが信長はえ兵が弱いもんです から鉄砲にすがるしかないとじゃその鉄砲 の性能をどう上げていくかてことを考えて いくわけですねだ先ほどあった長の戦いも そうですけれども相手を引きつけておいて そこで鉄砲を打ちかけるで準備のできた 人間がさらに打つで相手がひんだら今度は え牙が出ていくわけですねその繰り返しを

やったのが長の戦いになるわけですね じゃあなんで3段打ちっていうそのうんだ からあれは後から出てきて実践を知らない 人が作った話ですねそれよりも重要なのは 経済力でこの流のひヶの戦いの時に武田軍 の最前線要するに飛び道具は何だったと 思います弓矢石投げたいあ意コントロール の一室を集めて意思にげてたわけですね そうなんですそれが1節では3000人た と言われてるそんな原始的なやり方でうん ということはえ経済的に強かった信長が 勝つというのはまある種まね分かってた ことになるわけですね信長っていうとこう 奇襲をかけたりとか焼き打ちをしたりとか て結構こう大胆な戦略をるイメでしけど うんそういうイメージが未だにあのえ日本 人の中に強いんですね戦国時代の武将と いうのはですね1番嫌なことは何かと言わ れると笑われることなんですよ笑われる ことえ人様から馬鹿にされることだから 馬鹿にされないためにというところから後 の武士像が生まれてくるんですねしかし 信長だけはこれが当てはまらないんです どれだけ悪ざりを言われようが馬鹿にさ れようが勝てるまで徹底的に準備して 勝てるとなったら一気に相手を叩くこれ 信長戦法なんですねあの有名な俳句ある じゃないですか泣ぬなら殺してしまえほと はいはいでも全然そういう感じじゃない うんあの性格的に言うならば中ならあの なくまでまとホトトギスま一般には徳がや と言われてますけれどもそれに近かったの は信長だと思いますねそうだったんですね はい一般的な信長のイメージとは少し違っ てきていませんか性格は真面目で堅実 そして強みは経済力と愚直さという新たな 一面が見えてきました特にねこの愚さて いうのがね重要なんですよ先ほどありまし た3元半の槍もそうなんですけれども槍が 長いだけで勝てるならですねえ南北町から 出てきてるわけですから誰でもその長く するわけですよしかし長くしても槍は手元 へ戻さなきゃいけませんから突き損ねたら やられてしまうわけですよねだから3元は 3元だったわけですねにもかかわらず信長 がそれを伸ばしていくなぜかと言うともう 槍がつくものだという発想そのものを彼は 否定するわけですね信長の怖さは常識と 言われを覆したところそ一言で言えばそれ が愚直さになるわけですは天才ではないと 思いますねああそうですか信長が望んだ 天下その言葉が意味するものと は自らの強みを存分に発揮してその勢力を 戦国最大まで広げた織田信長ですが彼は なぜ何のためにこの過酷な戦いを繰り返し

たのでしょうかそれを紐解くキーワードは 天下です 天下 部将軍や天皇も上回る権力を手に日本全国 を統一 する信長はそんな夢を見ていたのでしょう か当時の権力構造に詳しい立女子大学教授 のはう言い ます将軍たり殺したりしてはいけないです ねだ考えてなかったということだと思い ます武力によって日本全国を平定すると 受け取られてきた天下夫婦しかし今この 天下の意味に飯がついているというのです 信長にとっての大義名分は天下最高ま吉明 をサポートするっていうことま室爆風体制 の最高です から ために豪華なものへと改築させまし [音楽] たそこには京都内外から明積名木が集め られたと身長好機に記されています将軍 義明も信長の人力に大いに感謝していたの です [音楽] がその5年後義明は信長に背いて 挙兵幕府最高を支えてきた信長も豪をやし てついに明を京都から追放しまし たここに黒ま幕府は滅亡したの です将軍の 追放この天下フをじで行くような行動も 信長は意図して行ったのではないという見 方があり ますその年に義明は2回信長に対してま 挙兵を起こしてますけれども最初の段階で も信長は吉明をまあのぐるっと軍隊で京都 を運んで威圧しながらそれでもあの和を 申し出るんですよね信長は少なくとも最後 の段階まで吉明と戦うことを避けていたの は事実なん でやを得ず将軍を京都から追放したという 信長それでも最後まで吉明を殺すことは なかったの です さらに信長の思いを探る上で重要なのが 天皇との 関係信長は天皇を上位させてその権力を 奪おうとしていたという説がある一方底と 親密な関係を持とうとしていたという説も あるの ですそのを探るために向かったのは滋賀県 大 [音楽] 八幡ここに将軍を上回る権力を手にした 信長が作った城がありまし たあ城です信長46歳の時に挙上とした

