邪馬台国とか卑弥呼とか、日本人にはロマン溢れる「魏志倭人伝」の記録ですが、まぁ、正直なところ結構、魏王朝の政治的な意図も背景に含まれてるっぽいし、三国志から倭人の詳細を見極めようとしても難しいというか、ほぼほぼ無理ゲーなんじゃないかって思う今日この頃。
でも「正史」がどのような世界観を基軸にして「異民族」を記録しているのか、という点を見るという上では凄く参考になるなぁとも思ったり。

🌸 項目

⓪スタート 00:00
① 倭国の記録 01:58
② 倭人の風習 06:21
③ 魏志倭人伝 11:31
④ 曹魏と倭国 16:39
⑤ 空白の歴史 21:55

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📚 参考文献一覧
「正史三国志(著:陳寿/ちくま学芸文庫)」
「史記(著:司馬遷/ちくま学芸文庫)」
「三国志(著:横山光輝)」
「三国志地図(販売:東光書店)」
「三国志運命の十二大決戦(著:渡邉善浩)」
「はじめての三国志(著:渡邉善浩)」
「三国志その後の真実(著:渡邉善浩・仙石知子)」
「漢帝国─400年の興亡(著:渡邉善浩)」
「地図でスッと頭に入る三国志(監修:渡邉善浩)」
「中国史 上巻(著:冨谷至・森田憲司)」
「もう一つの『三国志』 異民族との戦い(著:坂口和澄)」
「よいこの君主論(著:架神恭介・辰巳一世)」
「教養としての世界史の読み方(著:本村凌二)」
「入門老荘思想(著:湯浅邦弘)」
「ある地方官吏の生涯(著:三宅潔)」
「南北朝時代─五胡十六国から隋の統一まで(著:会田大輔)」
「魏志倭人伝の謎を解く(著:渡邉善浩)」
「馬の世界史(著:本村凌二)」
「武器と防具 中国編(著:篠田耕一)」
「物語 食の文化(著:北岡正三郎)」
「古代中国の24時間(著:柿沼陽平)」
「周縁の三国志 非漢族にとっての三国時代(著:関尾史郎)」
「完訳 華陽国志(訳:中林史郎)」
「宦官 側近政治の構造(著:三田村泰助)

🌎 使用させて使用させていただいた白地図掲載サイト
蒼天:http://3594.wiki.fc2.com/

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【まとめテストの答え】
① 親魏倭王
② 難升米・都市牛利
③ 壱与
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#試験に出る三国志 #三国志

27件のコメント

  1. 一番乗り。もしかすると倭から魏への使者が公孫淵に捕らえられ、それが原因で中断していた時期があったのかもしれない。まあ、遅くとも「八王の乱」の頃には互いに交流どころではなかっただろう。ちなみに邪馬台国の位置については、父は福岡県朝倉市と考えている。もちろん異論は百も承知。皆様のご持論もお待ちしている。

  2. 公孫淵を打ち倒し倭人と魏の外交関係をつくった司馬懿の功績を大きくするために若干位置とか情報が盛られてそう

  3. 大陸で軍閥が割拠していると、倭国でも安心(?)して内乱にかまける。アチラに統一王朝が成立するとこちらもあわてて...

  4. 横山三国志をみる前の小学校の時、歴史マンガで魏志倭人伝や漢委奴国王の金印を知って。
    後から三国志の魏を知って、「あそこか」と驚いた思い出。
    若い時は武将や戦国時代が好きやったけど、最近は古代が何か好き。年ですわ。

    奈良の纒向遺跡で多数の桃の種が出土されて(祭祀で飾られたり、薬効を期待されたり)、邪馬台国論争に終止符か?と思われたが、
    その後で?岡山でも大量に出土されて。結局、決めてに欠けるんでしょうね。
    もし邪馬台国が総称か何かなら、答えは一つとは限らない気がしてきた。。。

  5. 細かい間違いいっぱいあるけど、きりがないので一つだけ(他の人が指摘してくれるでしょうw)
    卑弥呼が最初の貢ぎ物は二丈ではなく「二匹二丈」です。
    1匹=4丈、つまり10丈になります。
    ちなみに1匹で馬1頭と交換できます。布が貴重だったことがわかりますね。

  6. いつも楽しく拝見しています^ ^
    倭と魏国の関係についての考察は、正に目から鱗でした(*゚∀゚*)b
    政治的な思惑とはいえ、魏国が記録してくれたおかげで、遠い未来の僕らがワクワク出来るのは面白いなぁと思いました笑

  7. 貢物の数が少ないのは偶然説かなぁ、そして魏本国についたのはいいけどそのあたりで明帝が崩御して新帝曹芳の初仕事として朝貢が利用されて話がどんどん大きくなったんじゃないかと。

