【ブギウギ】NHK朝ドラモデル笠置シズ子が自伝で熱く語った「わが生涯の最良の年」とは!

[音楽] 戦時中仕事の状況も選曲も悪化していた 時期を上木静子は我が生涯の裁量の年だっ たと語っている適正歌詞として弾圧され 好きな歌も満足に歌わせてもらえなかった 彼女に一体何が起こっていたのだろう か今回はカ静子が自伝の中で熱く熱く語っ ている我が生涯の裁量の年を取り上げて いきます我が生涯の量の年とは燃え上がる ほど暑い愛情生活を送った日々でしたその 期間なんとわずか1年半ほどなんです上木 静子が最愛の人と相愛関係になるのは 出会ってから1年半ほども経った昭和19 年1944年のクレでした自伝によると その時のことをサイパンが落ちて今にも 本土の上空に大変態が被するかとの恐怖の 中でそれまでためにめいた私たちの上演は 人と燃えたかりましたと表現しています 彼女をメロメロにした最愛の人は吉本工業 の恩蔵師の吉本恵介です2人の出会いは 太平洋戦争待た中の昭和18年6月28日 名古屋のみ座の楽屋でした地方巡業で 名古屋に滞在していた葛木静子が同じく 名古屋のみ座で工業中だった俳優の辰 竜太郎の楽屋へ顔を出していた時のこと です辰己の楽屋には静子の他にも芸囚が 大勢詰めかけていて賑やかにしていた ところ楽屋の前の廊下を行ったり来たりし ている青年がいました女性人に圧倒されて 楽屋へ入りそびれているらしかったので しず子は声をかけてあげようと思いつつも 青年があまりにも美も修礼な気候自然とし ていたため言葉が出せないでいたそうです がへどとしているうちに青年は諦めたよう で立ち去ってしまいましたこの時の青年の 印象をグレイのセビロをシックに着こなし た長身の青年でジェームズスチュワートの ように鍛錬な近代感に溢れていたと自伝の 中でのろけていました言葉も出せないほど 見れていたという状況だったのでしょうね 2度目の出会いは翌日の6月29日静子が 宿泊していた旅館でのこと名古屋劇場の 常時一座も宿泊していたので部屋に遊びに 行っていたところまたしても部屋の前の 廊下を通りすぎた青年を見かけたのです 青年を見かけたしず子はドキリとしますが 自分の楽屋りの時間が来たので工業先の 太陽館へ出かけました3回目の出会いは その日の太陽館での1回目の舞台を済ませ た後でした静子の楽屋へ入ってきた吉本 工業の関係者の後ろであのの青年が もじもじしていたのです昨日から3度も 巡り合う偶然に静子はあと叫ぶ思いだった そうですこの青年こそが葛木静子の最愛の 人となる吉本英介で彼は静子の大ファン

だったのです2度も機会がありながら諦め て立ち去ったエスでしたが3度目は人を 返して引き合わせてもらったという次第 でしたここで初めて介が吉本工業の継者で 稲田大学の学生であることを知ります ドキリとして見れてしまい上の空になる ほどだった静子でしたが9歳も年下たと 知ってあまりの都の隔たりに気が楽になり 何の取り繕いもなく応答できたそうです エイスが翌日は和歌山に向けて立つことを 知ると同じく神戸へ向かう静子はどうだす ご一緒に乗りまほかと冗談を言うほどに なっていましたしず子は大正3年8月25 日生まれエイスは大正12年10月26日 生まれで9歳も年下だったので恋愛対象外 で弟のような存在になったようです英介も 静子の大ファンでしたが出会った頃は ファンというだけで恋愛対象ではなかった そうです出会ってすぐ一目惚れで即相愛 関係になったわけではなかったのです翌日 の6月30日静子が名古屋で10日間の 舞台を終えて名古屋駅へ行くと改札口の ところに盆が立たれたので送りに来ました と吉本関係の支配人がいましたそんなら ちょっと呼んできてくれはらへんとエイス に荷物を持ってもらうために呼びつける しず子でしたエイスはしず子と道連れ しようと同じ記者にして静子の席まで取っ てくれていたのですさらに和歌山へ行く 予定の英介は大阪で乗り換えになるのです が静子が荷物に困るだろうと神戸まで わざわざ行ってくれたそうですその後も 静子が地方従業に出かける時は東京駅まで 見送りに来てくれて荷物運びなど会しやっ てくれるようになります吉本工業の ボンボンですから普段は吉本の従業員にさ せていて荷物運びなんかしたこともない はずの介ですが行き届いた心配りでしず子 の世話をしてくれたのです心優しく フェミニストな青年だったので子だけに 対する特別なものとは思っておらず物好き な青年やなと思っていたそうです実際英介 も最初から静子に対し特別な感情があった わけではなかったようで物好きというか 世話好きというかねっからフェミニストな 青年だったのでしょうこの辺りでちょっと 介さんってどんな人か見ていきましょう 英介は大正12年1923年10月26日 に吉本工業の創業者吉本吉兵衛と吉本誠の 次男として生まれました長男は幼い頃に 亡くなっていたのでただ1人の後継者とし て育てられますエイスクが生まれた翌年 大正13年2月13日には父親の吉兵衛が 37歳で救世したため母親のせは吉本の家 を生まれたばかりの赤ちゃんのエイスに