最後の 城1582年に原因不明の火災で主本丸を 消失し1585年城は場となりまし たこれは移行から湿度した緊迫河戦うため の城を緊迫で飾る必要はありませ ん信長が城を作った目的は何だったの でしょう [音楽] かのガを 務める内してもらいまし [音楽] た正面の大手門をくぐると180mも続く 壮大な石段が現れ ます道幅は8mにも及び ます一般的にはそれほど大きな幅のある道 がまっすぐ続いているっていうことはもう 普通戦国のお城としては考えられない長 さんはあえてえ見せるしというものを作る ためにえこういう大きな道を作ったんだ と大手道の両側には秀吉をはめとした家臣 の屋敷が並んでいたと言われてい ます実はこの道は天皇が訪れる行光を意識 したものだったのではないかと考えられて い ます天主の手前に広がる広大な敷地 はえここがあの本丸跡ということになり ますえここにですね京都5所水量電を模し たあ大きな高岡式の5点が立っていた と柱を据える [音楽] 祖籍祖籍同士の感覚がおよそ2.2mと 広くこの感覚で柱が立つ建物はク以上の クラスとされてい ますそのためここは天皇を迎えるための 施設だったと推測されているの ですまた天皇家の菊の五問が入った河原も 発見されてい ます天皇を向きにして日本国家の統一って いうことは考えられなかったのがま信長も そうですし康も秀吉もみんなそうだと思う んですねで天皇の方もそういう権力者と 結びつくことで自分たちの立場をま守って きたというまお互いウンウンの関係がそこ にあったの で天皇との関係を保つ一方信長は着々と 全国に勢力を広げていき ますこれは想定の元に再現されたあ城の 天主戦国時代には珍しく信長はこの主を住 にしたと言われ [音楽] ます家臣だけでなく一般人でも自由に城を 見物できる日を設けたという信長は ポルトガル人教師たちを招待して豪華な 場内を案内し彼らが海外にその様子を 伝えることを望んでいたようにも見え

ます天下統一を成し遂げつつあった信長は 日本を超え世界にその目を向けていたのか もしれませ [音楽] んなんかね天下フっていうとイコール私 天下統一かなって思っていたんですけど ちょっと違うんですかね意味あの天下と いう言葉なんですけれどもこれは60予習 を従えるという意味ではなくて元々は京都 に旗を立てるという意味なんだねで天下を にその吹部あの旗を立てるためにはどう するべきかを考えた時にえ室町幕府はえご 機内え機内にあった国を納めたら大体 行けるだろうとで信長恐らく機内とえあの 大江ですね大江のあのアザ料とそれにあの 北陸のえあれですね朝倉量これを足した ぐらいを想定してたんではないかな私が 想像していたよりもかなり小さい範囲です まあの室町幕府が室町時代に直接影響力を えた範囲というのが最初の想定だったと 思うんですね天下って言うとね全国って いうイメージがあったんですけど意味に よってだいぶ印象違いますよ違いますねだ から天下フを成し遂げたという風に解釈し ても間違ってはいないと思いますねあそう いうことえ信長に最後にあったえ調定の 死者がえ打上大臣がいいですかそれとも 関白ですかそれとも誠意対象軍ですかと いう言い方をするんですけどもま次回あっ た時に返答しましょうということで信長実 は本寺の辺にあったために返答してないん ですねああじゃあ最終的にどこを目指して いたのかは未だにわからないしかし信長と いうそのまえすごいところはどんどん攻め ていってさらに全国を統一してさらに朝鮮 半島を足掛かりにして民国まで攻めとろう とえそういうことを実際発言した記録が 残ってますですからねあ目を海外に向ける ことができたのってどういうきっかけが あったんですか1番最初はね出身だった あの津島だと思うんですね伊1貿易が最小 そしてえ上陸することによって堺と接し ますよねで堺からも明賀金軍用金を出し なさいということで信長が命令してますで 交際をすることによって難万人も知る そして選挙師が来ますよね彼らは7つの海 を超えてやってくるわけですね面白い話が 残ってましてあの地球儀をその選挙師が 信長にプレゼントするんですねはいで説明 をするんですけども信長最初地球がまるい ことが理解できないわけですいきなり地球 を見せられてもねはいででえ信長はあの 分からないものはいらないってことで一旦 返したんですよあ返しちゃったんですか 返してしまったところがその後で分かった