  8. 晋・魏にも事情があるので「倭国」について大きく見せる必要があったのはよくわかりますね、具体的な場所は不明ですが邪馬台国については北九州説と近畿説に集約されるのでしょうかね。

  9. 司馬懿忖度の盛り記述によって邪馬台国の位置がはっきりしないわけか。この解釈は納得できますねぇ

  10. 文化や習慣の類似性から、古代中国の南東部に居た百越の一部が日本に渡ったものが倭人という説もある。

  11. うぽつです。やっぱり古代史はロマンを感じますね。
    日本ですと過去には山梨や兵庫で孫呉の紀年銘鏡が見つかったりもしているので、今後の研究が楽しみです

  12. ちょっと長くなるけど…

    そろそろ「正史」という言葉の意味も言っといた方がいいと思うので。

    「正史」で検索すると国立公文書館の記事が一番上にくると思いますが、そこにあるとおり「正史」とは本来【紀伝体で書かれた歴史書】のことです。

    【王朝が正統と認めた歴史書】というのは後から出てくる解釈です。

    もともとは『隋書』経籍志に出てくる言葉で、唐は歴史書を[正史・古史・雑史・起居注・雑伝など]に分類しました。

     〇正史は一つの王朝のことを記した歴史

     〇古史は春秋左氏伝のように古い形式である編年史

     〇雑史は正史にも古史にも入らないもの

     〇起居注は皇帝の日誌

     〇雑伝は個人の伝記

    『隋書』経籍志には67部の正史の名前が出ています。三国時代では『陳寿三国志』の他に『王沈魏書』『韋昭呉書』等が「正史」として挙げられています。

    後の清の時代になって「二十四史」に絞り込まれますが、それまで『陳寿三国志』はいくつもある「正史」の一つにすぎませんでした。

    そしてここからが本題ですが、唐の時代から歴史書の編纂は多数の人間を集める集団作業になります。

    それまでは『史記』の最後に太史公自序があるように、(例え本人の職務が史書の編纂だとしても)あくまで個人としての著述だったのです。

    つまり王朝が命令して書いた物が「正史」になるわけではなく、いいね!と王朝が思った物が「正史」になったのです。
    そして唐以前に「正史」という概念は存在しません。

  13. 私見ですが、倭国桓霊の間争乱し女王を立てて安定する。多分に193年に夕刻の日食(これは献帝紀に日食があったのに観測官が観測を怠り報告しなかったので処罰すべしという賈詡の上奏があったとの記載)があったのでビビって争いを収めて卑弥呼が立てられたと思います。
     卑弥呼はヒヨコ風に言うと「私、魔術が使えるわよ♪」なんだけど、実際は五斗米みたいな感じだった(張衡・張魯と同類)と受け取られていたと思います。
     動画内のとおり、宣帝の功績をかさ上げするために過大評価していたのだと思います。
     238年の時は、明帝が既に病床で使者を代理で引見したのが宣帝だったとの説もありますが、代理で引見するなら司徒の衛臻だと思う。宣帝が帯方郡で偶然倭国の使者を見つけて戦利品として洛陽に連れて行って引見させたのではないかと思います。
     243年は狗奴国との戦争で支援が欲しいための朝貢、248年(前年に夕刻に日食が発生し卑弥呼が殺され、248年に日の出とともに終わる日食が起きて、壱与が立てられる)は新女王即位による朝貢だと思います。このことは日本書紀における岩戸の隠れに相当する出来事で、天照大神がちょっとおマヌケな女神から完璧超神に変貌しているのも、卑弥呼から壱与への代替りを示唆しています。神功皇后(壱与?)の崩御269年以降は日本書紀では八岐大蛇、大国主の国譲りと分裂と抗争の時代に突入します。神功皇后69年の摂政は卑弥呼と壱与が合体してますけどね。
     最後に、倭国は華北や朝鮮に比べれば気候が温暖なので長寿になるとは思いますが、この時代の平均年齢って30歳くらいじゃなかったかな?

