【タイムテーブル】
00:00 導入
01:42 管理所で生まれた政治犯の子供
04:55 管理所での過酷すぎる労働生活
11:26 管理所での過酷すぎる学校生活
15:37 壮絶な拷問と家族の悲惨な末路
19:28 新たな出会いと管理所脱出計画
25:25 東赫が隠し続けた管理所の真実
29:08 総括
【関連動画】
【参考文献】
動画のED前に記載しています。
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#北朝鮮
#朝鮮探訪録
#強制収容所
#金正日
#朝鮮半島
#平壌
#脱北者
2007年アンミンチョルの元に日本の テレビ局から取材以来が舞い込みました ある人物のインタビュー映像を見て証言の 審議を確かめて欲しいという内容ですアン ミンチョルは1995年に北朝鮮を脱出し た脱北者の1人です北朝鮮の強制収容所で 警備院をしていた人物で当チャンネルでも 彼の恐ろしい経験団を解説しています インタビュー映像を見たアンビョンチョル は驚愕しました映像に移っていたのは紛れ もなく自分が強制収容所に勤務している時 にあった囚人でありそれも完全統制区域の 囚人だったからです北朝鮮の強制収容所に は有期系の囚人が収容される革命化区域と 中神経の完全統制区域が存在します完全 統制区域には国家に反逆した重罪の政治犯 が習慣され極めて強い情報統制や厳格な 警備ゆえに1度入れば絶対脱出でないと噂 される最も過酷な獄です実際に完全統制 区域から抜け出した脱北者はアン ミンチョルとインタビューを受けている 青年新道の2人しか存在しませんアンみ チョルは運転技術を持つ警備員という立場 だったため比較的容易に脱出することが できましたが新道局の脱北はまさに奇跡と いう他はないでしょう今回は完全統制区域 で生まれた新の壮絶なをお伝えします当 チャンネルでは朝鮮関連の情報を発信して いきますので興味のある方は是非 チャンネル登録していただけると嬉しい ですそれでは見ていき ましょう1965年のある日明方の空が 明るくなる前に北朝鮮の警察保安員が突然 民家に押し入ってきました家の中にいた 家族は命令されるがままに荷物をまとめ車 に乗せられて別のの場所に連れ去られます 連れ去られた長本人たちは事情を全く 知らされませんでしたが連行された理由は 10年以上前に彼らの親族が脱北を試みた からでした脱北は北朝鮮において重罪で あり親族が重罪人になれば連座性で直系 一族も罪に問われます彼ら自身が罪を犯し ていなくても親族であるという理由だけで 出身成分が悪くなり逮捕されてしまうのが 北朝鮮という国なのです 彼らがたどり着いたのは国家保衛部秘密 収容所完全統制区域14号政治犯管理所 でした管理所に習慣された一家は全財産を 没収され互いに引き離されれて生きている かを確認することすら難しくなりました その中の2人だった父と母が管理所内で 結婚し1982年に管理所で新道局が 生まれました強制収容所では模範集同士を 結婚させる表彰結婚という制度がが存在し ますこれは彼らの人生に意味を与えるため
ではなく生まれてくる子供を労働人材とし て刺激し収容所内の生産手段を確保する ためのものです近年は20代の60%が 結婚しているようで彼の村に未婚女性は まずいませんでした表彰結婚の対象年齢は 男性が23歳以上女性が21歳以上で結婚 させるかどうかは保衛員の気分次第で決め られますいきなり保衛員に呼び出されて 相手を当てれ結婚するタイミングも結婚 相手を選ぶ自由も認められません選ばれた 男女は5日間共に夜を過ごして子供を作り ますいかなる娯楽も認められず釈放の可能 性もない終人の大半にとって唯一認め られる結婚は人生最高の幸せですしかし 興味のない相手との結婚を一方的に決め られるため結婚を歓迎しない囚人がいる ことも確かでありそういった夫婦が子供を 作っても特別な愛情を注げない場合が ほとんどですゆえにドヒも家族の過去や 関係に対して何も知らされず父や母そして 8歳年上の兄に対して特別な感情を一切 抱いてきませんでした血がつがっている 家族であると理屈では分かっているだけで 産んでくれたことに対する感謝や会いたい という感情は全くありませんでした強制 収容所で結婚した夫婦は同じ家で一緒に 暮らすことは許されず東はしばらく母と 生活した後1人暮らしをするようになり ます父と会うのは特別な日だけ働いている 途中で出くわすことはあっても会話したり 