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南天棒老師こと、中原鄧州老師は、修行時代には二十四名の老師方に歴参し、更に師家となって南天の棒をもって、天下の老師方を点検してまわったというから、いかにも豪傑な方でいらっしゃいます。
しかし、その豪快な反面、綿密なところも当然ございます。
『南天棒禅話』には、
「慢心は室内の禁物」
という一章があります。
室内というのは、禅問答をする部屋のことで、禅の修行をさす言葉です。
禅の修行においてのみならず、お互いの人生を生きていくには、慢心は禁物であります。
そのあと南天棒老師は、
「『下るほど人は見上げる藤の花』。
へりくだる者幸いなり。天はその者の有なればなり。
謙遜は進歩を意味す。
下問を恥ずるの師家はとてもよい子はできぬ。」
と書かれています。
「下問を恥じず」という言葉があります。
「下問」というのは「目下の者に物事を質問すること。下聞。」であります。
「下問を恥じず」で、「知らないことを目下の者に問うことも恥とはしない」という意味ですが、もとは論語にある言葉です。
『論語』に
「子貢問うて曰わく、孔文子、何を以てかこれを文と謂うや。
子の曰わく、敏にして学を好み、下問を恥じず、是を以てこれを文と謂うなり。」
という言葉があります。
岩波文庫の『論語』にある金谷治先生の現代語訳を参照します。
「子貢がおたずねした、
「孔文子は、どうして文という(おくり名)なのでしょうか。」
先生はいわれた、「利発なうえに学問好きで、目下のものに問うことも恥じなかった。だから文というのだよ。」」
という話です。
この「孔文子」というのは、岩波文庫の註釈によると、「衛の国の大夫。姓は孔、名は圉(ぎょ)。文子は死後のおくり名。」であります。
後輩であろうと、若い者であろうと、謙虚に聞くことは大切であります。
はじをすて人に物とひ習ふべし 是ぞ上手の基なりける
とは利休道歌にある和歌であります。
更に南天棒老師は、
「道ばたのむくげは馬に食われけり。
「増上慢の人退くもまた佳なり」(増上慢人退亦佳矣) じゃ。
山上なお山あり、先入主となる(先入為主)で、己惚(うぬぼれ)とかさけのない者はないというではないか。
意外のことがあるものじゃから、遼東の豚と思うても馬鹿にしてはならぬぞ。」
と説かれています。
「道ばたのむくげは馬に食われけり」は芭蕉の有名な句です。
ここでは出る杭は打たれるという意味合いに用いていると思われます。
「増上慢の人退くもまた佳なり」は『法華経』にある言葉です。
お釈迦様が、『法華経』を説こうとした時、五千人の増上慢の人たちが、聞こうとせずに立って去ったことをいいます。
「増上慢」はもともと仏教語で「まだ悟りを得ないのに、得たと思ってたかぶること」です。
そこから「実力が伴わないのに自慢すること」を言います。
「山上なお山あり」は、唐の孟遲の詩「閨情」の冒頭の句です。
「山上、山有り、帰るを得ず」とあります。
この詩については、『南天棒禅話』の別の章で解説されています。
南天棒老師の解釈の一部を抜粋します。
「山上山あり帰ることを得ず」。
「夫の身の上を思うて、あちらこちらに浮かれ歩いて、帰家穏坐、家庭の趣味を味わうことなきあわれさよ。 公案の途中に迷いこんで、行けば行くほど遠くなる。」
「湘江の暮雨鷓鵠飛ぶ」。
「川の流れはいと静かじゃ。それに日は暮れる。雨は降る。
おまけに鷓鴣めが…啼いておる。
今頃はどこにどうしてござるやら。案じられたものじゃわい。」
「糜蕪もまたこれ王孫草なれ」。
「人が慰めて、そのうちに帰って見えますというけれど、どうも迷いが深い人ゆえ案じられてたまらぬ。
公案ばかりあさり歩いても、果てしない。」
「春香を送って客衣に入らしむるなかれ」
「やすざとりの香を嗅いで、これでよいと思わるると、ますます浮かれ歩いて万劫帰っては来ませぬ。」
先入主となるとは、「先に覚えたことが固定観念となり、それがあとの思考を束縛する」ことです。
先入の観念が思考を拘束してしまうことです。
「遼東の豚」は「遼東の豕」として『広辞苑』に出ています。
「[後漢書(朱浮伝)]
(遼東では珍しい白頭の豚も、河東では珍しくないということから)
世間ではありふれていることを知らずに自分一人が得意になることのたとえ。ひとりよがり。」
のことであります。
自分はまだ十分ではない、まだまだ知らないことばかりだと思って、謙虚に道を学ぶことは大切なのであります。
『南天棒禅話』には、その当時の禅僧たちの逸話もあれこれと書かれていて興味深いものです。
独園禅師の話なども書かれています。
荻野独園禅師は、一八一九年の生まれで、一八九五年に亡くなっている、相国寺の老師であります。
南天棒老師よりは二十年年上です。
南天棒老師も「独園は大拙の法子で、だいぶよいところがあった」と書かれています。
そのあと、
「あるとき同志社の耶蘇の壮士が首をもらいに来た、と突然やって来たとき、おやすい御用じゃ、さあ、もってゆけ、と首をさしのべた。
無功用の働きは、実にみあげたものだ。」
という話を書いています。
明治の動乱の時期には、そんなこともあったのかもしれません。
こんな高い禅僧の心境を思うと、まだまだ足らないと慢心も減るのであります。
横田南嶺
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