からくれて言うんですねえ何があったん ですかそのわか急に分かるようになったの はいおそらくですねあ地条のあの天主学へ 登りますと琵琶湖の先が消えて切れて 見えるわけですねああ地平線が見える線が 見えるということは丸いということが 分かったんですね天下っていう言葉の意味 がどんどんていてもしかしたら海外もその 先をも見据えて勢力を拡大したいと思って いた可能性もあるっていうこと思いますね さあということで履歴書には新たに主義 思想の項目が埋まりました はい新たに埋まった項目です座右の名は もちろん天下部そして主義思想として天皇 の元での天下統一さらには海外進出も視野 に入れていたようですね えなんとなくえ履歴え具体的になってき ましたですねそうですねさあ現代に広まっ ている信長のイメージはどんな風に 出来上がったのでしょう か山焼き打ちなど過な行為がクローズ アップされがちな信長そんな残虐な人物像 は本当の姿なのでしょう [音楽] か文芸作品に描かれる様々な信長像を見て 防衛授の井上さんは暴力的に描かれてきた 信長に疑問を投げかけてい ますそういう軍もをま歴事実だとして取ら れる人が多かっ た信長を打った明智光秀が主人公の明智軍 江戸時代中期に書かれたこの軍者が信長の イメージを決定付けたというの です 明地軍を参考にした読み物や演劇では信長 の命令で金重モラ丸が光秀を打ち流血させ たエピソードなど信長の応募さが強調され てい ますさらにこうした信長のイメージ付けに 影響を与えたのは江戸時代武士の価値観を 作っていた授の存在 です江戸時代の政治家で学者の荒い白石は 著書で信長を公表してい ます天生残忍主君である将軍を追放した 信長を忠義にかけるものとして数列に批判 したの です平和な時代になればなっていくほどま 身分を固定化して殿様にえはかうっていう ことはそれ秩序を乱すことですからこれは 最もいけないことだと時代ごとに変わる 信長の評価人間として見た時非常に理解し にくい人なわけですね果たして本当の姿と は江戸の知識人たちには批判され続けた 信長しかしその評価は明治になると一変し ますここは明治2年1869年に織田信長 をるために明治天皇の名で見された健軍

神社爆発にですね織田信学校を再評価する ような動きが高まっておりまして孫上位派 の金王の師子たちの間ですとかまあの長州 犯の木戸孝義ですとか明治天皇からじゃ 祭りするようにというような沙汰が下った という風に聞いており ます 明治は天皇を支え帝の最高に鉱石のあった 行動者とし てまた人在の才能を重視し出身や身分を 問わない市民平等の選者として称えられる ようになりまし たそして戦後は国土経済成長のさ中権威を 打ち破る合理的な改革者としての信長像が 広まり ますでは孤独で悩みを抱えているなど信長 の複雑な性格が描かれるようになったと 言い ます信がドラマとしてなんで面白いのかて いうと非常に孤独な人であの人間として見 た時に非常に理解しにくい人なわけですね そこがま信長のあの謎の部分でもあり 面白いところでもあるえ1つの天才の孤独 みたいなものを私は個人的にはま受け取っ てるとこ です時代に連れて変わる信長の姿現代にも 通じる多面的で複雑な人物像はこれからも 新しい信長のイメージを踏み出していく こと [音楽] でしょう某君としてすごく批判的に見られ たりかと思ったら祭り上げられたりてこう 本当に時代によって違うんですねそうなん ですねあの信長はやっぱり時代とともにえ 印象が変わってきた代表的な歴史上の人物 だと思いますねうんある意味信長像が イコールその時代背景がどういうものだっ たのかって映しているような気もします まさにそうだと思いますね今ある種信長 ブームがあるとするならばま閉塞したあ 平成の時代ま言葉によれば20年遅れたと か言われる事代背景を受けてこういう時に 信長のような革命事がいてくれたらどんな 風にが動かしてくれるだろう変えてくれる だろうというそういう期待感だと思います ねあ他にも信長のエピソード色々残って ます けどタガドラマにも描かれた残虐な独露 宴会の真実とはあれは全くの出ためなん ですあそうなんですか え他にも信長のエピソード色々残ってます けど私たちが誤解してるようなこともある んですかはいあ例えばですねあの大美のあ 親子そしてその後信長に退しましたえ北陸 の越前え朝倉市この3人を売った信長が