挨拶したりすることは規則で禁止されて いるため他人同士のように振る舞わざるを 得ません強制収容所で生まれたドヒの生活 は一体どのようなものだったのでしょう か韓国の情報機や人権団体によると北朝鮮 には6つの管理所が存在します管理所とは 強制収容所の分類の1つであり国の体制を 批判した政治犯を収容する最も過酷な刑務 所です詳細は別動画で解説していますので 是非合わせてご視聴ください最も巨大な 管理所の規模はロサンゼルス氏よりも広大 ですが一目を避けた山奥の谷などに建設さ れているため外部の人間が発見することは 非常に困難です 一定感覚で立つ監視島と巡回する警備兵 敷地をほぼ途切れなく囲む高圧電流の鉄蔵 網が脱出を固く阻みます管理所には一部の 囚人が思想教育を施され中性神が認められ て釈放されるような地域もありますがそれ 以外は死ぬまで強制労働させられる完全 統制区域ですドヒが生まれた完全統制区域 の囚人はほとんどが管理所内で生まれたか 大昔に習慣されたものであるため管理所の 外の存在を全く知りませんまた管理所から 釈放された人間を見たことは1度もなく
ここから出られると考える人間もいません 自分やその先祖が罪を犯したからそれを 償うために一生働かなければいけない誰も がそのような考えだけを持っています彼ら には自分が所属する作業犯の 半長靴もに対する不満はありませんあまり に過酷な環境ゆえにある程度の期間内部で 生活していると意識が麻痺するのです外部 から刺激を受ければ変化があるかもしれ ないが自主的に判断や革命を起こすことは 絶対にない局はそのように証言します管理 所の敷地は非常に広大でいくつもの村や 人民学校寄宿者や病院倉庫や畑などが立て られていました村も独身世帯の村と家族世 の村に分けられており東局の暮らしていた 家族世帯の村は4世帯が住む家が40件 ほどあったそうです家族世帯では母と子供 が一緒に暮らし子供が人民学校を卒業する と寄宿者で生活するようになります高齢者 になっても労働から引退することはできず 60歳から80歳までの囚人のみが働く 作業犯に入れられます自分たちの世話すら できないほど弱った老人も健康な若者と 区別されず人生を終える瞬間まで働か なければいけません完全統制区域の特徴の 1つは北朝鮮国内であればどこにでもある キムイルソンやキムジョンイルの肖像がや 銅像が設置されていないことでしょう囚人 は生涯釈放されないことが確定している ためもはや洗脳する価値もないとみなされ ているのですそのため囚人はキムイルソン やキムジョンいキジ雲の顔や名前すら知り ません代わりに囚人が視させられるのが 管理所の銃の規定ですこれは囚人が検修し なければならない法律であり違反者に 待ち受けているのは確実な死ですこの規定 はドヒが管理所で生きる上での絶対的な 行動指針となりまし た管理所の囚人が最も多くの時間を費やす のが強制労働です一般的な囚人は朝4時に 気象して朝食を取り後時に出勤し19時 以降に外を出歩くものはいません女炭鉱 公務建設食料工場セメント工場等時工場 ゴム工場静止工場法制工場などの職場が あり囚人は作業犯という20人から30人 の単位ごとに仕事します作業犯には保衛員 が配置されますが保衛員は全体的な統括を するだけで実際に作業を管理するのは作業 長です作業長は囚人の中から保衛員が選ん で任命され彼らは同じ囚人に対して暴君の ように高圧的に支配します現場の中でも 特に危険なのは炭鉱です当時中学1年生 だったドヒは2500mの深さまで行動に 入り石炭をトロッコで運ぶ仕事に従事し ましたトロッコが脱線して足を引き裂かれ
たり行動が暴落して生き埋めになる事故が 絶えなかったそうですまたダムの建設現場 も列を極めた作業でした膨大なを誇るドガ を止めるダムを作るのに手押し車以外に まともな装備もない栄養不足の素人が動員 されるのですコンクリートの壁が崩れて 押しつぶされたり鉄砲水に飲まれて流され たりして月に7人から8人は犠牲となり ました定休日は1ヶ月に1度毎月の1日 のみであはキムイルソンとキムジョンイル の誕生日や正月などの祝日33後の タイミングも休めます休みと言っても自由 間はほとんどなく事務的な書類整理を行っ たり山に木を取りに行ったりしなければ なりません家族世帯の場合毎日の夕方に 帰宅する際に食料配給があります1日の 配給量はトウモロコシの粉を蒸した トウモロコシ飯が300から700gと 