相続させたのですエイスは母親に出来合い され大勢の召使にかしづかれて何1つ不 自由なく育った筋金入りのボンボンでした 死放題のことを母親から黙認されていたの でわがままなところもありおしゃれで贅沢 屋で身につつけるものや持ち物は豪華を 極めていたそうですそんなお住みつきの ボンボンの恵介と静子はお互いの家に遊び に行くようになり急速に関係を縮めていき ましたですが9歳も年下で身分も違うし まだ学生だったので恋愛対象とは考えられ ず重宝なお友達ができたくらいの気持ち だっったそうそうですしず子はエイスを弟 扱いしたりなんや工業師の小せがれのくせ してなどと小にすることもしちだったのだ そうですお互い大阪から出てきて東京で 1人暮らししていたので戦争生活の不安や 窮屈さから何かに付けて頼り合う友人の ような兄弟のような存在になっていました また月人を雇いたくても雇えない戦争中 だったので探し物や買い物を頼んだり荷物 を頼んだりまるで男臭のように頼っていた のです召し使いや従業員にかしづかれてき たエイスに荷持ち持ちをさせたりするのは しず子しかいなかったでしょうねそんな 関係が続いていた2人が互いに惹かれ合い 相愛関係になるまでには1年半もの時間が かかりました1年半もの間見せかけも 気取りもなく素の自分を見せてきた上で 惚れあったのですから一度結びつくとその 結びつきがゆことはなかったそうですこう して昭和18年6月28日に名古屋のみ座 の楽屋で初めて出会った静子と英介は1年 半後の昭和19年12月相愛関係となり 愛情生活を始めます静子が我が生涯の裁量 の年と語っていたのは昭和19年12月 から昭和21年春までの愛情生活を送った 日々のことでした愛情生活を始めたと言っ ても2人だけで水いらずの家庭の味を経験 することは1日もありませんでした当時 三軒茶屋の静子の家には父親が一緒に住ん でおり英介が着金するのでしず子が英介の 家に泊まりに行っていました英介の家は 吉本の別たでエスの名義になっており 市ヶ谷の藤見長にありましたが普段は女中 さんがいたので気が置けなかったそうです また近所には英介の姉が住んでいたので 随分気をつけていただそうで行く時は深夜 を狙い帰る時はまだ皆が寝静まっている 夜気にしていました2人揃って近所を歩く ことなどは禁物で一目をはかりながら 歩引きを楽しんでいたのです2人の交際を まだ人に知られてはいけない事情があった ため誰かに見られるといけないからと断っ ても英介は静子の舞台用具を持って劇場へ

送り迎えしてくれたりしていましたこんな に人の愛情に甘えたことはこの時以外には というほどエイは心配りしてくれたのだ そうですそんな極秘の交際に刺激を感じ ながら甘い生活を送っていたのですが昭和 20年5月25日の東京空襲で静子の家も 英介の家も消失してしまいます家も火も ほとんど消失してしまい選挙も悪化してい たので静子の父親は理の香川へ帰ります 静子も疎するつもりでしたが吉本工業の者 長でありエスの叔父にあたる林博隆の世話 でエスや親戚の繊細者のために林ひたが 借りた小久保の家に住まわせてもらうこと になりますこの小久保の家にはその年のク で半年間ほど住まわせてもらうことになり ますが静子がエスと1つ屋根の下で暮らし たのはこの時だけでしたと言ってもエは2 階の部屋静は杉原さん一家と同質でした から2人の愛情生活を送るには程遠い環境 でしたこの時はまだ2人が交際している ことを誰にも言っていなかったし隣の家に は叔父の林博隆がいたし同居していた人の 中には林博隆の奥さんの家族がいたので気 が休まることはなかったそうですそんな 着金がある中愛情の火花を散らしていた そうでちれたい反面逆に刺激的だったよう です周囲に気づかれないようにスリリング な中で愛を育んでいたことで強い思いが 溢れていたんでしょうねこの頃の静子は あまり仕事がなかったので1日中エイスの 部屋の掃除や肌着の洗濯などをやりすぎる ほど海外しくエイスの身の回りの世話をし ていました事前によるとこの同居していた 半年ほどのことは静子にとって忘れられ ないロマンスアルバムなんだそうです昭和 21年1月には静子ははっと家に身を寄せ ます同室の杉原さん家族にも悪いし何より 叔父の林博隆が2人の関係に気づき始めた 気配があったので荻久保の家を出ることに したのですですがハト家にもいずさがあっ て4月には西木の楽屋によく遊びに来てい たご夫人の家に引っ越しますここには英介 も遊びに来ていたのですが近所には芸能 関係の人や新聞雑誌関係のジャーナリスト 吉本家の親族なども住んでいたのでれ立っ て歩くのは気を使っていたそうですそんな 中恵介は昭和21年4月早稲田大学を中退 し吉本工業の社員として働き始めますこの 頃には2人は結婚することを決めていまし たがまだ周囲の人には話していませんでし た終戦後のまだ混沌どした時期で吉本工業 の事業形態を確立するために吉本家は財産 整理を行っていたのでそれが終わるまでは 2人の結婚話は出せる状態ではなかったの です国は戦後処理のため10万円以上の