ですねこの3人のシャレ神戸をですねえ 金箱を塗ってですねえそれを逆月にしてお 酒を飲んだという話があるんですねいや 有名ですあれは全くのデタなめなんですあ そうなんですかじゃあもう完全に嘘なん ですかえあの実はどういうことかと言い ますとまずえそのれ神戸ですねこれにうを これはその逆に言いますとったんですねで 酒を飲んだなんてとんでもない話で死ん 神棚に備えてで祈ったわけです活線は時の 運だともしかしたら自分がこうなってたか もしれないとどうか安くに眠ってほしいと いうことで逆月をあげたのはその後であっ てそのシャレ神戸を持って飲んだなんて とんでもない話でそのあ敬った人3人の シャレ神戸を見ながらみんなであの生きて てよかったなということをやったわけです ね実の信長という人は繊細な人でもありえ そういうことには割とこだわりのある人だ と思いますねさここまで埋まってきた信長 の履歴所なんですけれども先生がもう ちょっと足しときたいなと思うような項目 があればうそうですねあのつけ物まえ強み のところで愚直さを入れていただきました はいでまさに天下フをやろうとしま天皇の 元での天下統一ま海外進出も考えていたぞ ということで言うともうなかなかあのよく できてると思いますけれど本当ですかいい 感じになりましたかでもどうですかあの これこの履歴史を見てますと今までの信長 のイメージとだいぶ違うんじゃないですか いや全然違いますしもう個人的に一番 びっくりしたのはやっぱり真面目とか愚直 っっていうそこが強さだったっていうのが もう全然信長のイメージと違ったのでえ よく申し上げるんですけども本当に破天候 な人だったらですね人はついていかないと 思いますね小田野長川の時代はまだ中世 ですからねその中世の中で と戦おうかてのは信長ですからその信長を 指示して冷え焼き打ちをするとかですねえ そういう風なとこに行った過信団っていう のはどれほどやっぱ信長を信頼してたかと いうことだと思うんですねさ締め括りは当 番組の人事部長でいらっしゃる各先生に この英雄の能力を最大限に生かすための寸 信長の取説を考えていただきたいと思い ますある程度の権を与えたチームリーダー の形で彼をする権限をできるだけ異常して え好きにやらせるそういうことのできる むしろその上司が上にいるかどうかが信長 使えるかどうかにかかってくると思います ね信長の力を最大限に生かすにはチーム リーダーとして投しある程度の自由な権限 を与えることそれを容認する上司の土量が

重要です ねこれにて織田信の履歴書完成ですこうし てあの履歴書を作っていくと信長って今 までこうかなり遠い存在というか物語の 登場人物みたいな感じがしていたんです けどすごく身近な感じがしてもし今の令和 の時代に信長がいたらどういう仕事が向い ていたと思いますかまず時代の最先端を 行く医療やITの世界でえ活躍したんでは ないかな常識と言われるものをですね覆し て新しいかというものを作ったかもしれ ませんねそうですねもう少しで天下統一 だったんですけどねうん私はあの天下統一 もう少しでできた信長その全てをですね 奪ったあの人があの人とは天下風のえ夢を 打ち砕いた長本人ですよ明智光秀です信長 以上にですね履歴書は変わるかもしれませ んということで次回は光秀の履歴書作りに 挑戦していきましょうどうぞお楽しみに

BS11で人気の「偉人×歴史」シリーズより、「偉人・素顔の履歴書」第1話を年末年始特別公開!
★権利上の関係で一部表示されない、音声がない箇所がございます。ご了承ください。

第1話は、戦国の風雲児・織田信長。
革命児、冷徹、残酷、斬新…新説が次々と生まれ、信長のイメージは今も変化している。
信長が現代によみがえったら、どんな人物だったのか?果たして、真の信長像とは?その真相に迫る。

【番組概要】
戦国武将や幕末志士など、日本史にその名を刻む英雄・偉人たち。
彼らは果たして、私たちがイメージする通りの人物だったのであろうか?
それとも、現代人が知らない別の顔があるのか?
『偉人・素顔の履歴書 』 は、それぞれの時代に活躍した英雄たちの【偉大な功績】 と 【意外な素顔】 をクローズアップする歴史教養番組。
教科書に記された歴史的事実だけでなく、幼少期のエピソードやこぼれ話、最新の研究成果にも注目。
スタジオでは、歴史好きなナビゲーターと歴史専門家・加来耕三が、自由なトークを展開しながら、偉人の本質的な性格や価値観、趣味・特技など、パーソナルな“履歴書”を纏め上げていく。

【出演】
MC::中西悠理(フリーアナウンサー)
解説:加来耕三(歴史家・作家)

製作著作:BS11 / 制作:テレパック

#BS11 #歴史 #明智光秀 #日本史 #偉人 #戦国 #武将 #加来耕三 #中西悠理

「偉人・敗北からの教訓」好評放送中!
番組公式HP:https://www.bs11.jp/entertainment/ijin-haiboku-kyoukun/