副菜として塩漬けの白菜3株そして塩です 塩漬けの白菜のみを置かずにして白菜1枚 で一食を取る生活が1年中続きます その日に受け取った配給はその日のうちに 消費しなければならず備蓄することは許さ れません配給だけでは空腹をしのげない ためトヒは管理所内で発見したネズミを 捕獲して焼いて食べていました秋には稲子 バッタトンボなどを焼いて食べ雑草や キノコも採集しました住居環境に関しては 水道施設がなく共同井戸から水を組んで 生活水として使用します自宅には風呂が なく冬でも村にある川や溝で体を洗わ なければなりません暖房や料理の際には 石炭を炊きレタガスで死亡するリスクと 隣り合わせで生活しています服で防寒し たいところですが作業服が半年に1度 履き物が1年に2速支給されるのみで靴下 に至っては支給すらされません寒さの 厳しい北朝鮮ではただ家で過ごすだけでも 毎日が肛門のようでし [音楽] た大人は1日12時間以上の労働を強い られますが子供は学校があるため大人とは スケジュールが異なります完全統制区域の 管理所にも学校があり逮捕されて習慣され た政治犯の子供やトヒのように管理所で 生まれた子供が通っています幼稚園がなく 5年生の人民学校と6年生の高等中学校で 学生生活はのべ11年間全ての学生を 含めると1000人以上が在籍していまし た投稿は朝8時で45分間の授業を60 分間の昼食時間を挟んで6回受け15時 10分に授業を終えてから労働支援に 駆り出されます授業時間だけを見れば 北朝鮮の一般的な人民学校よりも長いの ですがキ一族の歴史や党の革命士地理や
音楽といった強化はなく科目は国語算数 体育の3つのみです政治犯の子供は労働 人材でしかないため強制労働するために 最低限必要なことだけを教えられますドヒ の場合国語は字を書くことだけを教えられ 本を読む機会はないため読む練習はさせ られませんでした算数では足し算と引き算 のみを学び掛け算や割り算は学びません でした体育は基礎的な運動能力をつつける ためかっこや鉄棒のぶら下がりのみを行い 球技は存在すら教わらなかったそうです 管理所にも車や駅があったためそういった 乗り物の存在は知っていましたがアメリカ や中国などの外国について耳にしたことは ありませんでした難しい知識は学校で扱わ ないため宿題が出ても学生はきちんと問題 を解いてきますもし宿題を間違えても罰を 与えずに政党を教えてくれますただ学校に 遅刻したり授業でいりしたりした場合待っ ているのは棒や無知による容赦ない体罰 ですドの同級生の女子はを盗ことで先生 から暴を受けて死亡しました行の悪い子供 や間違いを犯した子供は管理所の人民学校 では生きていけません授業の合間にある 10分間の休憩時間には東急生で じゃんけんやお手玉をして遊びますしかし お互いに監視して隙を見せれば密告すると いう環境において友人という意識は特に ありませんでした同級生の家に遊びに行く ことは禁止されていませんでしたが他人を 迂闊に信じらないたトは友達付き合いをし なかったと言います同級生同士の対立は ありませんでしたが彼らの敵は人民学校の 外にいました少し離れた別の場所には保衛 員の子供が通う学校があり彼らは政治犯の 子供を半道分子のガキとして攻撃してくる のです高い位置から石を浴びせてきたり 上着を脱がせてベルトで打ったりと 出会い頭に暴力を古います先生に言いつけ てもうどころかさらに叱られるため政治犯 の子供は見つからないよう逃げるしかあり ませんでした10歳になると人民学校を 卒業して高等中学校に進学し同時に母と 別れて寄宿者で暮らすこととなります寄宿 者での暮らしでは一部屋あたり最大30人 ほどで営む共同生活です朝5時半に気象し て掃除と朝食を済ませ7時半には学校に 行きます帰宅して夕食を食べたら友人と 雑談をしたりを満たしにカエルやネズミを 取りに行ったりします21時から1時間は 生活話として今日の仕事で自分が犯した 失敗について自己批判し同級生の失敗を 批判しますそれが終わり次第就寝で睡眠 時間は意外としっかり取れたようです学校 では何を学ぶのかと言うと実は学校とは名