財産を所有する個人に財産税を課税してい たので吉本家もそのための財産整理を行っ ていたのです吉本工業で働き始めたAでし たが仕事がかなり多忙だったようで元々体 が弱かったこともあって体調を崩しがちに なります吉本本家でもエイスケの体を心配 して規範するように再促してきました そして昭和21年初夏吉本本家からの実家 に戻れという繰り返しの要請に答えて英介 は規範することになりますこの頃には英介 の計いで静子にはマネージャーがついてい ましたからしず子のことをマネージャーの 山内に託して規範することにしたのです 昭和21年6月16日静子はマネージャー の山内ととに琵琶湖までエスを送っていき 琵琶湖班の宿で時間を共にし別れを惜しみ ました 事前によるとエイスはではちょっと行って くる境秋には東京へ帰れるやろうと23日 旅行にでも行ってくるかのように軽やかに 手を振って規範していきましたですが秋に なってもエイスが帰ってくることはなく 10月頃になって静子は妊娠に気づきます 妊娠のことを英介に伝えるために昭和21 年12月神戸八千代座に出演した際に マネージャーと共にエイスに会いに行き ます来年の3月には吉本家の財産整理が 終わるのでこれ以後に静子とのことを 切り出すことや子供の認知のことなど今後 のことを話し合い大阪駅のホームで分れ ますこの後英介の状況を心まちにしていた シコでしたがこれが最後の対面となって しまいました英介の帰りをびながら昭和 22年1月銀行からお金を借りて世田谷屋 商品神社前に一軒屋を持ち介が用意した マネージャー山内一家と共に住み始めまし たエイスがいつ戻ってきてもくつろげる ようにそしてここで親子3人水イラずで 暮らすために家の造作を整えて準備してい たのですその一方でエスは静子に舞台を 辞めてほしいと何度も言っていたようです ほどのことがなければ20年もの過生活を 辞めるなんてことは考えられなかったしず 子も自分の人生を預けようと決めた英介の 願いだったし子供を授かったことで引退を 決意します昭和22年1947年1月エス との約束で引退を心に決めていた静子は 妊娠6ヶ月で日劇フェスティバル賞ジャズ カルメンに出演しますカルメンの公演中に エスが上京するはずでしたが叶わず状況の 予定は2月3月と先延ばしになっていき ます4月になってもエイスが上京すること はなくをするうちに風で寝込んでいるとの 知らせが届きます実際には風どろではなく エイスの病状はかなり悪化していたようで

5月初めには大阪医大へ入院することに なります静子は矢も立てもたまらず自分が 大阪へ行くと言い出しますが予定日が5月 15日と迫っており会いに行くことは叶い ませんでした来るには及ばない良い子を 産んでくれ早く子供を見に行けるように 幼女するからと返事をよしてきた介でした が我が子の顔を見ることもなく昭和22年 5月19日去年24歳で永眠しました エースの不法が静子に知らされたのは翌日 の5月20日でしたエースは男の子ならし を女の子ならえい子と遺言を残し子供の 名義で3万円の貯金を残してくれていまし たそして静子は予定日を大幅に遅れて6月 1日に女の子を出産しました自前には最愛 の人をなくしその10日後に最愛の子を 設けた静子の人生愛冠の極地を綴る日の 記録が日記形式で綴られています静子は娘 を1人で育てていく決意をし引退を 取りやめ生涯独身を貫いて芸能の世界で 活躍していくことになり ますということで今回は葛木静子が事前の 中で熱く語っている我が生涯の裁量の年を 取り上げてみましたがいかがだった でしょうか この動画が良かったなと思われましたら高 評価チャンネル登録をお願いいたします 今回も最後までご覧いただきありがとう ございまし た

戦時中、仕事の状況も戦局も悪化していた時期を、笠置シヅ子は「わが生涯の最良の年」だったと語っている。
敵性歌手と弾圧され、好きな歌も満足に歌わせてもらえなかった彼女に何が起こっていたのだろうか。
今回は笠置シズ子が自伝の中で熱く熱く語っている「わが生涯の最良の年」を取り上げていきます。

■参考資料
・笠置シズ子自伝 歌う自画像
・笠置シズ子の生涯 ブギなメロディCD付き
・吉本せいの息子・吉本穎右の立志伝
https://nobunaga-oda.com/yosimoto-eisuke/
・毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20190124/ddl/k27/040/335000c
・日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52173310U9A111C1AA1P00/
・四国新聞社
https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20220624000286

■音楽:BGMer

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#ブギウギ #笠置シズ子 #吉本エイスケ #愛情生活

1件のコメント

  1. 笠置さんの娘さんがうちの母は
    恋多き女では全く反対で恋少なき女だったそうです!笠置さんは本当に現代に現れたとしても凄いシンガーですよ!古いフィルム見てもめちゃくちゃ格好良いので驚きます。

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