BS11+で見るには?
https://vod.bs11.jp/contents/category/history

29件のコメント

  1. 天下布武 織田信長 社会主義
    天下泰平 明智光秀 民主主義
    偽天下布武 豊臣秀吉 資本主義
    偽天下泰平 徳川家康 主民主義

    現代はどれなんでしょうね😂 紛れもない事実は資本主義でしかない恥ずかしい時代です🎉
    明智光秀 Dの意志は憲法の前文に記されてますよ❤

  2. 信長の書状を見ても人となりがわかりますよね。
    佐久間信盛の折檻状はぐうの音も出ないほど正論だし特段無茶な要求をしていたわけでもない。
    一方で昔のこともねちねち書き連ねているのは根に持つタイプなのか、甘い対応を続けて貯め込んできたのか。
    甘いといえば松永久秀が謀反(4年ぶり2回目)したとき「どうしたんだ、ちゃんと話せば許してやろう」は甘すぎるだろ・・・
    寧々さんに宛てた手紙で、信長がとても気配りしながら夫婦喧嘩を仲裁しているのも意外性抜群で好きです。

  3. ジーエイチキュウに書き換えられたり消された歴史が最近表に出てきてるんですから
    そろそろ遠慮なく番組作るべきかと思います

  4. 歴史伝承の怖さを感じますね
    近代史ですら捏造されて正しく伝わってない事をみると何百年後の歴史の教科書が恐ろしいです

  5. 信長は天皇を殺しで、権力のみならずキリスト教を日本に導入し、それをバックにした権威も手にして、日本の王に成ろうとしたんじゃないかな。それで天皇を崇める明智に撃たれたんじゃないかな。日本の秩序を崩すものとして。

  6. 最近の日本史の学会では、信長を天才ではなく、”普通”の戦国武将だったとする見方が主流なようです。これに異を唱えているのが東大の本郷教授で、私も本郷教授の意見に賛成です。そもそも日本では天才を誤解していると思うのです。天才を「頭が良い」とか「秀才中の秀才」と捉えるのが一般的だと思いますが、これは間違っていると思います。これではピカソやモーツァルトが天才であるとは言えなくなるでしょう。私はクレッチマーの天才の定義が参考になると考えています。クレッチマーは「天才とは、常識に囚われない才能」と言っています。長槍を突くのではなく叩くように使用し、鉄砲を大量使用すると言った発想は、弱兵で勝つのはどうしたらよいか、普段は農作業している弱兵である農民兵を強兵に勝つようにするにはどうしたらよいかを考えた末、他の誰にも思いつかない槍や鉄砲の使用法を見つけたのが信長です。それ自体は誰かがやるのを見れば、ああそういうやり方があったかと誰でも分かる、容易い方法でしょう。そんなこと自分でも思いつくよと思うかもしれません。しかしそのような容易いことでも、信長が実行して見せるまで誰も気づかなかったのです。どうしてか。それは、それまでの常識あるいは思い込みが邪魔したからです。恐らく天下統一もそうです。信長以前は、誰も天下統一など本気で出来るとは思わなかったのだと思うのです。信長が天下統一が可能であることを示したことによって、初めて天下統一を目指す大名が何人も出て来、実際統一されたのだと思うのです。それらに最初に気づいたのは信長が常識に囚われなかったからであり、信長が天才であった何よりの証明だと思うのです。

  7. 鉄砲の三段打ちでなく、準備ができた人から撃っていく形でもさほど間隔は狭まれないと思いますね。
    それだけでなく、攻めやすい場所に集中して鉄砲隊を配置したり高低差を使うなど他の方法もあったのかもしれませんね、

  8. 「三段撃ち」の時は「発射間隔25秒なので敵はゆっくり歩いても接近できた」と否定的に解説。「準備ができたら撃つ」の時は「轟音」+「弓矢と組み合わせる」ことで効果的だったと解説。いや、だったら三段撃ちの時も「轟音」+「弓矢と組み合わせる」ことでより効果的になるはずでは?最初に結論ありきの検証・解説などは意味がないので控えてほしいものです。

  9. 大好き、加来先生。加来先生の番組が終わり本当に残念で週末が物足らなかったです。再放送ですがありがたいです!加来先生にどうぞよろしくお伝えください。

  10. 経済力があって、愚直で真面目で堅実…。
    にもかかわらず、多くの家臣に裏切られたのは何でだろう。
    独裁的な部分が突出してたのかなぁ?

  11. 保守派で真面目だけどド天然で外交無知なリアル織田信長を扱った大河がそろそろ出てきて欲しいよな。

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