ばかりで授業も教室もありません学生は草 や声ため運び農村支援といった仕事のみに 従事させられます夏休みや冬休みなどは もちろん存在せずその時々で指示された 仕事をひたすらにこなしまし た1996年4月6日の朝トヒが作業に 出ようと準備をしていると担当教師に急な 呼び出しを受けます理由も分からずに手錠 をはめられエレベーターで地下韓国の 取り調べ室に連行された彼は母と兄が脱出 しようとして捉えられたことを知らされ 保員はドが母と兄の脱走に1枚噛んでいる と怪しんでいるのですドヒが何も知らない と答えても信じてもらえずその日から彼は 地下韓国に習慣されることとなりました 最初のうちは丁寧に取り調べが行われまし たが3日目になると足首をロープで縛って 1日中逆さにぶら下げられます4日目に なると肛門室に連れて行かれ手足を縛られ て火炙りの拷問を受けましたひどい火傷を 追った状態で独房に3週間近く放置され ましたが別の囚人による解放のおかげで 徐々に回復に向かいます独房に習慣されて 約7ヶ月後出獄を命じられたドヒが最初に 連行された取り調べ室に入ると同じように 拷問を受けた父の姿がありました2人は 地下韓国の存在を絶対に外部に漏らさない という制約書を欠かされ奇跡的に解放され ますどうやら冤罪であることが分かって もらえたらしいアドしたドですが解放され てすぐ車で連行されたのは公開処刑が行わ れる空地でした公開処刑の対象は母と兄 です脱走を立てた罪により母は公主刑で兄 は銃殺系によってあっという間に命を奪わ れました処刑の様子を見る父は涙を流して いましたが不思議なことにドは全く涙が出 なかったそうですこの出来事は後に彼に 大きな婚を残すこととなり ます家族が公開処刑されてからというもの 周囲の風当たりが露骨に強くなりました 担当教員には真冬に薄着で6時間も正座さ せられたり傷が完治していない状態で重 労働に駆り出されたりし反逆者の家族とし て罪を継ぐと何度も激atされました教員 がドヒに辛く当たるためそれに便乗して 同級生の態度も変化します授業で少し回答 を間違えただけで教員の命令を受けた同級 生全員に殴られたり特に理由がなくても 言葉や肉体での暴力にさらされました地獄 のような学校生活は教員が変わったことで 終わりを告げます新しい教員は非常に親切 でドヒを攻撃する同級生を静止した上に 時折り食堂に連れて行ってザパをご馳走し てくれたのです少しずつ元の生活に戻って いったドでしたが自分をこのような目に
合わせた母や兄の像そして自分を産んだ父 を否する感情は根深く残りまし た高等中学校を卒業したドヒが最初に配属 されたのはト社です東社では約200人が 働いており掃除や豚の餌やりなどに従事し ました当社の食料配給は他の職場より少し 恵まれており資料用のトウモロコシを隠れ て食べることもできます作業長からの体罰 も比較的控えめで仕事をして余った時間を を急速に当てることもできたため管理所で の生活の中で最も楽な仕事だったそうです 卒業生の60から70%は危険で過酷な 炭鉱に配置されるためトヒは非常に運が 良かったのでしょう炭鉱は事故のリスクが 高い上に7割ほどが肺病などの病気に かかり40代で命を落とすと言われてい ますもしドヒが炭鉱に配属されていれば 脱出する肉体的な余裕などなかったかも しれません 東社で4年半働いたドヒが次に配属された のは法制工場でしたそこで出会ったのが パク4チョルという男です40代半ばの 中年男性でドヒは先に配属されていた先輩 として教育係りに任命されます仕事を 教える傍で雑談を交わしていくにつれて パクという男が自分とは全く異なる人間で あることが分かってきました彼は元々 ぴょんで暮らす行為幹部で1997年の 香港変換時には随行秘書としてキム ジョンイルと握手を交わしたこともある そうですところが人間関係の悪化を気に 行為職を知り妻の親戚を頼って中国に渡り ましたそこで1年半ほど生活し選挙に参加 するために北朝鮮に帰国したところ逮捕さ れて管理所に習慣されたと言います海外 渡航経験のあるパの話は管理所の世界しか 知らないドのの好奇心を強く刺激しついに は2人で管理場を脱出しようと考えるよう になりましたもし母と兄の公開処や管理所 での苦しい生活がなければトヒは北朝鮮を 批判したパを保衛員に密告していた でしょう北朝鮮の外の世界でいい暮らしを してみたいその一心でトヒはパクトの管理 所脱出計画に賛同しまし た脱出を決行したのはトヒが23歳になる 年の20055年1月2日です本来その日 は休日でしたがセメント工場の裏山で木の 伐採を命じられていましたそこから電気 鉄蔵文を抜けて国境を越え中国に住むパの 親戚の家に行くという計画ですこれを計画 というにはあまりにもずさんで単なる希望 的観測に過ぎなかったと後のドヒは語って います脱出に成功した他の脱北者曰トヒの いた管理所はあまりに警備が厳しく脱出の 可能性は夢にも考えられなかったそうです