  14. 天明4年(1784年)に出土した「漢委奴国王印」は筆記偽造防止学上の信頼性が実は高く、中国雲南省石寨山西漢古墳群の6号墓である滇王墓から出土した「滇王嘗羌印」、揚州地区の鄒江県甘泉2号漢墓から出土した「広陵王璽」の字跡、篆刻手法と高度に類似しており、3者の時間は2年を超えない。基本的には漢王朝宮廷の同じ職人が手作りした可能性があるだけだ。
    「国王」という字は、当時の漢王朝の皇帝が外臣の王を冊封した際に使用した最高等級の肩書きで、これは漢皇帝が「倭国」のある部族政権が合法的、合理的に自分の領土のすべての管轄権を持っていることを正式に認めたことに相当する。これは周辺部族にとってかなり高い権威の象徴である。
    少なくとも、西暦57年前後に中国の史書に登場した「委奴国」の所在地は筑前国那珂郡にある可能性が高い。しかしこの「委奴国国王」の印綬を受章した部族政権は、魏書では「伊都国」という部族政権に変わった。

  15. 邪馬台国の南には「狗奴国」という政権が存在し、その部族の支配者は「狗古智卑狗」と呼ばれているが、「狗古智」という言葉は、平安時代にはすでに日本人が気づき、中国語の発音は「菊池彦」によく似ていた。たとえ千年後でも、現代ラテン化した中国語の発音は、「Gou Gu Zhi Bei Gou」と、「きくちひこ」の発音に非常に似ている。

  16. 倭国→やまと国
    台与は『とよ』と読むので
    邪馬台国→やまと国
    中国の周りは皆蛮族扱いなので酷い漢字を宛てがわれたと考えられる。
    卑弥呼は日巫女なのかも。
    帥升は師という漢字が使われているので技術提供する存在と考えれば日本に高度な文明があったと考えられる。
    倭人は海洋民族でハワイや南米の方まで行っていたとかなんとか。
    刺青はそっちの文化かも。

  17. 面白かったです。
    ただ、三国志に関して言えば、「呉志呉主伝(孫権伝)」にも倭人?の記載があって、
    孫権が、衛温と諸葛直に「夷州、亶州」の攻略を命じたんだけれど、陸遜が諫めた話があります。
    結局強行したんだけれど成果は無し。衛温と諸葛直は処刑されたといわれています。

    この「夷州、亶州」てのが「倭」だったんじゃないか?と言われております。
    亶州は、「徐福」がたどり着いた場所ともされてて、やはり日本だった可能性もあります。
    だが、陳寿ならば「倭が呉を撃退した」って喜んで書くはずだと思うので、「書いてない」ってのは「違う」のかもしれません。
    (というか、陳寿は「倭」と「呉」を徹底的に関わらせてないんですよね。「倭は呉の大伯の末裔」すら書かないからなぁ。)
    この「夷州、亶州」や「東鯷人」の話は漢書にも出てくるし、会稽方面からも「倭」が来ていた可能性が高いです。

  18. 朝鮮とか鮮卑とかいう名称も国家や民族として歴史が浅く未熟であるとか、卑しいという要素を含んだものでしょうし、大秦国とか大月氏国とかは名称からして大国扱い(実際大国なんでしょうけど)されてるし、時の政権が自身の正統性を主張するための史書で外部の勢力を上げたり下げたりするのは古今東西よくあることなんでしょうね
    易姓革命の概念がある中華の王朝ならなおさら・・・

  19. 【もう一度韓条から倭を見てみるの巻】
    『辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕・齊之名物也。』(東夷伝韓条)

    おそらく徐福一行が到達した所は三韓の一つである辰韓。
    東夷伝の説明だと…

    その昔秦の役目を放棄してこの地に辿り着き馬韓が土地を割いて住まわせてくれた。言語は馬韓とは違う。国を邦、弓を弧、賊は寇と言った。辰韓人は秦人に似ている。

    ザックリ訳すとこんな感じだろうか。

    この辰韓人が弥生人の原型かもしれない。我々日本人も国を邦と言うし賊には寇の字を使うからね。(邦人、邦画、元寇、来寇とか)

    その辰韓の記述にこんなのがある。
    『今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。』(東夷伝韓条)
    『其俗、行者相逢、皆住讓路。』(東夷伝韓条)

    ↑辰韓人は男女とも倭人に近い。その風俗は道行く者と逢えば足を止めて道を譲る。譲る精神が当に日本人ぽいよね。

    『弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施竈皆在戸西。其瀆盧國與倭接界。』(東夷伝韓条)
    ↑更にお隣の弁韓は辰韓と雑居している。衣服も辰韓と変わらない。言語も近いが鬼神を祀り方が異なる。
    瀆盧國(弁辰瀆盧国)は倭と界を接している。

    弁辰瀆盧国とあるからこの瀆盧国が雑居した国なんだろうね。その瀆盧国が倭と隣接してる事が判る。定かでは無いが、弁韓は日本列島まで勢力が及んでいた可能性もある。(飛躍した妄想w)

    秦人が辰韓で土着化して更に倭人と融合したのが弥生人なんじゃないかな?
    そんな弥生人系が弁韓を通して日本に流入したと思いますがどうでしょうか。(はい素人の妄想です)

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