自動火器を携帯している保衛員に打たれる 危険もありましたが2人はその可能性を 根拠のない憶測で否定していました2人に は高圧電流が流れる鉄井網をどうやって 抜けるか管理上を脱出した後にどのルート で国境を超えるかなどの問題についても 完全に無作でした当日を迎えても寒さに 備えて普段より服を多めに着込む程度で 脱出のための特別な準備は一切ありません でしたドヒの見立てでは脱出できる可能性 は10%程度でしたが外界への憧れが最 好調に達した彼はその可能性にかけること に何のためらいもありませんでし た脱出の血行日2人は木を伐採する仕事を 進めながら慎重に機械を伺います日が暮れ て自分たちへの監視がないことを確かめた 2人はフェンスに向けて一気に走りました 始めはじいたパをが引っ張る形でしたが 途中でドが凍結した地面で滑って点灯した ことでパが先にフェンスまでたどり着き ます彼は地面に膝まいて一番下の有鉄線の 隙間に体を潜り込ませますが有鉄線に接触 してしまい激しい火花が散り肉の焼ける 匂いが立ち込めました動かなくなったパの 重みで有鉄線がたんだことで1段上の有 鉄線との間に大きな隙間ができますドは絶 代わりとしてパクの背中を乗り越えどうに かフェンスを抜けることに成功しました もしド局が先にフェンスまでたどり着いて いたら感電していたのはトヒの方だった でしょうパクはピクリとも動きませんでし たが彼を救い出す余裕も時間もなかった ドヒはそのまま山奥に逃げ込みました管理 場を脱出したドヒは逃走しながら行く先々 で食料を調達して監禁しワイルを駆使して 列車に乗りいくつもの検問をくりいきまし た多少なりとも経済的に余裕がある脱北者 はブローカーに依頼して韓国への移動手段 を確保しますが管理所の外に身よりが1人 もいないドヒは自分の力だけで国境を超え なければなりません唯一幸運だったのは 国内を大量の不労者が彷徨っていたこと です当時は大基金を経て経済や法律が機能 しなくなり生活困窮者が仕事や食料を求め て町を出歩いていました北朝鮮では国内を 移動するだけでも市民症が必須となります が社会の混乱によって規制が緩和され市民 症を所持していないドヒも移動しやすく なったのです不労者の波に紛れ込んだドヒ は1ヶ月ほど北朝鮮に潜伏した後に国境 警備兵を買収して中国に影響しました中国 に不法入国してからは職場を点々とし ながら働いてお金を稼ぎつつ中国後の習得 や脱北の情報収集を進めていきます 賃金こそ安かったものの肉をお腹いっぱい
食べて熱いお湯で体を清潔にでき温かい 毛布でぐっすりと眠ることができました 管理所の生活に比べると想像を絶するほど 贅沢な生活であり管理所の拷問や脱出の際 に追った傷も徐々に言えてきました中国で 捉えられた脱北者は北朝鮮に強制相関され ますがトヒを雇った中国人が彼を警察に 密告しなかったことも非常に幸運だったと 言わざるを得ませんそんなある日東局は 上海の朝鮮料理店に出入りする男と偶然 出会います男は韓国の大手メディアに勤務 する上海に駐在していた特配員でした事情 を把握した男の手引きによってトヒはその まま韓国領事館に駆け込みます中国に入国 して約1年半後トヒはついに韓国への脱北 に成功しまし たに脱北したドは脱北者支援施設の花員で 社会復帰に向けた学習にいみました1年間 中国社会に溶け込んで生活していたため 肉体的には至って健康でしたが問題は精神 面の異常です家族やパが命を落とす悪を 見るようになり不眠症になって自分の殻に 閉じこもるようになりました北朝鮮にいた 頃の名残りで自分以外の人間が信用できず 対人恐怖症に陥ってしまうのですこれは 程度の差こそあれほとんどの脱北者に見 られる症状でしたド局は精神病棟に移って 治療に専念し悪夢にうされる日が少しずつ 減っていきましたその頃から治療の一環と してこれまでの体験談を日記につけており カウンセラーの勧めを受け日記を主として まとめて出版することが決まります本は 3000部を印刷して500冊程度しか 売れず韓国人の脱北者への無関心査にドヒ は落胆しまし 知人が1人もおらず職場にもなじめなかっ た彼は経済的に困窮して韓国社会に 取り残されつつありましたしかし本の出版 を気にトヒは脱北者団体や人権活動家と 交流を始め完全統制区域から逃れた脱北者 として知名度を徐々に高めていきます 北朝鮮の強制収容所の存在をもっと多くの 人に知ってほしいそのような使命感を抱き 始めたドヒは北朝鮮人権保護団体の正体を を受けてアメリカに移住しました実際に 人権活動家としての活動を始めたドンヒは 大きな困難に直面します自分の過去と 向き合おうとするとストレス障害の症状が 再発しスピーチをする際は内容をはって 表面的な話しかできませんでしたそんな中 アメリカ人ジャーナリストがドヒの元を 訪れ北朝鮮での体験団をさらに詳しく描写 した本の出版を提案しましたドは9ヶ月 悩み抜いたにそれを承し本を完成させる ために2人の共同作業が始まりますしかし
その道のりは決してよいではありません でしたドヒは自分の過去に対する強い トラウマが残っているだけでなく互いに罪 を密告し合う環境で長期間過ごしてきた せいで未だに人を信じることができません でしたそのため面談では話が2点3点する ことが珍しくなくジャーナリストを度々 混乱させたのです情報統の強い北朝鮮の 強制収容所については脱北者の証言が最も 重要なソースであり内容の審理を検証する ことができません中には整形を立てるため に人権活動化などの意見に合わせ体験して いない逸話やまた聞きの情報を話すものも 存在しますただドヒの証言は冒頭でお伝え したアメチョルを始め他の脱北者によって 裏付けられ矛盾はないことが立証されまし たこうした取り組みのに管理所や脱北の 体験団をより国名に記した本が出版され 国内外で大きな反響を呼びましたこの本で ドヒは彼が韓国に入国してからずっとつい てきた嘘について告白していますそれは母 と兄の処刑についてでしたドヒは母と兄の 脱出計画について何も知らないと証言し彼 の取り調べを担当した韓国政府もスピーチ を聞いた徴も最初に出版した本を読んだ 人々もそれを信じていましたしかし真実は 母と兄の脱出に感づいていたどころかドヒ こそ2人を密告した超本人だったの です高頭中学校に通いながら寄宿者で生活 していたドンヒは教師から許可を得て久し ぶりに母の家で食事を取りましたそこには 普段別の場所で暮らしている兄も珍しく 帰っていたのですが母と兄はトに隠れて 脱出を立てていたのです全ての話を盗み できたわけではありませんが兄が母に逃亡 計画を話し母はそれを引き止めようとし ませんでした管理所の規定には脱出の立て を目撃しながら通報しなかった場合即座に 殺するという項目が存在します兄が逃亡 すれば自分も巻き添えで処刑されるとっさ に危機感を覚えたドが信頼できる友人に どうするべきか相談したところ保員に密 するよう言われますすぐに2人はで夜勤を している保員に母と兄を密しましたこれで 自分がとばっちりを受けることはないと 思ったドですがどういうわけか翌日の朝に 地下韓国に連行され共犯者とみなされて 尋問を受けます後ほど判明したのですが 昨夜に密告した保衛員が手柄を独り占め するためトヒからの密告であることを上司 に報告していなかったのですこうしてドは 母と兄を密したにもかわらず拷問を受けて 約7ヶ月間も独房で過ごすはめになります 幸いにも日国に付き添った友人が無実を 証明してくれたおかげでドヒは韓国から
生きて解放されまし たこの出来事によってドヒは自分を生産な 目に合わせた母と兄を強く恨み脱北後は 2人に対する罪悪感に苛まれることとなり ます周囲からの避難を恐れてずっと真実を 隠してきましたが罪の意識がどうしても 消えず道徳的な人間になりたいと思い 打ち明ける決意を固めました許しをこう ためでも罪滅ぼしのためでもなく管理所が いかに人間の人格を歪めるかを伝えるため に彼は本当の意味で自分の過去と向き合っ たの [音楽] です労働力を確保するためだけに管理所で 生まれたドヒ両親の愛情を受けられず互い の失敗を密し合う環境で育った彼は憎で さえも信じることがで日国に走りました 囚人を肉体的精神的に抑圧するだけでなく 囚人同士を対立させて像を煽る管理所が いかに恐ろしい施設であるかが伺えます 北朝鮮の強制収容所での行いを外部のもの が理解してくれることで初めて自分の罪が あわれるのだとドヒは語りました当 チャンネルでは今後も挑戦関連の情報を 解説しますので動画を楽しんでいただけ たら高評価とチャンネル登録お願いします それではまた別の動画でお会いし [音楽] ましょう
29件のコメント
この世の地獄。
これはアニメ映画North Koreaの元になった体験談ですか?
通電している人間に触ると感電するってのは基本じゃないの?
ましてや高圧電流にさらされている人間を絶縁体にするなど噴飯ものの話。
笑ってはいられない一生
正直こんなこと続けてたら労働者減って国が崩壊しそうだけどね
アフリカと違って数も食料も少ないし
水豊ダムや野口遵氏についてまとめた動画も出してほしいです。
野口遵氏は日本時代の朝鮮でも活躍された実業家で、国歌に歌われている通りの豊富な資源を活かした重工業コンビナートを多数整備し、国章にも描かれている水豊ダムも野口遵氏の日窒コンツェルンの出資によって建造された東洋一のダムです。
野口遵氏がもしも健在で北朝鮮の将軍になれば、北朝鮮は今頃、韓国に勝るとも劣らない先進国になっているでしょう。
コメントも大概しょうもねぇ
この人は再現ドラマ見たことあるけど級友が事故で死傷したりとかが日常だったらしい。
あと再現ドラマの撮影の監修のためにロケ現場に現れて子役たちに「これは作り話ではなく本当にあったことです。収容所にいる子どもたちを助けるために協力してください」とスピーチしたんだな。
保衛員のガキも最底辺だけどな🎉
この不幸な人達を助けるのはどうずればいいのでしょうか?涙涙涙です😿
こういう世界が日本のすぐ隣の国で起きているということに背筋が凍る
AIイラストかなるほど
一番驚いたのはドンヒョクさんがまだ41歳だったと言う事
それにしても今は一体黒電話は何号なのでしょうか?
今この瞬間にも信じられない環境のなかで生活してる人たちがいるんだよな。。日本に生まれて良かったとか言ってる場合じゃないけど何も出来ない自分。もどかしい。
このチャンネルいつも見てます。これからも勉強させていただきます🤔
こんなにも残酷な世界が小さな海を隔てた先にあるとは。
なんちゅう世界なんだろうか…ため息しか出ない
日本に産まれてよかった
なんとか、北朝鮮の人を救ってあげたいけど…
北朝鮮だけはどうにもならない
金一族が他国の手によって滅びるしか手立てがない…
素晴らしいチャンネルです。応援しております。
北朝鮮の地方の貧困国民もあんまり変わらん生活してそう
イラストがうますぎる!
衝撃のラスト
でも…そうするしかなかったんだよね…
日本も人殺したり騙して詐欺
した人達入れて3等親連鎖性にすれば犯罪なくなるけどな
ドンヒョク!ラッキーな人だ!👏👏👏
満足感すごい。ドラマじゃん!ノンフィクションだけど
この施設に比べたら、日本の刑務所は快適過ぎる😂
地下鉄でみて、泣きそうになりました。
この申東赫(シンドンヒョク)という人物の証言を何の疑いもなく
額面通りに信用しない方がいい。まず彼が収容されていた管理所は
14号管理所(完全統制区域)ではなく18号管理所(革命化区域)でした。
そして彼は何度も中国への脱北を経験しており外の世界も知っていた。
彼の脱北後に行われた証言では経緯に数々の矛盾点が指摘されており
後に申東赫(シンドンヒョク)本人も「虚偽の内容だった」と認めている。
ドンヒョク君には運も味方したんだね。